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罪の街

 真幌駅から歩いて一時間ほどの場所に、巨大な廃墟がある。かつては国内でも有数の大病院であったのだが……医療ミス、その隠蔽、さらに経営者の贈収賄というスキャンダルが相次ぎ……病院は閉鎖された。その後、病院再開の話もあったのだが頓挫した。取り壊すにも莫大な費用がかかる……そのため、現在に至るまで建物自体は残されている。立ち入り禁止のロープが張られ、扉には鍵がかけられているが、中に侵入するのは簡単だった。


 その廃墟と化した建物の中で、小林綾人はふうと一息ついていた。これからどうすればいいのかは、まだ考えていない。しかし、とりあえず今は雨風を凌ぐ場所がある。これは非常にありがたい話だ。

 そして綾人は懐中電灯を片手に、リュックの中身を入念にチェックしていた。時刻は夜の十時であり、外は既に暗くなっている。かつて窓があったはずの場所から洩れてくる、わずかな月明かりや星明かりだけが室内を照らしている。

 出来れば、もう少し強い明かりが欲しいところだが……万が一、明かりの点いているところを外から見られたら、非常に厄介なことになる。警察にでも来られたら終わりなのだ。本来なら、ここは立ち入り禁止の場所なのだから。

 綾人は慎重にリュックの中身をチェックし、床の上に並べていった。カップラーメンや缶詰めなどの保存の利く食品はあるだけリュックに詰め込んでおいたのだ。かなりの重さになっていたはずだが、ルイスは文句も言わず、無表情でそのリュックを担ぎ、ここまで歩いて来た。見た目と違い、ルイスの体力は本当に人間離れしている……これまで、どんな生活をしていたのだろうか。常識はゼロに近いが……喧嘩の強さは異常だ。いや、喧嘩などと呼ぶようなレベルの強さではない。ルイスの強さは、もはや野生動物並みだ。

 そのルイスは、妙に落ち着いた様子でじっとしている。中は暗いため、どんな表情をしているのかは見えないが……。

「ルイス、お腹すいてないかい?」

 綾人が尋ねると、ルイスの頷く気配がした。

「うんすいた」

「じゃあ……」

 言いかけて、綾人はその時に気づいた。カップラーメンはお湯がなければ食べられないのだ。となると、今は缶詰めくらいしか食べる物がないことになる。

「ルイス、缶詰め食べるかい――」

「後でいいよ。ここは人が死んでる。大勢死んでる。死んだ人の声聞こえる」

 不意に呟いたルイス。綾人はぞくっとするものを感じ、思わず辺りを見渡した……だが、綾人の目には何も見えない。考えてみれば、ここはかつて病院だったのだ。人が死んでいたとしても不思議ではない。

 それにしても、ルイスには驚かされることばかりだ……公園での喧嘩の時、綾人が止めなかったら、ルイスは全員の命を奪っていたのだろうか。幼い子供のような無邪気さを持つルイス……だが、そんな無邪気な少年だからこそ、殺人に何のためらいもないのかもしれない。

 そんな少年だからこそ、死者の声が聞こえるのかもしれない。

 その時、綾人の頭に一つの考えが浮かんだ。


 何のためらいもなく、人を殺そうとしたルイス。

 ルイスは今までに、人を殺したことがあるに違いない。

 そんなルイスなら、わかってくれるのかもしれない……。

 ルイスになら、打ち明けていいのかもしれない。


「ルイス……俺は人を殺したんだ。それも、自分の母親を……」

 気がつくと、綾人の口からそんな言葉が漏れ出ていた。

 そして、いったん漏れ出た言葉は止まらなかった。「俺の母さんは……若い男と付き合ってたんだ。金をせびるような男と……俺は最初、黙っているつもりだった。二人の間のことだし、俺に口出しする権利はない。でも……」

 ある日、偶然に見てしまった小林喜美子と中村雄介の逢瀬。

 さらに……その後も続いているらしい二人の関係。

 綾人は我慢できなくなっていたのだ。母が、自分と大して歳の変わらない男と遊んでいるのかと思うと、二人に対して心底からの嫌悪感を抱いた。だが同時に、もし母が真剣な気持ちであるならば……その邪魔はしたくないという思いもあったのだ。母は女手一つで自分を育ててくれたのだ。ならば、この先は誰かと再婚して、自分の幸せを掴んで欲しい。

 しかし、中村との関係に待つものは……どう考えても、母が幸せになる未来ではなかった。


 そして、あの日……。

 綾人は気分が悪いため、仕事を早退することとなった。

 だが、家に帰ってきた綾人が見たもの……それは、母から金をせびろうとしている中村雄介の姿だった。


「ルイス……俺はね……二人を殺したんだよ。中村雄介と……母さんを……この手で殺した……俺は悪人なんだ……極悪人だ……俺みたいな……クズは……死んだ方がいいんだ……」

 綾人はもはや、感情を押さえることが出来なかった……涙が溢れ、滴り落ちていく。

 すると、肩に手が置かれた。

「綾人はクズじゃないよ。綾人は優しいよ。綾人はおにぎりくれた。綾人はパンくれた。綾人はお茶くれた。綾人はルイスを家に泊めてくれた。綾人はルイスにおにぎりの食べ方教えてくれた。綾人は――」

「もう……いいよ……」

 そう言いながら、綾人は顔を上げる。目が暗闇に慣れてきて、ルイスの顔が少し見えるようになってきた。ルイスの顔は、優しく微笑んでいる。綾人に対する、純粋な親愛の情に満ちた表情だ……綾人はようやく、憑き物が落ちたような気がした。

 そして、ルイスは口を開いた。

「綾人は一番優しかった。綾人はルイスを助けてくれた。だからルイスも綾人助ける。ずっと綾人の味方だよ」

「ルイス……ありがとう……」

「いえいえどういたしまして」


 ・・・


「なあ上田……確認のためにもう一度聞くが、お前はルイスと仲良くやってたんだな? ルイスはお前に懐いてた、と?」

「はい! 私は、ルイスとはとても仲良かったです。ルイスとは色んなことを話しました!」

「あと、もう一つ。二人組がいきなり部屋に入って来てルイスをさらって行った……これも、間違いないんだな?」

「は、はい!」

 上田春樹は大きな声で返事をする。だが内心では、いささか辟易していた。昨日から、何度も同じことを聞かれている。これは一体、どういう訳なのだろうか……。

 もっとも、今の春樹はラエム教の施設に監禁されている状態である。言うことを聞くしかないのだが。


 しかし、その疑問はようやく解けることとなる。

 目の前には、スーツ姿の冷たい表情を浮かべた男がいる。その男は春樹をじっと見つめた。

 ややあって、口を開く。

「上田……お前と一緒にルイスを見張ってた、佐藤浩司とかいう奴はどうしてたんだ?」

「佐藤ですか? 佐藤は……知りませんね。私が部屋を出た時には、まだ居ましたが……ぶるぶる震えてましたよ」

 まことしやかにデタラメを言う春樹。一度ついた嘘はつき通す、それが春樹のセオリーであった。春樹という男はこれまで、嘘とデタラメで世の中を渡って来たのである。実際の話、今まではそのやり方で通用してきたのだ。

 だが、そんな春樹のセオリーを揺るがす事態が起きようとしていた。


「上田……お前は知らないようだから教えてやる。佐藤は殺されたぞ……二〜三日くらい前だが、バラバラ死体になって発見されたんだよ」

「……はい?」

 春樹は一瞬、相手が何を言っているのかわからなかった。だが、その言葉の意味を理解すると……。

 顔色が一気に変わる。そして額からは汗が吹き出した。この事態は、春樹の想像の斜め上を行っている。ただただ呆然としていたのだ……。


「桑原徳馬の子分だった佐藤浩司は、バラバラ死体で発見された……桑原は、俺たちの仕業だと思ってやがる。俺たちがルイスをさらい、その時に佐藤も一緒にさらって殺したんじゃねえかと、な。だから、お前の方からきっちり説明して欲しいんだよ、あの部屋で何があったかを。二人組がさらったのはルイスだけで、お前が最後に見た時、佐藤は部屋でピンピンしてたと……ん? お前、顔色悪いなあ。どうしたんだ?」

 言いながら、男は春樹の顔を覗きこむ。何かに気づいた表情だ。

 一方、春樹は激しく動揺していた。まさか、そんなことになっているとは……これは、完全に想定外である。自分のキャパシティを超えている事態た。

 しかし、誤魔化さなくてはならない。ここでもし、自分が嘘をついていることを知られたなら……確実に消される。

 ひたすら嘘をつき通すのだ。そう、今はチャンスなのである……桑原徳馬とラエム教は一触即発の状態であるらしい。どうやら、桑原は佐藤の死にラエム教が関係していると思っているようだ。もっとも、状況からしてそう判断するのは当然なのだが。

 そしてラエム教側としては……自分たちの仕業ではない、ということを証明したいはずだ。となると、そこに春樹を生かしておくメリットが出てくる。春樹は目の前の男に、二人組が連れ去ったのはルイスであると言ったのだ……実際に連れ去られたのは佐藤なのだが。しかし、その嘘が結果的に春樹を救うことになるかもしれない。

 今はただ、そこのほんの僅かなチャンスに賭けるしかない。


「おい上田……お前、まさか嘘ついてるんじゃないだろうな?」

 そう言いながら、男は顔を近づけて来る。春樹の態度に違和感を覚えたのだろう……ならば、自分が何故こんな態度をしているのか、その理由付けをすればいい。

「う、うわああああ! そんな! 佐藤さんが死ぬなんて! そんなあ! 嘘だ! 嘘だああああ!」

 いきなり叫びだした春樹……同時に、椅子に座らされた状態で泣きじゃくる。目の前の男も、さすがに戸惑っているようだ。

 だが、男もただ者ではない。いきなり叫びだした春樹の襟首を掴み、絞め上げる。春樹は一瞬にして、呼吸困難な状態に陥った。必死でもがく春樹。と、男が耳元に顔を寄せる。

「上田……まず、黙れ。わかったな?」

 春樹は必死の形相で頷いた。すると力が緩み、呼吸が楽になる。それにしても恐ろしい腕力だ。春樹はどうにか呼吸を整え、頭を働かせる。

 男は言葉を続けた。

「さっきも言った通り、桑原は完全に頭にキちまってる……奴は、俺たちの所に戦争仕掛けてきそうな勢いだよ。だがな、桑原ん所とウチが戦争しても、得する奴はいない……もう、ドンパチやる時代じゃねえってことだ。戦争は、本当に愚かな行為だ」

 どこかのドキュメンタリー番組に使われそうな言葉で締めた後、男は笑った……しかし、目は笑っていないが。


「そこでだ……上田、俺はお前に事情を説明してもらいてえんだよ。桑原は頭はキレるが、同時に身も心もヤクザだ。やられたらやり返す……子分の佐藤をバラバラ死体にされたとなりゃあ、確実に報復してくるだろう。だが、さっきも言った通り、奴とウチが戦争しても、お互いに損するだけさ。それよりも、お互いに協力しあって……このラエム教を食っちまった方がいいんじゃねえかと思うわけだよ」

「え……あなたはラエム教の人じゃ――」

「厳密には違う。ラエム教に雇われたトラブルシューター……みたいなもんだ。こんなインチキ宗教、ただの金づるさ」

 そう言って、男は歪んだ笑みを浮かべた。

「俺の名はリューだ。中国と日本を行ったり来たりしてる。いいか上田、俺の言う通りに動くんだ。でないと……死なすよ」


 ・・・


 西村陽一が目を覚ました時、既に夕方近くなっていた。こんなに長い時間、眠っていたのは久しぶりだ。昨日は、僅かな間にやらなくてはいけない事があまりにも多すぎた。拉致、監禁、様々な疑問とそれに対する答え。

 そして……殺人と死体処理。


 寛いでいる陽一の携帯電話が震える。夏目正義からだ。

「どうも、夏目さん。昨日はすみませんでした」

(いや、いいよ。それより、今から会えないか?)

「今からですか……構いませんよ」

(じゃあ……この前のカラオケボックスの前に来てくれ)

 心なしか、夏目の声には冷たさが感じられた。


「陽一……昨日は何をしていた?」

 カラオケボックスの室内に入ると同時に、質問してきた夏目。その表情は普段と違い、ひどく堅いものだった。

「急用です。それ以上のことは言えません」

「急用、か……」

 夏目はじっと陽一を見つめる。何かを見抜こうとしている目だ。だが、陽一は視線を外す。そのまま下を向いた。

 ややあって、口を開く。

「夏目さん……あなたの推理は恐らく当たっていますね。小林喜美子と中村雄介は、もう死んでいますよ。殺したのは、息子の小林綾人でしょう。ただ、警察を動かすとなると面倒ですね……今のところ、殺人の証拠もないですし。で、夏目さんに聞きたいのですが……あなたは、この件にどう決着をつけるんです?」

 言いながら、陽一は顔を上げた。夏目の顔を見据える。

「決着? それは――」

「夏目さん、あなたにこの件を依頼したのは……両親じゃないですよね?」

 陽一の言葉を聞き、夏目は眉をひそめる。恐らくは動揺しているのだろうが、おくびにも出さない。

「なるほど……どうやって調べたのかは知らないが、さすがだな。しかし、依頼人に関しては……俺の口からは何も言えない。そして決着だが、俺は綾人に罪を償わせたいんだよ」

「何のために?」

「あいつは罪を犯した。そして弱ってる……綾人は罪を償うべきなんだよ。綾人のことをいろいろ調べたが……悪い奴じゃない。いろんなタイミングが重なった結果、殺人を――」

「そんなのは、言い訳ですね。いや、言い訳にもなりませんよ。あいつは母親殺し……それだけです」

 夏目の言葉を、冷たく一蹴した陽一。すると、夏目の表情が険しくなった。

「陽一……お前の口からそんな言葉が出るとは思わなかったぜ。お前だって、奴と立場は同じじゃないのかよ……」

「俺は母親は殺してませんよ。それに、母親とその愛人を殺した綾人が、どんな人生を歩むことになるか……あなたに分かりますか? 綾人はこの先、一生苦しみ続けるんですよ。その結果、自殺するのは綾人の自由です。さらに言うなら、綾人を逮捕し、犯した罪を罰するのは司法の仕事だ。しかし、その司法が綾人をほっとくのであれば、俺は関わりたくないですね。俺は一般市民じゃない」

「……なるほど。それがお前の考えか」

「そうです。夏目さん……あなたは、この件から手を引くべきです。これはもう、綾人一人の問題じゃなくなってる。色んな奴らが好き勝手に動いた結果、おかしな化学反応が起きました。事態はとんでもない方向に動き出してるんですよ。今や、新興宗教とヤクザ……そして裏の始末屋が動いてるんです」

 冷静な口調で、淡々と話す陽一。すると、夏目の表情がまたしても変化する。驚愕の表情を浮かべ、陽一を見つめた……。

「それはどういう意味だ? 陽一……お前は一体、何を知ってるんだ? そして何をしようとしている? お前は――」

「あなたは知らない方がいいです。これ以上深入りすると……こっちの世界に足を踏み入れることになりますよ。その覚悟が、あなたにありますか?」

「……」

 黙りこんでしまった夏目……彼もまた、それなりに裏の世界を垣間見てきているのだろう。陽一の言わんとするところを、僅かながらも理解したようだ。

 そして、迷っているのだ……。

「夏目さん……俺は昨日、人を一人殺しました。そして、死体を焼却炉で灰に変えました。一人の人間が存在していた証拠を、俺は全て消し去ったんです。俺みたいな、人間を辞めた化け物の蠢く異世界に、あなたは足を踏み入れる気ですか? ここから先は俺たちの世界です。あなたの居るべき世界じゃない」

 自嘲気味に言ってのけた陽一の表情は、ひどく虚ろなものだった。


 ・・・


 虚ろな表情で、テレビの画面を見つめる坂本尚輝。今の尚輝にとって、全く意味を成さない声が聞こえている。そして、何者かもわからない者たちが右往左往している様子を、尚輝はじっと眺めていた。


 昨日、どうやって帰ったのか……はっきり覚えていない。気がついてみたら、泥のように眠っていた。

 そして、目が覚めてからも夢見心地のままだ。何も食べず、何も飲まず、じっとテレビを観ている……何が放送されているのかも不明の番組を。


(ゆ、許してくれぇ! 殺さないでくれぇ!)


 気がつくと思い出す、あの光景……尚輝は涙と鼻水を撒き散らしながら、恥も外聞もなく土下座した。

 自分の子供くらいの少年に対して。

 殴ることも……殴られることもせずに。


「クソがぁ!」

 思いもかけず尚輝の口から洩れ出た、怒りの咆哮……そして体は震える。恐怖ではなく、怒りのために。


 落ち着け。

 俺は四十過ぎたおっさんなんだよ……。

 もうボクサーじゃねえんだ。

 あのルイスってガキは普通じゃない。

 本気で殴り合ったら、確実に俺が負けていた。


 尚輝は自分を落ち着かせようとした。そう、自分はおっさんなのだ。喧嘩で負けたからといって、恥じることなどない。自分はもう若くない。喧嘩で逮捕されたとしたら、そちらの方がよっぽど恥ずかしい。


 だが、気分は晴れなかった。

 今の自分には、何もないのだ。地位もなく、妻も子もなく、富も名誉もない。そんな自分が、失うことが出来る物……それは命くらいしかないのだ。


 本当にそうか?

 俺はあの時、僅かなプライドまで捨ててしまったんじゃないのか?

 あのガキと、闘うことすらせずに謝ってしまった俺は……。

 俺は何なんだよ?


 尚輝は立ち上がった。拳を固め、虚空に鋭いパンチを繰り出す。左のジャブ、右のストレート。風を切るような音、そして拳に伝わる全身の力……尚輝は昔のように、一心不乱にシャドーボクシングを始めた。まるで、昔の自分に戻ろうとしているかのように。


 そう、かつて尚輝がプロのボクサーだった頃……試合前は怖くて怖くて仕方なかった。逃げ出したいほどの恐怖と戦いながらも、それを克服してリングに上がっていたのだ。試合前の恐怖、これは怒りの感情に任せて始まる街のチンピラ同士の喧嘩では、決して起こり得ないものなのだ。

 ボクサーに限らず、プロの格闘家は皆、試合前には恐怖に襲われる。その恐怖に負けてしまう者も少なくない。

 しかし、現役時代の尚輝はその恐怖に負けなかった……恐怖を克服してリングに上がり、相手をマットに這わせてきた。試合前に恐怖を感じた時は、自分にこう言い聞かせてきた。

 勝とうが負けようが関係ねえ。リングの上で、やれるだけのことをやるだけだ、と。

 だが、昨日の有り様は……。

 恐怖に震え、怯えるだけだった。

 そして尚輝は思った。自分にはもう、何も残されていないはずだった。ボクサーとしての栄光を失った時点で全ては終わった、と。しかし、心のどこかに残っていたのだ……ボクサーとしての誇りが。

 だが、その誇りすら失ってしまったのだ。


 取り戻そう……。

 自分の誇りを。


 シャドーボクシングを続けているうち、いつの間にか汗が滴り落ちていた。それでも、尚輝は動くことを止めない。虚空に向かい、拳を打ち出す。左ジャブ、右ストレート、左フック……パンチのコンビネーションを放っていく。汗を流しながら、己の心の中で蠢いているものと真正面から向き合い、その声に耳を傾ける。


 もう、鈴木良子も佐藤浩司もどうでもいい。

 バラバラ殺人など、自分の知ったことではない。

 あの二人と、もう一度向き合い話を聞く。

 場合によっては、あのルイスと闘う……。

 今度は、何があろうと絶対に逃げない。たとえ殺されたとしても、最後まで闘い抜いてやる。

 そして、失われた誇りを取り戻すんだ。

 だが、どうやって奴らを探す?


 尚輝は手を止めた。あの二人は何処に行こうとしていたのだろう。親戚か、あるいは友人の家か……。

 その時、綾人の言葉を思い出した。


(ルイス……ここからしばらく歩くと、病院の跡地があるんだ。今からそこに行こうか)


 病院の跡地……確か、徳川病院とかいう大げさな名前の潰れた病院があったはずだ。あの商店街から、一時間ほど歩いた場所にあった。かなり巨大な施設だったはず。身を隠すにはもってこいだろう。

 もちろん、二人が今もそこにいるかはわからない。だが、今のところ手がかりはそれしかないのだ。

 ならば、そこに行ってみよう。行って、小林綾人から話を聞く。

 そして、場合によっては……。

 ルイスと闘う。







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