雨降る夜に
1
目覚めると、騒々しい蝉の鳴き声の代わりに激しい雨音が聞こえた。
梅雨明けから猛暑になって一滴の雨も降らなかったので、雨音を聞いたのは
久しぶりだ。部屋の中は真っ暗だった。枕の脇の携帯を見ると、七時を少し回
っている。部屋の電気をつけないまま、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注ぐ。
冷蔵庫のオレンジ色の光が消えると部屋はふたたび闇に沈んだ。暗いと思う。
雨が降ると、その暗さがいっそう際立つ。縦長で東に窓があるだけのワンルー
ムマンションの俺の部屋は、空気がいつもどんよりと重苦しく澱んでいた。
エアコンをつけて部屋の湿気を和らげることはできても、この何ともいえな
い陰鬱な雰囲気を追い払うことはできない。
―どうせ寝に帰るだけだ
職場に近くて、家賃がそこそこ安いというだけで決めた住まいだった。
ある小さなビジネスホテルのフロントの夜間業務、それが俺の仕事だ。勤務は
隔日で、夜勤の日は朝七時に仕事から解放されるとアパートに戻って、昼間の
勤め人たちが出勤している頃には、遮光カーテンを閉めた部屋でベッドに潜り
込む。目覚めるのはたいてい夕方だった。だから二十四時間カーテンを閉めっ
ぱなしということも多い。部屋の空気がいつもじめついているのはそのせいも
あった。
不規則な睡眠のせいか、寝起きはいつも体がだるい。シャワーでも浴びれば
すっきりするのだろうがそれもかったるくて、再びベッドに体を投げ出してい
ると携帯が鳴った。
「もしもし」
「俺だ」緒方の太い声が聞こえた。
「どうした。久しぶりだな」
「今からそっちへ行ってもいいか」
いきなりそれだけ言って電話を切ると一分もたたないうちにチャイムが鳴、
った。
「直接来りゃあいいのに」
「寝てたら悪いと思ってな。いちおう気を遣ったんだ。これ、コーヒー」
そう言いながらテーブルの上にコンビニの袋を置く緒方は、びしょ濡れだっ
た。俺は洗面所からタオルを持ってきて渡すと、缶コーヒーのプルトップを開
けた。
「珍しいな。どうした」
「実はネットでちょっと面白い話を見かけたんだ」
2
俺と緒方は大学の同期だった。俺は昔から人付き合いが苦手で、彼女ができて
も長続きせず、友達も少なかったが、緒方は活動的で、とにかく要領がいい男だ
った。そして出不精の俺をやれ海に行こう、旅行に行こう、合コンに付き合えと
事あるごとに引っ張りだしてくれた。
合コンをすれば、女の子からメアドを聞き出すテクニックを教えてくれたり、
二人きりになれるシチュエーションを作ってくれたりと、色々がんばってくれ
るのだが、その苦労が報われることはついになかった。
他のことは極めてドライにこなしていく緒方が、俺に対してだけ、なぜそん
な成果の上がらない世話を焼き続けたのかは今でも分からない。けれど俺は
緒方のおかげで、大学生らしい四年間を過ごすことができたのだった。
講義にもあまり出てこず、バイトや合コンに飛び回っていたのに、緒方は留年
することもなく卒業して、中堅の製薬会社に就職した。一方俺は就職活動に失敗
して、フリーターになった。お互い働き始めてからは、学生時代のように一緒に
遊ぶこともほとんどなくなった。
俺が珍しく自分から緒方に電話したのは、今勤めているビジネスホテルの契
約社員の仕事が決まった時だ。緒方は俺の話を聞くと「そうか、よかったな」
と言ってちょっと沈黙した後「実は俺も仕事辞めようと思ってるんだ」とつ
ぶやくように言った。
「なんで」とたずねる俺に「さあ、サラリーマンは何となく性が合わないから
かな」とだけ答えた。
「辞めてどうするんだ」
「今趣味でやってる動画投稿ってのが結構いい収入になるんだ。取りあえず
それをやってみることにする」
「そうか」
ネットビジネスというものに何の知識も持たない俺は、彼の決断をいいと
も悪いとも判断することができずにただ相槌を打った。
独立した緒方は、またたまに「飲みに行こう」と電話してくるようになっ
た。二人で飲んでいても緒方は仕事の話はほとんどしない。相変わらず彼女
がいない俺を相手に、女の口説き方なんかの与太話をした。しかし会うた
に、うっすらと無精ひげの伸びた顔が、少しづつやつれてきているように見
えるのが、俺には気がかりだった。けれどそういう俺だって、常夜灯だけが
付いた深夜のビジネスホテルのフロントに立っている姿は、青白い顔をした
生き霊みたいなものだから、緒方のことをあれこれ言えるような柄ではなか
った。
「なんか俺、どんどん人間社会から遠ざかってるよな」
俺は酔うと緒方を相手に愚痴った。
「今の仕事は、販売のバイトなんかよりはずっと給料がいいんだ。十万を切
るような収入じゃあ一人暮らしさえできないからな。でも夜中のフロントに
一人きりでいると、自分が無人の世界に迷い込んだみたいな錯角に陥るんだ。
そういう生活は、俺の性には合ってるんだけど、でも本当にこのままで大丈
夫なんだろうか、俺はどんどん取り返しがつかないほうに行ってるんじゃ
ないかって不安になるんだ」
緒方はそんな俺の肩を抱いて「だからとにかく彼女を作れ。好きな女が
できれば、人生は180度変わる。そんなしょぼい悩みなんかぶっ飛んじま
うさ」と笑った。
3
「何だ。面白い話って」
「実は心霊ビデオを持ってるって人がいるんだ」
「心霊…ビデオ」
この数ヶ月、緒方は心霊スポットに出かけて、霊を撮影するのに凝っていた。
一度だけだが、俺も心霊スポットで名高い県境のトンネルについていったこと
がある。夜中の二時過ぎまでトンネルの周辺で粘ってみたが、、結局怪奇には
出くわさず、パトカーの不審者尋問にひっかかって追っ払われた。それ以来緒
方の心霊ハントには同行していない。
「ブログで偶然その記事を見かけた。画像もあった。結構すごいやつだった。
連絡を取ってみたら、そのビデオを譲ってもいいというんだ。そんなに遠くじ
ゃない。車で二十分くらいなんだが、実は俺の車今車検なんだ。それで、なっ、
頼む。この通り」
緒方はそう言って胸の前で手を合わせた。その様子は妙に真剣で、どこか必
死な感じさえした。
「やけに手回しがいいんだな。今からか」
聞き返しながら、俺は久しぶりに緒方に誘われたのがちょっと嬉しかった。
外に出ると雨は上がっている。俺と緒方は、ナビもついていない旧式の軽に
乗り込んで西に向かって車を走らせた。医大の脇を過ぎて川沿いに走っていく
と、次第に人家がまばらになり、前方に山の黒い影が立ちふさがる。近くに新
しい道路ができて、この旧道は交通量が激減していた。
「あれだ。確か『楡の木』とかって言うんだ」
緒方が道路の脇に立っている矢印を指さした。真っ黒に変色した板の右端に
かろうじて「木」という文字が見てとれる。俺は矢印が示す方向にハンドルを
切った。
両側に樹木がおいかぶさって、その枝葉に埋もれたような小道の奥にかすか
に明かりが見えた。それはほとんど廃屋と言ってもいいような、古い小さな木
造の店だった。
「あれだ」
入り口のドアを開けると、腐食しているのかぼろぼろと木屑が落ちてきた。
カウンターの中に中年の男が一人、椅子にはやはり中年の、ひどく痩せた女が
座っていて、男が入ってきた俺たちを見た。カウンターの奥に古びたスタンド
が一つあるだけの店内はひどく暗かった。
「あの、ビデオのことで電話した緒方と言います」
挨拶をする緒方に、男がああというように微かに首を動かした。
俺と緒方は、女が座っている席から二つ空けてカウンターに腰を下ろした。
背後にはテーブル席が二つ。十人も入れば一杯になりそうな店内は、カウン
ターにも床にも白っぽく埃が積っていた。
「営業…されてるんですか」俺はおそるおそるたずねた。
「ああ、やってるよ」男の声は低く、おまけにかすれてひどく聞き取りにくい。
また激しい雨が降り出したようで、トタンぶきの屋根がばりばりと音を立てた。
「開店した頃はな。この店は、こいつが焼く焼き立てのパンや俺のシチューが
人気で、テレビなんかもひっきりなしに取材にきてた。隠れ家フレンチってな。
いつも満席だったんだ」
「はあ」俺はしかたなく相槌を打った。
女は相変わらず顔を背けたままうつむいている。
「それが、新しい道路が出来たせいで、車や人の流れがすっかり変わっちまった。
潮が引くように客がいなくなっちまって、このへんはどんどんさびれてった」
男の表情に翳が濃くなった。
「一度客が引き始めると、あっという間だった。どうすることもできなかった」
独り言のように男はしゃべり続けた。
「あの、ビデオを譲ってもらえるって話は…」
そう言う緒方に、男は緩慢な仕草で「そこのデッキに入ってるよ」と指さした。
そして緒方にぐいっと顔を近づけると「なあ、人間ってのは残酷なものだよな」
と囁いて、にっと笑った。大きく見開かれた男の白目に血管が蜘蛛の巣のような
模様を描いているのが見てとれた。その時明かりがふっと消えて、男女はかき
消すように見えなくなった。
4
「お、おい。あいつらどこにいったんだ」
緒方が雨の轟音の中で叫んだ。
「おい、出よう。何かヤバいよ。ここ」俺は緒方の腕を引いた。自分の体が小刻
みに震えているのが分かった。
「でも、ビデオが…」緒方はそう言いながら携帯を光源にしてテレビの回りを探
し始めた。その手がリモコンに触れたのか、いきなりビデオのスイッチが入った。
テレビの画面に苦悶する男女が映し出された。モノクロの画像。喉のあたりをか
きむしる男の顔が大写しになった。さっき、カウンターの中にいた男だ。倒れた
椅子。テーブルの下には火鉢のようなものが置かれている。写し出されているの
はまぎれもなくここの店内だった。床に倒れ、痙攣している痩せた女はじきに動
かなくなった。
「あの二人、ここで死んだんだ」
俺の声は悲鳴に近かったと思う。だが緒方は食い入るようにテレビの画面を見
ている。画像はそれだけでは終わらなかった。中年の、くたびれた身なりの男
が店に入ってきた。男はカウンターの奥にいくと、倒れていた椅子を使って配管
のパイプに縄をかけた。縄の中に首を差し込んだ男の顔は、涙と鼻水とでぐしゃ
ぐしゃに汚れ、何か叫んでいる。音が聞こえないことがせめてもの救いだったが、
俺はもう限界だった。しかし、緒方は身じろぎもしない。
「ここにいちゃだめだ。出よう。早くここから出るんだ」
この店で一体何人の人間が死んだのか。そして彼らはどうなったのか。この画
像を撮影したのは一体誰なのか。分らないことだらけだったが、とにかくこのま
まここにいたら何かとんでもないことが起こりそうな予感がした。
緒方はなぜ、何も言わないんだ。俺は緒方の両腕をつかんで激しく揺さぶった。
「おい、おい、緒方。おがたぁ」
緒方は泣き笑いのような顔で俺を見た。暗い虚ろな目だった。
「お前は逃げろ」緒方がくぐもったもった声で言った。
「何を言ってるんだ。もうビデオなんかどうだっていいだろう。一緒に早くここ
から出るんだ」
緒方はゆっくりと俺の腕を振りほどいた。途切れなく降る雨の音が、俺と緒方
のいる闇をすっぽりと包み込み、川の底にでもいるようだ。
「お前は戻れ。俺はもう戻れないんだ」
そうつぶやくと緒方の姿は、周囲の闇から切り抜かれたような漆黒の影にな
った。
俺はその廃屋を飛び出した。車をダッシュさせ、来た道を戻っているといつ
の間にか雨は止んでいた。アパートに戻った俺は椅子に倒れこんだ。体の震え
がまだ止まらないので、テレビをつけてみた。天気予報のキャスターの声がす
る。
「この地方は、今日で二十三日間、一滴も雨の降らない猛暑日が続いています。
明日も引き続き暑くなりそうですので、熱中症には十分注意してください」
「そんな…馬鹿な…」
虚脱している俺の耳に、携帯の着信音が聞こえた。受話器を取ると、電話の
向こうの声が友人の訃報を伝えた。
「おい、、緒方自殺したらしいぞ。ゆうべ」
「何だって」
「あいつ、何回も違法サイトで摘発くらって、完全に行き詰ってたらしい。
シャワーのフックで首を吊った。水の音が止まらないってんで、発見された」
喋り続ける電話の声が遠くなって、俺の頭の中には再び激しい水音が響き始
めた。 (了)