第一話 エリオ、異世界に降り立つ
魔界。ブレーガダ渓谷――
「プロメテウス。これは一体どういう状況?」
エリオは眉をひそめ、右手の中指にはめた指輪に向かって問いかけた。
「さぁ。魔物の巣か何かに転移したんじゃねぇの? 毎度毎度、エリオの世界転移魔法は雑すぎて感動するぜ」
「うるさいわね。仕方ないでしょ、移動先の状況なんてわからないんだから」
フンと鼻を鳴らし、エリオは頬を膨らませた。
「にしても、この数はすげえな」
「……そうね」
ぐるりと辺りを見回す。
魔物。魔物。魔物。三百六十度、異形の魔物が彼女を取り囲む。
百……二百……いや、三百はいるわね……。
エリオが様子を窺っていると、魔物の群れの中から、一匹の魔物が前に出てきた。
人の体に牛の頭部。手には巨大な斧。ミノタウロスである。
低く、籠った声が響く。
「何者だ、小娘」
正面に立ち、相対する両者。ミノタウロスの身長は、ゆうにエリオの倍はあった。
小柄なエリオは、ミノタウロスを不機嫌そうに見上げた。
長い白銀の髪を掻き分け、短いため息を吐く。
「見下さないでもらえる? 不愉快なの」
エリオは自分より背の高い相手が嫌いだった。
「あと、口を閉じてちょうだい。息が臭くて吐きそうだわ」
「……口の聞き方を知らぬようだな」
ミノタウロスは手に持った斧の刃を、エリオの細い首筋に添えた。
「どうやってこの魔界まで来たのかは知らぬが、我等を侮辱するということは、魔王様を侮辱することと同義。死をもって償ってもらうぞ」
「へえ。魔界に、魔王様……ね」
わかりやすいテンプレ世界だこと。魔王様とやらがいるのなら、すぐにあれが見つかるかも知れないわね。好都合だわ。
「……何を笑っている。恐怖で気でも触れたか?」
ミノタウロスがそう言うと、周りの魔物がニヤニヤと笑いだした。
エリオはすぐに察した。絶対的強者の笑み。この世界では、魔物が人間よりも上位の存在である、と。
「馬鹿ね」
「何……?」
「恐怖っていうのは、弱者が強者から抱く感情でしょ。私が感じるわけないじゃない」
眉間に皺を寄せるミノタウロス。声を荒げ、斧を振り翳した。
「小娘がっ! 死んで己の行為を悔いるがいい!」
「……本当に、馬鹿ね」
小さくため息を吐き、エリオは左手に力を込めた。
「来なさい。弐の聖剣・ジークフリート」
言い終えたと同時に、手元が光り輝き、一本の細い長剣が発現した。エリオはそれを掴み、何もしなかった。
振り下ろされた斧の刃がエリオの肩に触れる。次の瞬間、鈍い音と共に斧の柄が折れ、全鋼の刃がクルクルと回転しながら弾き跳んだ。
ミノタウロスも周りの魔物たちも、ありえないものを見るように目を大きく見開いた。
驚くのも無理はない。
エリオは、およそ防具と呼べるものを身に付けていなかったのだ。着ているものは、ただの黒い簡素なワンピースである。
「無駄よ。今の私……不滅だから」
「戯言を!」
ミノタウロスは雄たけびをあげ、素手でエリオに殴りかかった。
振り下ろした拳がエリオの顔面に直撃する。と同時に、鈍い音があがり、ミノタウロスの表情が歪んだ。
「グアアアアアッ!?」
「本物の馬鹿ね。言ったでしょ、不滅だって」
「ふ、不滅……だと?」
「そうよ。今のあなたは、オリハルコンを素手で殴ったようなもの。骨が折れるのは当然でしょ」
「――ッ!?」
ミノタウロスが驚愕を顔に浮かべる。
事実、殴った指の骨が三本折れていたのだ。
「訳のわからぬことを。どんなカラクリかは知らぬが、たかが二回攻撃を防いだぐらいで、我ら魔物に勝てると思うな!」
……たかが二回、ね。
「なら、試してみなさい」
「何だと……?」
「突っ立っててあげるから、私を殺してみろって言ってるのよ。牛男」
ミノタウロスの巨体が怒りで震える。
大気を揺るがすほどの大声で、ミノタウロスは叫んだ。
「調子に乗るな! この人間を殺せっ!」
魔物の群れが、一斉に雄たけびを上げる。
そして、怒り狂う数百体の魔物がエリオを取り囲み、襲い掛かった。
雄叫びと、鈍い打撃音とが渓谷に響く。
斧。剣。鉄槌。牙。爪。拳。あらゆる攻撃が、エリオの小さな体に降り注ぐ。
しかし――
「な、なんなんだ……こいつは……」
「……気は済んだかしら?」
エリオは――無傷だった。
戦意を失い、魔物の手から武器が零れ落ちる。何が起きているのかが理解できず、一様に無傷の少女を呆然と眺めている。
ゆらりと体を揺らし、エリオは何処ともなく視線を向けた。
「……ねえ、私が恐い?」
言って、笑みを浮かべる。
「それが――恐怖よ」
魔物たちは戦慄した。
人間の――しかも、年端もいかない少女に恐怖心を覚えるなど、生まれて初めてのことだった。それほどに、彼女は異常であった。
気圧され、後退りする。彼らの生物としての本能が、危険だと叫び散らす。
「ば、化け物……」
「失礼ね。魔物に化け物呼ばわりされたくないわ」
そのやり取りに、プロメテウスが声をあげて笑う。
「カカカッ。いきなり不滅のジークフリートなんて使うからだ、エリオ」
「あら、攻撃型の能力じゃないだけマシでしょ。第一、他の聖剣じゃ、こんなやつら一撃で死んじゃうわ」
「なんだ、殺しちゃダメのか?」
「馬鹿ね。ダメに決まってるじゃない」
殺したら、利用できないもの……。
エリオはまるでゴミでも見るかのように、ミノタウロスを一瞥した。
「あなたたちを殲滅することは容易いわ。でもね、私は優しいの。だから、選択肢をあげる」
「選択肢……?」
「ええ。このまま私に殺されるか、魔王をここに連れてくるか。選びなさい」
「な……舐めるな、人間! 我々が命欲しさに魔王様を差し出すことなど、断じて有り得ぬ!」
エリオは短いため息を吐いた。
全く……。生き延びる手段を自ら手放すなんて――
「救いようのない……馬鹿ね」
呟き、右手を天へと掲げた。
「滅ぼしなさい。玖の聖剣・ゼウス」
急に、空が明るくなった。
それは目もあけられない程の、異様な明るさ。
魔物たちは目を細め、天を仰いだ。
「なん……だ……?」
「神の雷よ。さようなら、牛男」
次の瞬間、白い白い光が降り注ぎ、エリオを取り囲んでいた数百体の魔物が、塵も残さず蒸発した――