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アルタス II

 大河のほとりに立つ大樹の根本に、ボロをまとった吟遊詩人が座っていた。膝の上に楽器を抱き、弦を爪弾いて調子をあわせている。詩人の姿が優しい木陰に包まれている様は、灼熱の針が無数に降り注いでいるかのような陽射しの中、あわただしく立ち働いている半裸の男たちと著しい対照をなしていた。やがて詩人の右手は力強く弦を打ち、詩人の喉からは街路を駆け抜けて行く力強い響きが発せられた。

 さあ、いまこそ語らん。古の戦いを。つわものたちの勲を。大河のほとりに咲く七輪の蓮を包んだ炎を。

 白銀の背に揺られるアルタスの耳にも、その声は届いた。およそ八十年前、大河の東岸に連なる七つの都市国家を統一し「諸王の王」の座についた初代皇帝の物語。アルタスも幾度となく耳にした演目だが、この詩人は今までアルタスが聞いた詩人とは段違いだ。さすが帝国の都、と思ったのも束の間、誰一人として詩人の物語に足を止めようとしないのに気付いた。大河に設けられた船着場と市を結ぶ大路には、腰布だけを身につけた人足たちが忙しげに行き交うばかりである。詩人には目もくれない男たちを掻き分けながら騎馬で進むアルタスたちの一団もまた、足を止めるわけにはいかなかった。仕事の手を止め物語に聞き入るには、まだ時間が早過ぎるのだ。この詩人、商売は上手くないようだ。アルタスの口元に皮肉な笑いが浮かんだ。


 帝都グプタの宮殿は、「第一の同盟国」であるサッラからの突然の使節に、慌てて用意を整え終えたところだった。正式な使節に任じられたのはアルタスの叔父であるカライであり、アルタスはその副使という格である。カライとアルタスは通常、使節が通される謁見の間ではなく、内政や軍事についての話し合いが持たれる部屋へと通された。

「タラス陥落の報を、帝国もかなり重大に受けとめているらしい」

カライがアルタスに耳打ちした。

 宮殿の多くの部屋が壁を持たず列柱を配しただけの開放的な造りであるのに、この部屋は壁に囲まれている。高い天井に近く、幾つもの穴が開けられてはいるが、部屋の中は薄暗く、熱気がこもって息苦しかった。

 部屋の一番奥に、一段高くなった場所があり、その面を開けて馬蹄形に並べられた敷物の上に、十人余りの人々が腰を降ろしている。カライとアルタスが人の輪に加わると、ほどなくして二人の女官に付き添われて皇帝が入室した。十二歳と聞いていたが、アルタスの目の前に現れた子どもは、線が細く頼りなげで、少年と呼ぶにもまだ幼すぎるように思えた。これが七輪の蓮に譬えられる帝国を統べるナープラ二世であるのか、と思うと奇妙であった。

 皇帝が座につくと、馬蹄形の端に席を占めた初老の男が皇帝に頷いてみせた。

「はじめなさい」

段上から幼い声が聞こえた。

「あれが帝国一の実力者、摂政のジャイヌ殿だ。帝が幼い故、皇帝の権威はあの方に備わっていると言っても間違いではない」

カライが若い甥に細かな説明をしてゆく。アルタスもゆくゆくは族長として、帝国の廷臣たちとわたりあってゆかなくてはならぬのだ。

「では、カライ殿、報告をいただきましょう」

ジャイヌが促すと、カライは語り始めた。

「タラスがどこから来たとも知れない軍隊に占領されたのは二十日前です。我々がそのことを知ったのは十日前。最初の難民が現れるまで全くわかりませんでした」

アルタスはその最初の難民であるネムの姿を思い浮かべた。十日間、木の葉や草の根と朝露で飢えと乾きをしのぎ、昼間の暑熱を避け夜闇の荒れ野を渡ってきた。泉に辿り着いて一息つくことができた後とは言え、出合った時にはそのような苦難はほとんど感じさせなかった。

「タラスには間者は送っていなかったのか」

年若い貴族がカライの言葉を遮った。無礼かつ無知な質問であったので、帝国側の人々は顔をしかめたり、苦笑いしたりした。

「もちろん、タラスには間者がおりましたよ。サッラが送った間者も、このグプタから送りこまれた者も」

的外れな質問をした男は、怒りのためか恥のためか、顔を赤くして黙り込んだ。そのやりとりを遠くに聞きながら、アルタスの思いは未だネムの上をさ迷っていた。僅かな食事を口にすると、すぐに眠り込んでしまったネム。三日前にサッラを発つ時には、目は覚ましていたものの、床から離れる事ができずにいた。

「確認のため、ただちにタラスに斥候を送りました。タラスは完全に占領されており、商人に偽装して街に入ろうと試みた者も、手荒く追い返されました」

この斥候隊が救出したり、自力でサッラに辿り着いた難民は、百人にも満たなかった。街の人々がどうなっているのか、窺う術はいまのところほとんど無い。ただかろうじて脱出した難民がわずかに見聞きしたものを聞くことができるだけである。

「まだタラスを攻め落とした勢力が、サッラと敵対してくるかはわかりません。ただ備えだけは万全にしておかねばなりますまい」

「まだ、敵かどうかもわからない相手の為に、皇軍を派遣しろとおっしゃるのか?」

摂政が口を挟んだ。先触れの使者に持たせた書簡で、ジャイヌにはこちらの真意は伝えてあるのだが、返事はなかった。老練な政治家は、たった今の口調や表情からも全くその胸中を悟らせなかった。

「いえ、それだけではありません。いっそタラスを解放し、帝国の同盟国に組込むのが得策かと考えています」

部屋中に囁き声が広がった。隣り合う者どうし、予想外の提案について相手の意見を探りあっているのだ。

「それでは、サッラがずいぶん得をするように思うが」

皮肉っぽい声が上がった。

「確かに最も得をするのがサッラであることは否定しません。しかしこれは帝国とその同盟国全体の安全にかかわること。帝国にとっても決して無意味なことではありますまい」

「良いではありませんか。泰平が続けば兵の士気が緩みます。時には手強い敵を相手にしなくては」

また別の声があがった。それを受けて居並ぶ人々が思い思いに発言を始めたのを制したのは、摂政のジャイヌだった。

「待て待て待て、事は国の大事ゆえ、充分に吟味しよう。だがご使者は旅の疲れもあろう。今日のところは下がって休まれるといい」

カライは静かに立ちあがり、辞去の口上を述べて退出し、アルタスもそれに続いた。扉が閉められると、部屋の中で声高な議論が始まったのがかすかに聞き取れた。


 皇宮からやや離れた宿舎に向かう道は、街の大門から先ほど辿った道と同じ道だった。人波のなかゆっくりと馬の歩を進める。人々も騎馬の一群に道を譲ろうとはするのだが、余りにも人が多くて、思うに任せないようである。そしてとうとう人の流れが滞って、まったく身動きがとれない場所にいきあってしまった。見れば大河のほとりに立つ大樹を人垣が取り囲み、何事かを注視している。馬を止め、周囲に注意を向け、ようやく理解した。さきに見かけたあの吟遊詩人なのである。物語はいまや最初の佳境にさしかかったところだった。後に初代皇帝となる若者ジョグジャンタが、父である王を殺した簒奪者たちの手から逃れ、荒野を放浪する場面である。誰一人頼る者もない放浪の王子は、ついに力尽き荒れ野に倒れる。そこを救ったのがどこからともなく現れた野生馬、月光であった。アルタスは馬上に身を置いたまま、じっと物語りに聞き入った。

 詩人は謡う。その巨体並ぶものなく、いと速きこと風の如し。鹿毛なる体の左後肢、蹄近くのみ白うして、額には三日月型の印あり。地に臥し給うた貴き人を揺り動かし、目覚めさせん。貴き人いわく、かくも大なる馬、我いまだ見ざる。奮いてうち跨れど、馬、身動きもせじ。やがて自ら歩を進むる。

 月光に泉へと運ばれ命をとりとめたジョグジャンタは、やがてサッラに身を寄せ、後に帝国を形成する七都市の一つで、サッラに敵対していたプハラの王を計略によって追放し取って代わった。ジョグジャンタに力を貸す代償として、サッラに残された月光の子たちが、現在軍馬として使われている大型馬の始祖となった。だからジョグジャンタの物語の中でも、月光との邂逅の場面はサッラの人々にとっては特に馴染み深いものである。

 カライに促され、アルタスは心残りながらも、馬首をめぐらした。この人垣を突き抜けるのは無理なので、戻って別の道を行くのだ。

 最後にもう一度振り返り、いずれあの詩人をサッラに迎えてみたいものだと思う。退屈な離宮での夜など、あの者がいればさぞ楽しかろう。白銀の蹄鉄が土を叩く音を聞きながら、あの詩人のことを商売下手と思ったことを思い出した。なるほど、皆よく知っている物語なら、始めから聞いてもらう必要はないのである。ちょうど人々が足を止める時間に、劇的な部分を語っているように、早めに仕事を始めたのだろう。


 使者が一行に新たな知らせを持ってきたのは、翌日の払暁のことであった。使者は開門前の市門を開けさせ、人気のない大路を乗馬のまま駆けて来たのである。馬を扱う為に早起きが習慣のサッラの貴人たちは既に起きだして、身支度をはじめていた。汗にまみれ、息を切らせた馬の姿が、報せの重要さを物語っている。それはタラスからの難民の中に、タラスを滅ぼした連中の間者が紛れていたという報。タラスでのやり方から言って、次はサッラが狙われているのは間違いなかった。

「敵だというのは確かか?」

「ネム様が、そうおっしゃいました」

カライはアルタスに頷いた。

「帝国との交渉も大事だが、お主にとっては初陣の好機であろうな」

アルタスは弾かれる様にして部屋を飛び出した。荷物をまとめ、武器を携えて厩へと駆ける。アルタスの姿を見止めて、機嫌よく身を寄せてきた白銀を表に引き出して跨ると、カライの選んだ従者たちが追いついてきた。アルタスは馬上で手綱を握り締め、小刻みに足を動かしながら、従者たちの用意が整うのを待った。初陣の時が近づいてきていた。

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