9.
大学を後にして駅へと早足で塔子は歩いた。照りつける太陽や通り過ぎる車が巻き起こす熱風のせいだけでなく、連日続く微熱と悪心は塔子の若い体力でも辛かった。
何とか歩いてはいたもののバランスを崩し、ミュールが片方脱げてしまった。幸い転ばずに済んだが後方に置き去りになったミュールを拾い上げ再び右足を入れる。ふとベビーカーを押す母親の姿が目に入った。ママ友同士これから食事でもするのか二人の女性がそれぞれベビーカーを押して談笑している。ベビーカーの中にはおもちゃをしきりに噛みながら言葉にはなっていない声を上げている赤ちゃんが見えた。普段は目に入っても特に気になることなどなかったが、茹で卵のようなぷるんとした肌や小さな手に塔子は目を奪われた。
「産まないことに決めたのかい?」
聞き覚えのある声に我に返ると、いつからいたのか隣に佐藤サチが立っていた。
「佐藤さん! なんでこんな所に?」
唐草に野菊を描いた濃い紫色の着物にクリーム色の、これも菊が鮮やかな帯。この暑さの中、今日もキッチリと着物を着ている。
「なんでってこの辺りはアタシの散歩コースさ。アンタはまた今日も冴えない顔してるねぇ、全く」
いやだいやだとでも言うようにサチはそむけた顔の前で袖をひらひらとさせた。そして塔子が見ていた二人組の親子に目をやり、笑みを浮かべて塔子の耳元で囁いた。
「おや、可愛い子だね。アンタ、あの赤ん坊絞め殺せるかい?」
ギョッとする塔子をよそに右の袖で口元を押さえながらサチはククッと不気味な忍び笑いをする。
「――何を。何てことを言うんですか!」
塔子がベビーカーに再び目をやると、愛らしい口元によだれを光らせながら赤ちゃんはご機嫌でおもちゃを振り、カラカラという音に興味津々の様子だ。あんな子を絞め殺すなどという言葉を笑いながら口にしたサチを塔子は間違いなく狂人だと感じた。
塔子はサチのあまりに残酷なからかいに答える気もなく、再び歩き出した。早足で、出来る限りの早足で夢中になって歩いたが、さっきバランスを崩した時に足首を痛めたらしい。ついに立ち止まり自分でも不思議なくらいに溢れだす涙に耐えていた。
「足をどうかしたのかい? 仕方がないねぇ、ちょっとついておいで」
相当な早さで歩いたはずだがサチは着物の裾を少しも乱すことなくすぐ隣にいる。塔子はサチの差し出した手を払いのけたが、サチはいつかのように無理やりに腕を掴み塔子を支えながら通りから外れた路地へと入っていった。道幅は狭く人通りもない。通りを随分進んだ所に古ぼけた喫茶店があった。
「放して下さい! あなたは一体何なんですか。もう私に構わないで下さい!」
「知り合いの店だよ。入んな」
サチは塔子の言葉など全く無視して店内へと入った。そこは薄暗く本当に営業しているのかと思うほどのたたずまいだった。かなり時代遅れなインテリアはとても客が来るような雰囲気ではない。
無理やり座らされた椅子はあずき色でビロード生地。スプリングが壊れているのか何とも妙な座り心地だった。
「チヨちゃん、いるんだろ?」
大きな声でサチが名前を呼ぶと福々しい笑顔の老女が顔を出した。
「おや、サッちゃんじゃないの。久しぶりだねえ」
「この暑さだろ? それにお嬢さんが足を痛めてねぇ。ちょっと休ませておくれ」
チヨと呼ばれた老女は塔子を見てにっこりと笑い、頭を少し下げて挨拶した。サチに視線を送ってうなづいている。
しばらくするとザクロジュースがふたつ運ばれてきた。
「はい、いつものだよ。どうぞゆっくりしてってね」
チヨは愛想よく塔子に会釈し奥へと消えていった。
塔子が鼻をすすりながらバッグからハンカチを取り出し、まぶたを押さえているとサチは塔子の足元にかがんで何やら右の足首に塗り始めた。
「えっ、何ですかそれ。放って置いて下さい」
「ネムの樹皮と葉で作った薬だよ。ちょっとアンタ、そのハンカチよこしな」
拒絶する塔子の暴れる足を押さえ付けて薬を塗り、塔子の持つハンカチを引ったくって薬を塗布した上から足首に巻きつけた。
「これでちょっとはマシなはずさ」
サチはジュースを美味しそうに飲み、薬が入ってるらしい小さな容器を帯の中に差し込んでいる。
「――よくそんな薬持ってましたね。いつも持ち歩いてるんですか?」
サチは特にバッグの類を持っている訳ではない。帯の中に他にどんなものが入れてあるのか想像もつかない塔子は、ついさっき聞いた悪魔のようなサチの囁きもひと時忘れ帯のあたりをじっと見つめていた。しかしふとそんな自分に驚き、サチに不用意に話しかけたことを後悔した。
「ハーブは飲むだけじゃないさ。生薬でもあるんだよ」
塔子の視線が帯に釘づけになっているのも構わず、サチは抑揚なく機械的に答える。
「それよりアンタ、どうやらおなかの子の父親って男は大した度量でもないようだねぇ」
ふふんと鼻で笑い、サチは呆れた様子で横を向いた。
「恭也は――。彼はちゃんと話を聞いてくれました! 私の気持ちや体も気遣ってくれたし――」
「話ぐらい誰でも聞けるさ。目の前にいる女のことを気遣うのは男として当たり前のことだよ。なーんも見えてないんだねぇ、全くアンタは」
さらに塔子にも呆れたと言いたそうな目でサチはため息をついた。
「じゃあ……。彼が産んでくれとでも言っていたら良かったって言うんですか? 後先考えないで無責任に産めって言うのが男として立派だって?」
「いい加減にしな! 勘違いも甚だしいよ!」
無人の店内にサチの声が響き渡った。塔子を見つめる目はつり上がり怒りに満ちている。元々恐ろしい顔つきがさらに迫力を増していた。
「もうちょっと何とかなる娘だと思ってたんだがね。アタシも焼きが回ったかねぇ」
サチに一喝され塔子は口をつぐんでしまった。そしてサチの言葉の中に何やら自分への期待のようなニュアンスを感じていた。だがどうやら自分はそれを裏切ってしまうような事を言ったらしい。塔子にはサチの求めるものが一体何なのか、ついには悪魔のような発言をしたサチに関わっていていいものかどうかさえも分からなくなってしまっていた。