7.
「まず父親には真っ先に話すべきだね」
長い沈黙のあと、老婆が静かに言った。
「そんな……。父に話したりしたらとんでもない大騒ぎになります!」
想像しただけで塔子は気絶しそうだった。あの父がどんな反応をするだろうか……。母は泣き崩れるに違いない。
「バカだねアンタは! おなかの子の父親だよ。その子はアンタひとりの子じゃないんだよ」
老婆は座卓を叩いてじれったそうに体をゆすっている。そしてうつむき、涙が出そうなのをこらえている塔子の顔を覗き込み、眼光鋭くはっきりした口調で続けた。
「その時相手の男の器量ってもんが分かるよ。どんな表情やしぐさも見逃さない心構えでありのままの事実を突き付けてやんな」
塔子は老婆の表情と低く迫力のある声に背筋が冷たくなった。にやりと笑った大きな赤い唇が鬼か悪魔のそれに見えたのだ。
――恭也に妊娠を伝える?
塔子はそのままにしておけないことは十分過ぎるくらい分かっていたが、老婆の言うように彼がどんな反応をするか想像すると怖かった。二人の関係があっさりと崩れてしまうかもしれない。
「彼も――。私と同じ学生なんです。二人とも今が一番大事な時で……。こんな話したらもうダメかもしれない」
恭也との付き合いは三年を過ぎていた。これまで一緒に勉強し励まし合って過ごしてきた日々が頭を駆け巡る。そしてよりによってなぜ今なのかという悔しさで膝に置いた両手は生地の薄いスカートの布を強く握りしめていた。
「なかった事には出来ないんだよ。時間を戻せるわけでもない。逃げるような男ならその程度って事さ。むしろ本性を見極めるいい機会だと思うことだね」
老婆の言葉は塔子にとって厳しい内容だったが事実その通りだと思えた。もしかするとあの恭也ならきちんと受け止めてくれるかもしれない。恭也なら――。
次第に日が傾き、庭から入る風の温度が夜の訪れを知らせていた。塔子の住む辺りではこんな風は吹いていない。夜になっても熱風といっても過言ではないべっとりとまとわりつくような風だ。一体ここはどこなのだろう――。
「そろそろお帰り、遅くなるとご両親も心配なさるだろう」
老婆は塔子を広々とした玄関まで送ってくれた。
「あの、気遣って下さってありがとうございました。私、三上塔子といいます」
塔子が素直にお礼を言う気になったのは、今朝の倒れそうな体調からは考えられないくらいに回復し、滅入っていた気分も落ち着いていたからだ。
老婆は目を細めて微笑み、ウンウンと大きく頷いている。
「アタシは佐藤サチ。ごらん、あの門を出て坂道と階段を下りたら車が待ってるはずだよ」
サチはまるで山門のような見事な屋根瓦の門を指して言った。
「アンタ細かい事気にしそうな子だから言っとくけどね、車の料金とか気にしないでいいからね。気をつけてお帰り」
塔子は何度か振り返り、そのたびに小さく会釈しながら門へと向かった。サチは着物の袖を片手で押えながら上品に手を振っていた。門を出るとなだらかな坂道があり、その先に階段があった。眼下にはアスファルトの道が木々の間からのぞいている。この坂道はどうやらサチの家専用のものらしい。階段を降り切った所で見上げるとサチの家は随分高台にあることがよく分かる。
言われた通り道路にはタクシーが止まっている。塔子は車に乗り込み、自宅への道のりを確かめようとずっと窓の外を眺めていた。時折窓に映る自分自身を奮い立たせ、恭也へ思いをはせていた。
――どうするにしても二人でちゃんと話しあわないと。
サチの言うとおりこの事実から逃げることなど出来ないのだ。
道のりを見る限り、佐藤サチの家は都心のごく近くで塔子の家からは電車で一時間少しぐらいの場所であるだろう事が分かった。
塔子は運転手にお礼を言い、自宅前で車を降りる。父のバイクはもうガレージにあった。いつもなら何を思うでもなく開けられる扉をこんなにも強い決意をもって開かなければならない時が来るなどと、塔子は想像したことすらなかった。
「あらおかえり、今日は遅かったのね」
母は既に夕食の支度をほぼ終え、テーブルを見るとすぐにでも食事を始められる状態になっている。
「お、今朝より随分顔色が良くなったんじゃないか? トーコちゃん夏バテ来ちゃったのかもね。ガンガン食って体力つけようぜ」
風呂上がりで髪の濡れた父が早く座れと塔子を急かす。
「残暑ひどすぎだよね、あーもうお父さんそれ私のおかず!」
思ったより美味しく食事をすることができた。ただ炊きたてのご飯のにおいだけは塔子を苦しめる。しかし少し湯気がおさまってからなら何とか食べる事が出来た。
「ごちそうさま。今日は後片付け手伝えないけどごめんねお母さん。課題済ましてくる」
両親が心配しないようにいつもぐらいの量は食べられた。佐藤サチに今朝出会わなかったらこうはなっていなかっただろう。塔子は二階の自室へ向かった。
「優ちゃん……。」
「分かってるよ。俺の娘なんだから」
塔子の意思に反して両親は微妙な娘の表情やしぐさの不自然さに違和感を感じていた。二十二年間愛情を注ぎ、見つめてきた親の鋭いセンサーに何かが触った。