6.
甘酸っぱいオレンジの香りがほのかに漂う。頬を撫でる風は少し遠慮がちでくすぐったいが、それがとても心地よい。塔子の目にぼんやりと映ったのはいくつもの美しい植物のような、花のようなものだった。次第に意識がはっきりしてきた塔子は、それらが格子型をした枠の中に描かれた一面に広がっている見事な天井であると気がついた。
「おや、目が覚めたかい?」
「ここは……? お寺?」
純和風で立派な柱や梁、襖や掛け軸は全てかなり年季が入っている事が見て取れる。よく手入れされた庭園は長い廊下のどこからでも見えるように造られていた。
「アタシの家だよ。なかなかのもんだろう?」
駅で出会った着物の老婆だ。塔子はタクシーに乗ってすぐに眠りこんでしまい、ここへ運ばれたのだという現実がじわじわと押し寄せてくるのを感じた。
「さ、これでも飲みな。気分が和らいで落ち着くはずさ」
老婆は純和風の部屋に似合わないおしゃれなガラスのポットから、ヨーロッパの雰囲気漂う薄桃色のティーカップに注いだお茶のようなものを塔子に勧めた。しかし塔子は老婆をじっと見据えたまま、身動きしようとはしない。
「警戒してんのかい? 無理も無いね、見ず知らずのババァに拉致されたと思ってんだろ?」
老婆は豪快に大口を開けて笑った。
「アタシはただのおせっかいババァだよ。アンタもしあのままフラフラ勉強しに行っててみな、確実にぶっ倒れてたさ。悪い事は言わないよ、何も入ってないから飲みな」
恐らく一枚板で作られた重厚な座卓の方へ、塔子はにじにじと進んでいく。老婆が勧めたお茶の湯気はさっき感じた甘いオレンジの香りがした。香りに誘われて恐る恐るひと口飲んでみる。
「おいしい!……です。」
お世辞ではなく本当に塔子が口にしたお茶は素晴らしく美味だった。気持ちがゆったりするような良い香りとさっぱりしたオレンジの甘みが、ずっと塔子を苦しめていた吐き気を鎮めてくれる。何とも不思議な気持ちだった。次第に老婆に対して身構えていた心がほどけていくようだ。
「ハーブティーだよ。それはオレンジピールだね、リラックス効果があるんだ」
老婆は大きめの湯のみに何やらドボドボと注いでいる。
「アタシはもっぱらコレさ。ザクロジュースなんだけどね、抗酸化作用や女性ホルモンの活性効果があるんだよ。やっぱりいつまでも女は女だからねぇ」
そう言うと老婆は顔や首の肌を撫でながら立てかけてある姿見に映った自分自身を眺め、満足そうに微笑んでいる。
塔子はどう相槌を打っていいか分からず、ただ曖昧な笑顔を浮かべていた。
「色々詳しいんですね。私もハーブティーには前から興味があったんですけど、全然詳しくなくて飲むのはいつも――」
「ジャスミンティーはよしな、妊婦にはお勧めできないね。こう暑いと冷たいものが欲しくなるだろうが温かい飲み物を選んだ方がいいよ」
老婆は塔子が≪ジャスミンティー≫と口にするのを先回りして否定した。驚いて言葉を失った塔子はしばらく唖然としていたが、それを察してか老婆の方が先に口を開いた。
「気を悪くしないで欲しいんだが、アンタ子宝を授かったってのに喜べない事情があるんだろう?」
「それは……まだ結婚もしてない学生ですし。卒業や国家試験もあるんで」
自分の置かれた状況を思い返し、塔子の心はまた暗闇の深い海の底へ沈みこんでいくようだった。
「結婚しちまえばいいじゃないか」
湯のみのジュースをひと口飲み、いとも簡単に老婆は言ってのけた。
「そんな簡単に済む問題じゃないです!」
あまりにも無責任な言葉に聞こえ、思わず塔子は語気を強めて前のめりに老婆を睨んだ。老婆はそんな塔子の様子など全く意に介していないという表情でまた湯のみに口をつける。
「問題なんてものはほとんどがバカみたいに簡単なものさ。人が自分で勝手に難しくややこしくしてるだけだよ」
老婆の話を聞いていると塔子の頭は混乱しそうだった。しかしそんなに簡単に片付く問題では決してないのだ。どう考えても塔子には簡単に済まされる材料が見つけられなかった。
「ま、悩む事も大事な経験さ。経験を積んで人間は深みを増してくる。ただ歳を食ったって何の深みも味もない、大人とは言えない生き物が出来あがっちまうからね」
塔子にとって今積もうとしている経験はとても歓迎できるものではない。出来れば違う形の経験を積んでいきたいと考えていた。国家試験に合格し大学を卒業して社会経験を積む。そんなごく普通の形で大人になり、いずれ結婚して子供に恵まれる。世の中の多くの人がそうしているように。