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2.

 勢いで言いたい事を吐きだし電車を降りて歩きだした塔子だったが、恥ずかしさと後悔で全身から力が抜けていくのを感じていた。

 当然塔子と同じ駅で下車した乗客も周囲にたくさんいる。一部始終を目撃した人々の視線や囁き合う中年女性たちの声も、今になって塔子の行動が日常の朝の通勤風景で起こった大事件であった事を思い知らせるものとなった。


 何よりもセンセーショナルだったのは塔子が最後に発した言葉だっただろう。

『分からないだろうけど、これでも私妊娠してんの!』

 塔子は二十二歳になったばかりの大学生だ。他人から見ると童顔な塔子はもっと若く感じたかも知れない。未成年だと思われていても何ら不思議はないのだ。


 塔子が昨夜眠れなかったのは決定的な妊娠の事実を病院で知らされた事が原因だった。検査薬では陽性反応が出たもののどうしても信じられず、かと言って毎日来るものが来ない不安感に襲われ続けることが耐えられなかったのだ。

『間違いなく妊娠ですね。今7週目あたりでしょう。この点滅しているように見えるのが赤ちゃんの心臓です。元気に育ってますよ』

 医師は食い入るようにモニターを見つめる塔子に優しく説明してくれた。塔子はその小さくてピコピコ動いているものが自分の体に宿っている現実を、目の当たりにしてもなお受け入れられずにいた。そんな塔子の思いを察してか、医師は出産予約を勧めたりはしなかった。

――命が私の手に委ねられている。


 昨日突きつけられた現実を思い返し、周囲の他人が自分の事をあれこれ言ったり追い越しざまに顔を覗きこんだりすることすらどうでも良くなってきた。今の塔子には取るに足りない事だ。塔子の人生を左右する大変な出来事は自身の胎内にあるのだ。


「――のかい? ちょっとアンタ、聞いてんのかいって言ってるんだよ」

 自分を呼びとめる言葉に気が付き、塔子は立ち止まった。

「全く何て速さで歩いてんだよ。アンタ妊婦なんだろ? そんな踵の高い草履で転んだらどうするんだよ!」

いつの間にそこにいたのか、着物を着た老婆がしっかりと塔子の左腕をつかんでいた。

「あの、大丈夫ですから。それにこれは草履じゃなくてミュールって言って――。」

「そんな事はどうでもいいんだよ!」

老婆の激しい口調にも驚いたが改めて見たその顔に、塔子は失礼な意味でビックリした。

 浅黒い肌に眉間を探すのに苦労するほど濃く太い眉。頬骨とエラもしっかりとした男っぽい顔に真っ赤な紅をひいた大きな口。だがどこかで会った事がある気がしない訳ではない。

「電車での騒ぎ見てたよ、気の強い子だねえアンタ。でも顔色が良くないよ。まあこの暑さじゃ無理も無いがね。勉強熱心らしいけど今日はよしな、体に触るよ。アタシが家まで送ってやるからさ」

老婆は塔子の腕をつかんだままタクシー乗り場の方へ向かっているようだ。決して大柄ではない塔子よりもさらに小柄な体型に似合わず、ものすごい力で引きずるように塔子を連行する。

「ちょっと! 何するんですか、私講座を受けに来たのに……。帰るつもりなんてないですよ。放して下さい!」

塔子がいくら抵抗しても左腕が自由になる様子はない。それどころかまるで牛にでも引っ張られているかのように、塔子の体は時折浮いたような状態で移動している。


 老婆はタクシーの開いたドアに塔子を押し込み、自分は澄ました顔で着物の襟や裾を整えながら艶っぽい声でゆったりと運転手に言った。

「頼みましたよ」

運転手は顔なじみなのか、かしこまりましたとだけ答えて車を出す。

「悪かったね、ビックリしたろう。でも今日のアンタの体は勉強にも暑さにも勝てやしないよ。心の状態も良くないみたいだしね」

ようやく自由になった左腕はひどくしびれていた。すでに講座へ行くのを諦めた塔子は老婆の正体と目的が知りたかった。

「あの、誰ですか? 私をどうするつもりですか? 偶然出会ったみたいにしてるけど本当は違うんでしょう?」

塔子の顔を正面から見て老婆は微笑んだ。その笑顔は見かけのものすごいインパクトとは正反対に不思議と温かく優しい印象だった。

「しっかりしたいい子だね。だけどひとりで頑張りすぎだよ。少しおやすみ――。」

老婆がそう言って塔子の目のあたりに手を当てた瞬間、塔子は温泉にでも浸かっているような心地よさを感じた。タクシーのシートがやわらかなベッドのように感じられ、じんわりと沈み込んでいくように眠りに落ちてしまった。


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