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13.

 今日の空は今にも泣き出しそうに暗い表情を見せている。一面に広がる灰色の雲は何かに追い立てられるように早く、そして形を変えながら流れていく。午前中の晴天からは打って変って吹いてくる風に雨の香りが感じられた。

 大学の講義が終わり、いつものベンチで塔子は恭也を待っていた。自分の出した結論に恭也はきっと驚くだろう。強く反対して止めるかも知れない。それでも塔子は決意を変える気などなかった。バッグの中の【手術同意書】を少しだけ取り出し、隠すように見つめていた。

「大学って所は若い人で活気があっていいねぇ」

塔子は眺めていた用紙を急いでバッグに押し込み、もう聞き慣れてしまった声の方を見た。当たり前のように塔子の隣に座り、佐藤サチは過ぎゆく学生たちを目を細めて眺めている。

「佐藤さん! なんでこんな――」

前回も同じ言葉を言ったことを思い出し、塔子は少し咳払いをして小声でサチに話しかけた。

「ここは大学ですよ? 何やってんですか、勝手に入って来て」

「アンタ今持ってたの、例の書類だろ? 一体今さら何する気だい?」

「別に……、手術を受ける気なんてないです。ホントにこの前はありがとうございました。お世話になりっぱなしで感謝してます。でももう私、大丈夫ですから」

サチは塔子のわずかに震える唇をじっと見つめ、大きな口の両端を引っ張り上げてにいっと笑った。

「ふぅん、まあいいさ。でももう諦めな。あの男はダメだよ。惚れた男を少しでも信じたい気持ちは分かるがね。これ以上アンタが傷つく必要なんてないさ」

サチは自分の心の底まで覗いているのではないかと怖くなり塔子はまともにサチの目を見られない。

「私はただ――」

顔を上げるとすぐ隣に座っていたはずのサチは煙のように消えていた。慌てて周りを探すが見渡せる限りの範囲にサチの姿を見つける事はできなかった。


「塔子、お待たせ」

背後から声を掛けてきたのは恭也だった。走ってきたのか息がはずんでいる。Tシャツを引っ張って顔の汗をぬぐっている。

「恭也、おばあさん見かけなかった? 和服姿のおばあさん」

「え? 和服のおばあさん? いや見てないけど。普通いたらすごい目立つじゃん、それ」

塔子の唐突な質問に少し笑いながら恭也は答えた。塔子は首をかしげながらしばらく茫然としていたが、恭也の方へ向き直り例の用紙を取り出した。

「署名……、して欲しいの」

恭也は神妙な表情で塔子から用紙を受け取り、サラサラと署名した。

「本当にゴメン。俺病院についていこうか?」

「ううん、いいの」

塔子は急いで用紙をバッグに戻した。予想していたとはいえあまりにもアッサリと署名した恭也に【命】の現実味を感じていない様子がはっきりと見えた。


「あのさ……。今度の里中先生の講演会、塔子も行くだろ?」

沈黙が苦しかったのか、恭也は話を変えようとしている。里中先生とは著書もたくさん出版している理学療法士会の有名人だ。

「あの先生はすごいよ。なかなか話を聞ける機会なんて滅多にないんだからさ、絶対受験の参考にもなるし。ぜひ影響を受けに行こうよ」

塔子は涙があふれそうになった。恭也と自分の温度差が悲しかったのだ。すでに恭也の頭の中は受験や将来のことに切り替わってしまっている。

 塔子はおもむろにバッグから用紙を取り出し、恭也の前でゆっくりと引き裂いた。

「え、何やってんの? 塔子?」

「私ね、この子産みたいんだ」

愕然としている恭也の前で、塔子は凛とした様子で言い放った。

「ちょっと待って……。どういうこと? 一体なんでそんな話に」

「もう決めたんだ。受験は後回しにできるけど、これはそうはいかない。だから……。恭也には認知だけはして欲しいんだ。この子のために」

塔子が想像した以上に恭也はうろたえていた。言葉にならない声を何度か発していたが、考えがまとまらないのか何の返答もない。

「恭也?」

「いや……。認知とかは困るよ。あれって戸籍に履歴が残るんだろ? 親に何言われるか……」

そう言いながら目は泳ぎ、落ち着かない様子で何度もTシャツで汗を拭いている。塔子は絶望した。

【戸籍に履歴が残る】

そんなことすらこの人は受け止め、乗り越えることが出来ないのか。間違いなく自分の子供なのに……。どうしようもなく悲しく切ない気持ちになる。塔子の中で恭也への信頼は崩れ、とてつもなく恰好悪い、情けない男に見えてきた。


「分かった。私ひとりでこの子は育てていくから。恭也には何も迷惑かけないよ」

「待てよ塔子! そんなの無理だって」

塔子は引き裂いた用紙をさらに細かく破き、ボールのように丸めて握りしめた。

「受験頑張ってね。さよなら」

少しだけ笑顔を無理やり作って塔子は立ち上がり、門の方へ歩き出した。途中にあるダストボックスに握りしめていた用紙を乱暴に投げ捨てる。恭也は後ろから何か叫んでいたが、もう塔子の耳には何も入ってこなかった。


 雨が降り始めた。みんな雨を避けようと建物の影を走ったりカバンを頭の上に掲げたりして急いでいる。塔子にはありがたい雨だった。顔を打つ大粒の雨は涙をごまかすのにちょうどよかったのだ。ざわめく街の中でひとり、ゆっくりと塔子は雨の中を歩いていた。

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