12.
三上家の食卓に並ぶ野菜はほとんどが母直子が庭で育てたものだ。トマトやバジル、ルッコラ、小松菜にゴーヤ、オクラにいんげんとローズマリーなど。数え上げるとキリがないくらいに色々な野菜とハーブを直子は育てている。
葉物野菜にはつきものの青虫は直子も大の苦手だが、日々ゴム手袋を装着し巡回と駆除に力を入れている。
今夜のおかずも塔子の体調を気遣ってか、ゴーヤ・にんにく・オクラなどのパワー食材を使ったもので溢れていた。
「ごちそうさま。今年のゴーヤは随分大きく育ったんだね」
「今年は暑かったし、お天気の日が多かったからじゃないかしら。立派でしょ?」
塔子の問いかけに直子は満足気だ。自分で育てたものを食べると思い入れがある分、余計に美味しく食べられるのだと直子は常々家族に収穫した野菜を自慢している。
「トーコもたまには虫取り手伝ってやれよー。食べるばっかりじゃいいとこ取りじゃないか」
「お父さんにだけは言われたくないわ。海では元気なくせに山だと超役立たずなんだもん」
「俺は昆虫類は全部ダメなんだよ! 登山とかマジで拷問だぞ。青虫なんかよりナマコの方がまだかわいらしいわ!」
父優介は恐ろしそうに身を震わせ、新聞を広げている。
「普通は虫とか旦那さんがどうにかするもんじゃないの? 全くお父さんって助けてほしい時に役に立たないんだよね。ゴキブリが出たって私たちより先に逃げ出すしさぁ」
塔子は直子と顔を見合わせ、呆れたように苦笑しながら食卓から食器を片付ける。
「バカを言うんじゃないよ。夫婦ってのはなぁ、役割分担が必要なんだよ。俺は家具の組み立てとか電化製品の設置、虫はナオの担当。何もおかしくないだろ? で、トーコちゃんは何担当? 何の役に立つんだ? ん?」
ニヤニヤして優介は塔子にやり返してくる。
何担当と聞かれて塔子は考え込んでしまった。自分がしていることは大学の勉強と少しの家事手伝いぐらいしかない。
「うーん……、孫プレゼント担当? ……みたいな」
苦し紛れに冗談っぽく笑って言ってみたが優介とナオが一瞬にして硬直した。
「え……、やだな。≪いつか≫だよ≪いつか≫。当然そのうちそうなるなぁって話」
少し両親の反応に驚き、慌てて遠い将来のことであると強調した。
「おばあちゃんになっても私は≪ナオちゃん≫って呼ばせるわぁ」
直子はテーブルを拭きながら何度か≪ナオちゃん≫とつぶやいてひとり笑いをしている。
「俺はトーコの腹をデカくしたヤツを一発殴ってから呼び名は考える」
食器棚の前に立っていた塔子は優介の言葉を背中で聞いていた。優介の口調はやけにきっぱりとしていて、塔子にはいつもの軽口とは全くトーンが違って聞こえたのだ。
「や……やだなぁ、もう。殴るとか言われたら怖すぎて私一生独身のおばちゃんになっちゃうよ?」
早々に全ての食器を棚にしまって逃げるように塔子は二階へと上がって行った。
直子はゆっくりとエプロンをはずし、優介の座るソファの隣に腰をかけた。
「優ちゃん」
「ん?」
塔子の部屋のドアが閉まる音を直子は確認し、直子はリビングのドアを閉めに立ち上がる。そして再び優介の隣に座った。
「ご飯の支度を手伝ってもらおうと思って、さっき塔子の部屋に行ったんだけどね」
「ん……。」
「塔子、机に何か広げて私の声に気付きもしないの。やっと気が付いたと思ったら何か隠したのよね」
直子はためらいながら小さな声で続ける。直子の話を聞きながらも優介は新聞の一点をみつめたまま身動きひとつしない。
「確かに親の権限を超えた行動だったと反省してるわ。だけどね……。どうしても気になって、あとで引き出しを見たら【はじめての赤ちゃん】っていう本と【手術同意書】が出てきたの。塔子、妊娠してるわ。間違いないと思うの」
「……そうか」
ひと言だけ答えて優介はまだ新聞をみつめている。
「『そうか』で済まされないわ! あの子私たちに何も言わずに手術を受ける気なのよ、きっと」
ついに直子は優介の手から新聞を奪い、テーブルに放り投げた。
「ちゃんと考えてよ! こんな大事なことなのに、あの子あんなに普段通りを装って……。きっとひとりで苦しんでるのよ。前からおかしいとは思ったけどまさか妊娠だなんて」
優介の足を手のひらで叩いて今にも直子は泣きだしそうな顔をしている。足を叩き続ける直子の手を掴み、優介はやっと直子の目を見て口を開く。
「塔子が今やるべきことは何だ? 今の大学にだってすごく頑張って入ったんじゃないか。もう少しで塔子の夢が叶うんだぞ」
「だからって手術を受けようとするあの子を何も見なかったふりして放っておくの? あの子のおなかにいるのは私たちの家族なのよ?」
普段のおっとりとした口調の直子ではなかった。むしろ優介の冷静な態度に納得がいかず、早口で食ってかかっている。
「俺は念願の国家公務員にはなれたが出世コースからは外れた。なぜだか分かるか? 大学中退だからだよ。塔子にはそんな思いはして欲しくない」
「だからなに? 中退してまで欲しかったものをあなたと一緒に手に入れたと私は思ってた。優ちゃんは後悔してるの? あのまま父のいいなりになっていれば良かったと思ってるの? そうしてたら塔子は今ごろ――」」
乾いた音がリビングに響いた。直子は左の頬を手で押さえ、ソファに倒れこんでいる。
「……ごめん」
初めての痛みに驚いた直子は瞳にいっぱいの涙をためて黙り込んでいた。
「最低だな、俺。女に手を上げるなんて自分でも思ってなかった。だけど塔子には、あいつにだけは満足行く結果を手に入れてほしいんだ」
再びリビングに乾いた音が飛ぶ。思い切り腕を振り切ったのは直子だった。優介は驚いてただ直子の顔を見ている。
「優ちゃんはあの頃の気持ちをすっかり忘れた、ただの嫌な大人になっちゃったの? 私はそんな優ちゃんを好きになったんじゃないわ!」
直子は決して感情的に怒鳴っている訳ではない。逆にそれが彼女の気丈さを感じさせる。
「優ちゃん、あなたには理解できるはずよ。親としてあの子をどう導いてやるべきか。落ち着いてちゃんと話しましょう」
優介はうなづいてギュッと目を閉じた。直子は優介の広い背中を小さな手でさすりながら静かに話し始める。時折顔を見合わせ、お互いの話に耳を傾けては自分の意見を言い合った。
三上家のリビングには夜が深くなってもまだ灯りがついている。虫たちの心地よい鳴き声の合唱も次第に小さくなっていった。