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11.

 塔子はひとり、駅への道をゆっくり歩いていた。履き慣れたミュールをこんなに歩きにくく感じたのは初めてだ。それは痛めた足のせいではない。サチの塗ってくれた薬で信じられないくらいに痛みは消えている。転ぶことの怖さを塔子は意識するようになったのだ。


「あれ? 塔子じゃない。今日は恭也クンと一緒じゃないの?」

声の方を振り返ると同じ大学の藤井雪乃だった。雪乃は大学入学当時から塔子の友人だ。名前の通り透き通るようなきめの細かい白い肌は、北海道出身であることに関係あるのかと昔塔子は質問したことがある。もちろん雪乃には大笑いされたがその会話がきっかけで一緒にいることが多くなった。

「うん……、今日は用があったから。雪乃は今帰り?」

「私もちょっと待ち合わせまでの時間つぶししててさ。それより塔子、どうしたのその顔? 何かあったの?」

塔子より十センチ以上長身の雪乃は少しかがむようにして血管が薄く見えるほど白い右手を塔子の頬に伸ばした。

「何もないよ。少し暑さでバテてはいるかもね」

チヨの店で泣くだけ泣いた塔子の目のまわりは本人の想像以上にひどく腫れ、白眼は充血していて誰が見ても泣きはらしただろうことは想像できる。雪乃は心配そうにそっと塔子のまぶたを細く長い指でなぞった。

「そう? ならいいんだけど。塔子がひとりで帰るなんて珍しいからさぁ。恭也クンと喧嘩でもしたのかと思った。塔子さぁ、最近体調悪そうだし心配してたんだよね。何か困ったこととかあるんだったら絶対言ってよ?」

「うんうん、ありがと。それより雪乃の方こそ最近どうなのよ?」

「それがさぁ! もう、ちょっと聞いてくれるー?」


 二人はぶらぶらと歩きながら話し始めた。とはいえ話していたのは一方的に雪乃ひとりだ。

「この前医学部の友達に誘われて合コン行ったんだけどさ。メーカー勤めとか公務員が来るからって言われてね。ちょっと期待するじゃん」

雪乃はモデル体型の上におしゃれで美人にも関わらず彼氏がいない。性格が悪い訳でもない。むしろ社交的で親しみやすく、当然のように彼氏がいるように見える。男友達はたくさんいるらしいが特定の相手がいると塔子が耳にしたことはない。

「公務員の人が結構イケてたんだけどさぁ。別の日に会ってよく話を聞いてみたら警察官だって言うのよ。しかも交番勤務。私はてっきりキャリア組だと思ってたのよ。他のメンツ的にもね。確かに公務員には違いないけど詐欺じゃない、コレ?」

表情豊かな雪乃の顔は話しながら喜怒哀楽が忙しく行き来している。塔子は相槌を打ちながら底抜けに明るく元気な雪乃を微笑ましく眺めていた。

「おまわりさんじゃあねぇ……。」

派手に思い出し笑いをして雪乃はひとりでつぶやく。

 彼女の父は北海道で開業医をしている。父親は雪乃が無事国家試験に合格してある程度経験を積んだら、病院にリハビリテーション科を併設し雪乃に担当をと考えているらしいと塔子はずっと前に本人から聞いたことがあった。

「いいじゃない、おまわりさん」

塔子の言葉に雪乃は長いまつげとメイクで普段でも大きな目を、さらに見開いて大げさに驚いた顔をした。

「いやよぉ。だいたい事件とか物騒でやっぱり心配じゃない。でも交番勤務なら道案内とか酔っ払いの介抱とか、危険な目に遭いにくい気はするけど?」

自分で言っておいて自分で大笑いしている。少々プライドが高い所に雪乃の彼氏不在の原因があるようだ。塔子はつくづく苦笑しながら惜しい、と心の中でつぶやいた。


 駅に到着し二人は「またね」と言って別れた。

 雪乃の話は楽しかったが塔子は自分とは既に別世界の話に聞こえた。これから出会う人、その人たちとの人間関係の展開は胸躍るような未来の扉をひとつ、またひとつ開けていくようで想像しただけでわくわくする。羨ましさは感じたが、塔子には別の目的とわくわくがある。自分が命を授かることが出来た。その事実は今や塔子を感謝と喜びであふれさせている。


 最寄駅から自宅への道のりは最近では珍しく足取り軽かった。ただサチとの別れ際に言われた【両親にちゃんと説明すること】を考えると頭に何もいい案が浮かんでこない。たとえ何を言われてもこの命を手放す気など塔子は毛頭ない。どうにかして両親を説き伏せるしか道は無いのだ。サチは微妙な反応をしたが恭也にも認知だけはして欲しいと言うつもりでいる。


 帰宅すると母は庭の植木にホースで水やりをしている。声だけかけて塔子は二階の自室へ向かった。

【はじめての赤ちゃん】

帰りに書店で買ってきた本を開いてみる。塔子は妊娠八週目と書かれたページを見ていた。

【赤ちゃんはそろそろ頭・胴・足が確認出来るようになり、人間らしい顔になってきます】

本にあるエコー画像の胎児はただの細胞の塊ではなく、しっかりと生きている小さなヒトの幼体だった。そんな文字を目で追っていると塔子は改めて厳しいことを言ってくれたサチへの感謝を感じた。電車でおやじを怒鳴りつけた日、サチに出会わなかったら塔子は人生のこの大事な分岐点で違う道を選んだに違いない。


 塔子は以前妊娠を告げられた病院で自ら望んでもらってきた【手術同意書】を取り出した。こんな紙切れ一枚で小さな命を闇に葬ろうとした自分を、今さらながら激しく嫌悪し許せなかった。破いて捨てようと紙の上部を指で掴んだが、ふと考えが頭に浮かび微妙にシワになった用紙を丁寧に机の上に押しつけて指先で伸ばす。

「塔子? なんだ寝てるのかと思ったわ。何度もノックしたのよ。ご飯の支度するから手伝ってくれる?」

 母の声に心臓が止まるかと思う程驚いたが、幸い母は部屋の入口に立っていた。塔子は開いた本と同意書を机に置いたまま自分の体で隠すように少し振り向いた。いつものようにいつもの顔で。

「ごめん、居眠りしかけてた。すぐに行くね」

母は微笑んでうなづき、階段を下りて行った。

――大丈夫、見られてない。まだどう言うか決心出来てないし。

 その時塔子の頭に名案と思える作戦が浮かんだ。

――手術出来ない時期になってから言えばいい。そうすればどんなに反対してもこの子の命を奪うことなんて出来ないわ。

我ながら冴えてる、などと思うと自然に笑みがこぼれた。塔子は机の引き出しに本と同意書を隠し、何食わぬ顔で飛び跳ねるようにキッチンへ向かった。

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