10.
静寂が薄暗い店内に広がる。ビルとビルの陰にあるせいか、ギラつく太陽の光など一切感じられない。空調設備が作動しているとは思えないこの店の気温が不快なものでないのもそのせいだろう。
「アンタ、何のためにそんなに勉強して資格を取りたいんだい?」
ついさっき塔子を怒鳴りつけたことがまるで嘘のように、穏やかでゆったりとした口調でサチは訊ねた。あまりにも意外なサチの変化に面食らった塔子はすぐに返答することが出来ない。
「え……っと。子供の頃に足首を骨折したことがあって。リハビリはとても辛かったけど担当の理学療法士さんがいつも励ましてくれて。こんな仕事もあるのかって思ったのが最初で……。」
「その人に憧れて……ってんだね」
要領を得ない塔子の返答にサチは先回りして結末を言ってしまった。塔子は慌ててうなづく。
「人の……、役に立ちたいっていうか。回復して喜んでくれる笑顔がとても嬉しいんです。確かに仕事は大変なんですけど充実感っていうか達成感っていうか。ああ、こんな仕事が絶対したいって。言葉では表現しきれないです」
塔子は実習で体験した現場の大変さがほんの一部だという事は理解している。だが嬉しそうに、まだ無資格の学生である自分を拝むように心から感謝してくれる患者さんの顔が今でも頭に浮かぶ。感じたことのない喜びが心と体を震わせた鮮烈な経験は、決して忘れる事が出来ない。
夢中で熱く語る塔子の話をサチは黙って聞いていた。そしてまだ続けようと話し続ける塔子の言葉をさえぎって静かにつぶやいた。
「他人様のお役に立つことは確かに立派さ。だがその前にまず身内じゃないのかね」
塔子はサチのひと言でぱったりと黙り込んでしまった。
「アンタ、一応お医師に似たような勉強してんだろ? ならそのおなかに宿ったのはもう命だってことも分かるだろうに」
「分かってます。だけど私まだ育てることなんて」
「いいから聞きな」
顔をゆがめる塔子にサチは語り始めた。
「アタシは神様なんて信じちゃいないけどね。命は誰にでも授かるもんじゃないんだよ。望めば必ず手に入るってもんじゃない。確かに原因があったから結果があるんだがね。ほら、身に覚えがあるだろ? やることやらないと命は生まれてくるわけがないんだ」
サチはうつむく塔子の顔をにやりと笑って覗き込んだ。塔子はとっさに顔をそむける。
「だが男と女がどんなにやることやって努力したって無理なもんは無理なのさ。授かり物っていうのはそういう事だよ。命の方からアンタを選んだのか別の力がそうさせたのかは知らないがね」
サチはカラになったグラスを持ち、再びチヨを呼んで二杯目を飲み始めた。
「その授かった命はおなかの中で聞いてるんだよ。この世でたった二人、信用して信頼して、愛している両親が自分を殺す相談をしているのをね。残酷な話さ。確かに今は腕に抱く事も手で触れる事も出来ない小さな命だがね」
サチの話を聞きながら次第に震えだす両手を、塔子は止める事が出来なかった。そして自らの顔から血の気が引いていくのもしっかりと感じていた。
「胎内記憶って聞いたことないかい? 子供が胎児の頃の事を話す例はたくさんあるよ。その記憶が妊娠何カ月からかなんてことは偉ーい学者さんでも分からないのさ。アンタのおなかの子がまだ何にも分からない時期だなんて言い切れるかい? アンタが毎日悩まされてる微熱も気持ちの悪さも、きっと命が必死に訴えかけてるのさ。『ここにいるよ、ちゃんと生きてるんだよ』ってね」
平然として話すサチに反論したい点はたくさんあるが、先ほどの饒舌さとは対照的に塔子の口からは全く言葉が出てこない。
蒼白な顔色で唇を震わせ宙を見つめる塔子を笑顔で眺めながらサチは続けた。
「苦しいかい? 苦しむべきなんだよ。今アンタが中途半端に苦しんだような気になって行動したら、この先死ぬまでずーっとアンタは苦しむことになるさ」
サチがストローでかき回す氷が静寂の中で涼しげな音を奏でる。
「……死ぬまで、ずっと苦しむ……。」
自分に問いかけるようなかすかな声でようやく塔子は言葉を発した。
「そうさ。そんな女を何十人、何百人と見たよ。みんな同じに死んだ子の歳を数えるんだ。アンタの言う≪いつか≫子供を産んでみな。もしあの子が生まれていたら目の前にいるこの子といくつ違いで……ってきっと思うだろ。いや、女なら思うはずさ。確かに自分の中に居た感覚があるからね。そして苦しみと後悔は一生続くのさ」
サチの話は塔子の心を打ちのめした。塔子がいかに安易に今回のことを考えていたか思い知るのに十分すぎる重い一撃だった。医者ではないので命を預かる、とまでは言えない職業だが人の体を扱う仕事を目指していたことに変わりはない。塔子は猛烈に己の軽薄さ、知恵の浅さを恥じた。
『アンタ、あの赤ん坊絞め殺せるかい?』
さっきサチが投げかけた言葉の意味がようやく今なら理解できる。目に見えているかいないかの違いで自分のしようとしたことは全く同じことだったのだ。震える両手で自分のおなかを包むと、今まで感じたことのない≪我が子≫という感情がこみあげてくる。
さっき流した涙とは別の涙が塔子の頬を濡らした。怒りの涙ではなく懺悔の涙、命への謝罪の涙だった。
「こんなひどい母親を選ぶなんて……。ごめんなさい、本当にごめんね……。」
今までは困った存在でしかなく出来ればそっと消えてくれたら、などと考えていた命を初めていとおしいと思えた。しかし将来の不安が塔子を襲う。
「でも私どうしたら……。」
「アンタが恐れてるものは世間体とか金とか親の失望だろ? 大丈夫、ちょっと覚悟はいるがそんなものはどうにでもなるんだよ。前にも言ったろう? 問題なんてバカみたいに簡単なもんなんだよ」
塔子の瞳から溢れる涙は止まる気配はなく、古いテーブルに水たまりを作っている。まるで夏の終わりによくある夕立の風景のように。
サチはいつしか塔子の隣に座り、子供をなだめる母のごとく優しく塔子の髪を撫でている。塔子はサチの肩に頭をもたせかけながら、初めてサチに出会った時のことを思い出していた。どこかで会ったことのあるような、懐かしいような。いかめしい顔のサチに優しさと温かさを確かに感じた。全くの他人であることは間違いないが、幼い日に母に抱かれて眠ったような安らぎと温かさにしばし包まれていたいと強く願った。
サチへの疑念も不信感も不思議なほどに消え去り、むしろ信頼感と安心感が体の奥底から温かい湯気のようにやわらかく湧いてくる感覚に塔子は身をゆだねていた。