1.
九月の空は真夏のそれとは違い、雲の高さや形がだんだんと秋の訪れを知らせてくれるものだ。自然や植物・昆虫によって古くから日本人は四季の移り変わりを愛でてきた。ただし近年の地球温暖化によってそんな懐かしい季節感も、今ではすっかり感じられないようになってしまった。
今日も朝からぐんぐんと気温が上がっている。駅のホームから見える線路には、もやもやと陽炎が立ち上っている。
三上塔子は人の波を抜け、電車を待つ列の最後尾に立った。大学はまだ夏休みだが、半年後に受験する国家試験の対策講座に参加するのだ。
長い髪を束ねてはいるが、白く細い首に毛先がまとわりついてくる。ホームで電車を待つ誰もが暑すぎる残暑に苦しんでいた。昨夜眠れない夜を過ごした上に体調もひどく悪い塔子にとって、この状態で電車に詰め込まれるのはどうしても避けたい。
――何本か見送って当駅発の電車で座ろう。
電車がホームに滑り込んでは人々を吸いこんで走り去っていく。並んでいた列も随分と前に進み、次の電車でなら座れそうな場所までたどり着いた。
目当ての電車が熱風を伴い入ってきた。目前を過ぎるどの窓にも人影は無い。当然誰もが同じ事を考えているのでドアが開いた途端に車内へと押し流される。塔子は何とか座席を確保することが出来た。カバンからミニタオルを取り出し、額の汗をぬぐう。その汗は気温のせいだけではなかった。気分が悪く冷や汗も流れていたのだ。塔子は唇をぐっと噛み締め目を閉じて苦痛に耐える事にした。降りる駅へは五十分近くある。昨日眠れなかった分、体力をほんの少しでも消費せず、むしろ回復したかったのだ。
何度か電車は止まりドアが開いて人々が出入りする。十五分程経っただろうか。塔子のつま先が誰かの靴に当たった感覚がした。塔子は両足を座席の下へ引っ込めた。それでもまだつま先に繰り返し靴が当たってくる。故意に誰かが足を蹴っているようだ。塔子はうなだれていた頭を上げた。サラリーマン風の男が塔子を見下ろし、鋭い目で睨んでいる。
「えっ」
驚いて言葉が出なかった。定年間近と言ったところか、白髪混じりで少し薄い髪の男だった。
「え、じゃないだろう。元気盛りの若い娘が朝から電車で居眠りか」
呆れたような顔をして男は塔子の全身を顔から足先まで眺めた。何人かの乗客がちらとこちらを見ている。
「学生だろ、気楽な身分のくせに。若いうちは立ってりゃいいだろう」
どうやら席を譲れと言いたいらしい。塔子は人の目に晒されている恥ずかしさも手伝って怒りを感じた。
「ここは優先座席じゃないですよ。それにあなたに指示される覚えもないです」
さっきより多くの乗客が塔子の反撃に驚いて振り返っている。
男はさらに目を吊り上げ、眉をけいれんさせている。
「生意気な。これだから若いヤツは話にならんな。毎日労働で疲れてるおやじに座席も譲れんのか。親の顔が見てみたいもんだ」
全く理不尽な男の言い分だが、自分はさておき親までも悪く言われた事で塔子の自制心はアッサリと抑えきれないものとなった。
「ちょっとおじさん……。」
ミニタオルで口をおさえ、塔子は気分の悪さを体の奥底へ抑え込んだ。
「ひどい体調だから今日は座ってるの! 言われなくてもいつもは立ってます。今日は何本も電車やりすごしてやっと座ってるの! 労働で疲れてるって? 普通働いてる人は疲れるだろうし、学生だって遊んでる子ばっかりじゃない。何も知らないくせに勝手に決め付けないでよ!」
一気にまくしたてた塔子の剣幕にうろたえたのか、男は何も言い返してこない。怒りおさまらない塔子はさらに続けた。
「お年寄りや不自由な人なら見てすぐ分かるけどね……。倒れそうに気分が悪い若者だっているの!」
もはや車両中の客の視線が塔子に集中していた。遠くの座席からも多くの客が背伸びをしたり体を動かしたりしてこちらを見ているのが分かる。
押し黙った男を無視して塔子はカバンにミニタオルや音楽プレーヤーを次々に突っ込んだ。そしてもう一度男を見上げた。
「どいて下さい。降りたいんで」
素直に男は一歩横によけた。塔子は立ち上がり、開いたドアの方へ大股で歩きながら振り返った。
「分からないだろうけど、これでも私妊娠してんの!」
人々の驚く顔が電車の発車とともにゆっくりと去っていく。その後に吹いた風は涼しかった車内のひと時の心地よさを一気に消し去るくらいに熱かった。