仕事をください魔王様!
「魔王様、何か仕事はございませんか?」
「……もうない」
玉座に腰掛けた魔王は、こめかみを押さえながら深いため息をついた。
「どれだけ仕事をすれば気が済むんだ、お前は……」
呆れと心配の混じった視線が、正面に立つ側近へと向けられる。
「では、城内の清掃を――」
「終わっている」
「でしたら、夕食の仕込みを――」
「それも終わっている」
「であれば、備品の整備を――」
「何度も言わせるな、すべて片付いている。これ以上働かれると、他の者の仕事までなくなってしまうだろう」
ぴしゃりと言い切られ、ベレイ・コルテージュは口を閉ざした。
それでも諦めきれず、その場に立ち尽くす。
仕事がなくなった途端、自分には何が残るのだろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
その様子を見た魔王は、再び大きく息をつく。
「側近よ……いや、ベレイ」
玉座の背にもたれながら、魔王は少しだけ声を和らげた。
「今は上司ではなく、友として言わせてもらおう。我にも妻と子供がいるだろう? 我も妻も、お前のことを心配しているのだ。そろそろ良い相手を見つけて欲しいと思っている。人類と魔族が和解してから、もうかなりの年月が過ぎた。相手が魔族でなくとも構わん。今の時代、恋愛も多様性の時代だぞ?」
「……ありがたいお言葉ですが、私にそのような相手は……」
これまで恋人ができたことは一度もない。
気づけば人生のほとんどを仕事に捧げ、仕事だけが自分の取り柄になっていた。
女性が何を考えているのか分からない。
当然、何を話せばいいのか知る由もない。
仕事の話ならいくらでもできるが、それ以外となると駄目だった。
気の利いた言葉ひとつ出てこない。
自分が恋愛に向いていないことだけは、嫌というほど理解していた。
その時、
「ごめんくださ〜い!」
城門の外から、明るい声が響いた。
周囲に元気を与えるような、聞き慣れた人懐っこい声。
魔王とベレイは同時にそちらを向く。
「「……また来たのか」」
そして、見事なまでに声が重なった。
◯
「申し訳ありませんが、本日もご案内できかねます。勇者ジェナ・トーヴ殿」
魔王城の正門前。
ベレイの視線の先に、いかにも冒険者らしい女性が立っていた。
勇者ジェナ・トーヴ。
かつて世界を救った英雄にして、現在は週に何度も魔王城へ押しかけてくる困った常連客だった。
「えへへ。そう言われると思って、今日は手土産を持ってきたんです!」
ジェナはぱっと顔を輝かせ、抱えていた籠を掲げる。
焼き菓子らしき甘い香りがふわりと漂った。
「だからその……中に入れてもらえると嬉しいなって……」
期待に満ちた眼差し。
だが、ベレイの表情は一ミリたりとも揺るがない。
「……またお食事目当てですか?」
「ち、違いますよ!? いや、ちょっとは楽しみですけど! ほんのちょっとだけですから!」
ジェナは慌てて両手を振る。
「……やっぱり、今日も駄目ですか……。あっ、じゃあせめてお持ち帰りを――」
「お持ち帰りには対応しておりません」
「うーん、残念」
断られているにもかかわらず、ジェナはどこか楽しそうに笑った。
どれだけ追い返しても、彼女は当たり前のようにやって来る。
そんなことを繰り返している内に、この何気ないやりとりがべレイにとって日常茶飯事になっていた。
「そういえば、ベレイさんって毎日暇してるんですか?」
ジェナがのんびりとした口調で尋ねる。
「……暇、というのは少々語弊がありますが」
ベレイは軽く咳払いをしてから、真面目な顔で答えた。
「魔王様も、もう少し仕事を与えてくださってもよいのですが……。人類と和解して以降、以前ほど業務がなくなりまして……」
「あ、それならちょうど良かったかも!」
ジェナは、両手をぱんと打ち合わせた。
「……何がでしょう」
「お仕事が少ないなら、ちょっとくらいおしゃべりしてても、バチは当たりませんよね?」
「……問題はありませんが……」
「やった!」
花が咲いたようにジェナが笑う。
なぜそこまで喜ばれるのか分からず、ベレイはわずかに首を傾げた。
するとジェナは少し視線を逸らし、小さく口を開く。
「あのですね……わたし、本当は……」
そこで言葉が途切れた。
珍しく緊張している。
指先が落ち着かない様子で、籠の持ち手を弄っていた。
やがて、意を決したように顔を上げる。
「……本当は、ベレイさんとお話ししたかっただけなんです……」
「……え?」
「え、えっと! 変な意味じゃなくてですね!? あ、いや、ちょっとはあるかもですけど……!」
ジェナの頬がみるみる赤く染まる。
視線が泳ぎ、普段の堂々とした勇者の姿はどこにもない。
自分でもなにを口走っているのか、分からなくなってきている様子だった。
けれど次の瞬間、ジェナは小さく息を吸い込み、まっすぐベレイを見つめた。
「よければ……今度一緒に、お茶でもどうですか?」
風がふわりと吹き抜ける。
午後の柔らかな陽射しが、門の隙間から差し込んだ。
数秒の沈黙。
やがて、ベレイはわずかに視線を逸らし、目を伏せたまま口を開く。
「……検討します」
「えっ、本当ですか!?」
ジェナが声を弾ませたそのとき、
「あらあらまあ……」
面白いものを見たと言わんばかりの愉快そうな声が響く。
声のした方へ目を向けると、上品な微笑みを浮かべた女性が立っていた。
魔王の妻である王妃。
その隣では、小さな双角を生やした幼い男の子が、不思議そうな顔でこちらを見上げている。
「お、奥様……! おかえりなさいませ……!」
ベレイは弾かれたように背筋を伸ばし、一瞬で完璧な礼を取った。
ジェナも慌てて、ぺこりと頭を下げる。
「ふふ、ご丁寧にありがとう」
王妃はくすりと笑い、意味ありげに二人を見比べた。
「もしかして……お邪魔だったかしら?」
「い、いえ! そのようなことは断じて……!」
珍しいベレイの様子を見て、王妃は楽しそうに目を細める。
「あら、ごめんなさい。察しが悪かったわね。私たちは先に戻るわ。……今度、詳しいお話を聞かせてちょうだい?」
「は、はい……!」
王妃は満足げに頷き、息子の手を引いて城内へと歩いていく。
去り際に小さな男の子が振り返り、
「べれい、おともだちできたの?」
と無邪気に追撃してきたが、ベレイは聞こえなかったことにした。
◯
静まり返った執務室。
積み上がった書類の山を前に、ベレイはペンを握ったまま固まっていた。
彼の辞書に、誤字脱字という言葉は存在しない。
正確無比かつ迅速丁寧、魔王軍最高の側近。
そんな彼が、先ほどから同じ行を三度も書き直している。
普段ならまずあり得ないミスだった。
「……落ち着け、私。ただ食事に行くだけだ……」
ペンを置き、両手で顔を覆う。
だが、内心はまるで落ち着いていなかった。
服装はどうする。
そもそも、自分はお洒落な服を持っていただろうか。
お店はどこを選べばいい。
彼女は何が好きで、何が苦手なのだろう。
話題はあるのか。
二人きりなのに、沈黙で気まずい空気になったらどうする。
考え始めると、次から次へと不安が湧いてくる。
「……悩んでいるな?」
「っ!?」
ベレイは椅子ごと飛び上がり、勢い余って机に膝をぶつけた。
「ぐっ……!」
涙目になりながら顔を上げると、いつの間にか扉の前に魔王が立っていた。
「ま、魔王様、いつからそこに……?」
「二度目の書き直しをしていた辺りからだ。ノックもしたのだがな。全く気付かんので、勝手に入らせてもらった」
「申し訳ありません……!」
ベレイは思わず頭を抱えた。
仕事中に上司の気配に気づけないとは、側近失格である。
「で、悩みの内容は服装か? 店選びか? それともデートそのものか?」
「今おっしゃったもの、全てに悩まされているのがつらいところです……!」
魔王は苦笑しながら向かいの椅子を引き、静かに腰を下ろした。
「私はこれまで、女性と二人きりで出掛けた経験など……」
「ないのだろう?」
「……はい」
「安心しろ、我も最初は似たようなものだった」
「……魔王様が、ですか?」
ベレイは目を丸くした。
魔王と王妃は、今や人類と魔族の双方で理想の夫婦として知られている。
互いを自然に支え合い、隣にいることが当たり前のような関係。
誰もが羨む仲睦まじさだ。
だからこそ、べレイは最初から順調だったのだと思っていた。
「付き合う前など酷いものだったぞ。食事に誘うだけで三日悩んだ」
「……意外です」
「だろうな」
魔王は少し笑い、椅子の背にもたれかかった。
そして、どこか懐かしそうに目を細める。
「当時は、服装、店選び、話題……色々と考えていた」
「…………」
あまりにも今の自分と同じで、ベレイは何とも言えない顔になる。
魔王はそんな彼を見て小さく笑うと、静かに指を組んだ。
「だがな、ベレイ。一番大事なのは、服でも段取りでもない。その時間を、相手と一緒に楽しもうとする心だ。人というのは不思議なものでな。多少失敗しようが、不格好だろうが、楽しかったという気持ちは伝わる。逆に、完璧にこなそうとしすぎると、肩肘を張って疲れてしまうものだ」
ベレイはその言葉を噛みしめるように黙り込む。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、魔王は満足そうに頷いた。
「まあ、昨日の今日で混乱するのも無理はない。だが、デートは三日後なのだろう? 気負いすぎず楽しんでこい。何事も経験だからな」
◯
王都中央広場。
休日ということもあり、広場は多くの人々で賑わっている。
そしてベレイはというと、先ほどから噴水の近くを何度も往復していた。
「……早すぎただろうか」
いや、遅刻するよりは遥かにマシだ。
時間に余裕を持つのは社会人として当然。
そう自分に言い聞かせるものの、どうにも落ち着かない。
立ち止まれば余計なことを考えてしまうため、結局また歩き出す。
ふと、自分の服装へ視線を落とした。
普段の軍服ほど堅苦しくはないが、全体的に落ち着いた印象にまとまっている。
もちろん、自分で選んだわけではない。
執務室で頭を抱えていたベレイを見かねた魔王夫妻が、半ば強制的に選んだものだった。
『服を選べばよいのだな?』
『これはどうかしら?』
『派手すぎる気がします』
『ではこちらは?』
『動きづらそうです』
『こっちは?』
『私には似合いません』
『うるさいわね、この子』
最終的に、王妃が強引に押し切る形で決定したのが今の服装だった。
ベレイは小さく息を吐く。
脳裏に浮かぶのは、鏡越しに微笑んでいた王妃と、その隣で腕を組んでいた魔王の姿。
『大丈夫よ。あなた、自分で思っているよりずっと格好良いんだから』
『べレイ、我が保証する。後の問題は服装ではない、お前自身だ』
思い出しただけで頭が痛くなる。
ベレイが小さく額を押さえた、その時だった。
「ベレイさーん!」
聞き慣れた声が広場に響く。
だが、今日はいつもよりずっと弾んで聞こえた。
反射的に振り返る。
「……っ」
思わず、息を呑んだ。
向こうから小走りに駆けてくるジェナの姿に、完全に目を奪われる。
いつもの冒険者らしい格好ではない。
柔らかなクリーム色のブラウスに、淡い桃色のロングスカート。
腰には細い革ベルトが巻かれ、足元には編み上げのショートブーツ。
そして何より目を引いたのは、高く結ばれた茶色のポニーテールだった。
陽光を受けて輝くその髪が、走るたびに元気よく揺れる。
飾り気は多くないが、それがかえって彼女らしかった。
「お待たせしました!」
「い、いえ……私も今来たところです」
ジェナはきょとんとしたあと、くすりと笑った。
どうやら、かなり前から待っていたことを見抜かれたらしい。
「えへへ」
嬉しそうに笑うと、その場でくるりと一回転する。
ふわり、とスカートの裾が広がった。
「どうですか? 似合ってます?」
ベレイは言葉を探す。
頭の中には感想がいくつも浮かんだ。
可愛い、綺麗、似合っている。
だが、どれもうまく口にできない。
「……ずいぶん雰囲気が違いますね。とても……似合っています」
ようやく絞り出した言葉に、ジェナの表情がぱっと明るくなった。
「よかったぁ……」
胸の前で手を握り、ほっとしたように笑う。
すると今度は、ジェナがじっとベレイを見上げた。
「ベレイさんも、すごく似合ってますよ」
「……私がですか?」
「はい! なんだかすごく新鮮です」
それから少し照れたように笑い、視線を逸らす。
「……ちょっとドキッとしました」
「…………」
ベレイの思考が止まり、完全に固まった。
「ふふっ、固まってますよ?」
「……あまり笑わないでください」
「ごめんなさい。でも、反応が面白くて」
くすくすと笑ったあと、まったく反省していない様子で、ジェナはごく自然にベレイの隣へ並ぶ。
「じゃあ、行きましょうか! おすすめのお店があるんです! 案内しますね!」
「ええ、よろしくお願いします」
弾むような足取りで先を行くジェナを、ベレイは後に続くように追いかけた。
◯
王都の大通りは、多くの人々で賑わっていた。
人族、魔族、獣人、エルフ、ドワーフ。
かつて争い合っていた種族たちが、今では同じ街で肩を並べ笑い合っている。
露店からは香ばしい匂いが漂い、商人たちの呼び込みが飛び交っていた。
遠くで子どもたちの笑い声も聞こえてくる。
「……本当に、変わりましたよね」
ジェナが空を見上げながら呟く。
「ええ」
ベレイもまた、静かに空を見上げた。
「こうして並んで歩いていることが、夢のように感じます」
魔王軍の側近と人類の勇者。
戦争の最中なら、街中が騒然としていただろう。
だが、今は違う。
二人を見ても、すれ違う人々が怯えることはない。
むしろ微笑ましそうに眺める者ばかりだ。
かつて命を懸けて目指したものが、確かにここにある。
ジェナはそんな街並みを見渡しながら、どこか嬉しそうに目を細めた。
「そうですね。こんなふうに、一緒に笑って暮らせる日が来るなんて……昔は想像もできませんでした」
ベレイは隣を歩く彼女の横顔を見る。
不思議と肩の力が抜けていた。
気を張る必要がない。
完璧でなくてもいい。
彼女の隣にいると、そんなふうに思える。
「……私もです」
「え?」
ジェナが目を丸くする。
ベレイは、そこで初めて自分が笑っていることに気づいた。
それは彼自身も知らないほど自然で、穏やかな笑みだった。
◯
賑やかな大通りを抜けると、二人は少し落ち着いた通りへと入った。
その先に見えてきたのは、一軒の喫茶店だった。
淡い灰色の石で組まれた外壁。
木製の扉の上には、『カフエス』と彫られた看板が掲げられている。
周囲には季節の花々で編まれた色鮮やかなリースが飾られていた。
「ここです!」
ジェナが嬉しそうに振り返る。
「落ち着いた雰囲気ですし、どのメニューも絶品なんですよ!」
「……良いお店ですね。案内してくださって、ありがとうございます」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいです。もう予約してあるので、早速入りましょうか」
ジェナに促され扉を開けると、温かな空気と甘い香りが二人を優しく迎え入れた。
石造りの外観とは対照的に、店内は木の温もりに満ちている。
丸いテーブルには白いクロスが敷かれ、各席に季節の小花が一輪ずつ飾られていた。
天井から吊るされたランプが柔らかな光を落とし、穏やかな音楽が静かに流れている。
時間の流れがゆっくりになったような空間だった。
「……あの」
ジェナがそっとベレイの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか? こういう雰囲気、苦手だったりとか……」
ベレイは改めて店内を見渡した。
初めて訪れたはずなのに、不思議と落ち着く。
「いえ、むしろ心地いいです」
そう答えてから、少しだけ視線を落とした。
「……昔から、こういう場所に来てみたかったのかもしれません」
ジェナは一瞬きょとんとした後、ふっと優しく微笑んだ。
「ベレイさんって、意外とロマンチストなんですね」
「……自覚はありません」
あまりにも真剣な表情に、ジェナはつい吹き出してしまう。
「笑わないでください」
「ふふっ、ごめんなさい」
相変わらず、その笑顔にはまったく反省の色がなかった。
◯
窓際の席へ案内された二人は、向かい合うように腰を下ろした。
窓の外には、穏やかな王都の街並みが広がっている。
「…………」
だが、ベレイには景色を楽しむ余裕などなかった。
向かい側に座るジェナが近い。
少し視線を上げるだけで目が合ってしまう。
しかも今日は私服姿で、より落ち着かない。
ベレイは内心で必死に平静を保っていた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
注文を取りに来た店員に、ジェナは慣れた様子でメニューを指差す。
「わたしはこのマイルドティーと、ローズタルトでお願いします!」
「……私は、コーヒーとチェレンショコラを」
「かしこまりました」
店員が軽く会釈して離れていく。
するとジェナが少し意外そうに目を丸くした。
「ベレイさんって甘いもの食べるんですね。なんとなく、ブラックコーヒーだけ飲んでそうなイメージでした」
「どういうイメージですか、それは」
ベレイはわずかに眉をひそめる。
「甘いものも時折口にしますよ。正直、ジェナ殿が頼んだローズタルトと悩みました」
「えっ、そうだったんですか? なんだかちょっと安心しました」
「安心?」
「ベレイさんって、完璧超人みたいに見えるので。ちゃんと悩むんだなぁって」
「私を何だと思っているのですか……」
そんなやり取りをしてから、ジェナは少しだけ視線を逸らし、指先で頬を掻いた。
「あの、ベレイさん。いつもみたいに殿付けじゃなくて大丈夫ですよ。今日はせめて……さん付けで呼んでください」
ベレイは言葉に詰まる。
呼び慣れた敬称を変える。
それだけのはずなのに、なぜか緊張する。
「ほら、せっかくの……デートなんですから」
ジェナがほんのり頬を染める。
ベレイはしばらく沈黙したあと、観念したように小さく息を吐いた。
「……分かりました。ジェナ……さん」
「はい、それでいいんです!」
やがて、軽やかな足音とともに店員が戻ってくる。
「お待たせいたしました。マイルドティーとローズタルト、そしてコーヒーとチェレンショコラでございます」
銀のトレイから漂う甘い香りに、自然と視線が引き寄せられた。
ローズタルト。
淡い桃色の果実が重なり、薔薇を思わせる繊細な形を作り上げている。
中央には艶やかなクリーム。
散りばめられた花びらが彩りを添え、美しい見栄えとなっていた。
対するチェレンショコラ。
深い黒褐色の生地。
表面には薄く金粉が散らされ、華やかなローズタルトとは対照的な、静かな高級感があった。
「わぁ……綺麗……!」
ジェナは思わず身を乗り出し、瞳を輝かせる。
「……確かに見事ですね」
ベレイも目を細め、静かにケーキを見つめた。
「じゃあ、いただきましょうか!」
「そうですね」
そう言って、ジェナがティーカップを持ち上げた、その時だった。
「はい、あーん♡ ……どう? 美味しい?」
「……うん、美味しいよ! ありがとう!」
店の奥から聞こえてきた楽しげな声に、二人は何気なく視線を向ける。
そこには若い男女が向かい合って座り、互いのケーキを食べさせ合いながら、幸せそうに笑っていた。
二人だけの世界に入り込んでいる。
ジェナの動きが止まった。
ベレイも、コーヒーカップへ伸ばしかけた手を止める。
どちらからともなく、二人は視線を逸らした。
何か言おうとして、ふと視線がぶつかる。
そして、お互いにもう一度目を逸らした。
胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。
ジェナは誤魔化すようにローズタルトを一口食べた。
もちろん、味わう余裕などない。
「あ、あはは……ちょっと憧れますよね、ああいうの……」
「『あーん』に、ですか?」
「ち、違います……!」
ジェナは一瞬で顔を真っ赤にし、両手で顔を覆った。
「もっとこう……自然に一緒の時間を楽しんでる感じというか……そういうのが素敵だなって……」
「…………」
ベレイはもう一度だけ恋人たちへ視線を向けた。
肩の力を抜き、当たり前のように同じ時間を過ごしている二人。
何も気負わず、誰かと穏やかな時間を共有すること。
それは彼にとって、ほとんど縁のないものだった。
「ああ、それなら……分からなくはありません」
静かにコーヒーを口に運び、ベレイは言う。
「私も……そういう関係は、良いものだと思います」
その言葉に、ジェナは少しだけ嬉しそうに笑った。
ベレイはカップを置き、視線をテーブルへ落とす。
すると、ジェナがふと思いついたように目を輝かせた。
「せっかくですし、一口交換しませんか?」
そう言いながら、ローズタルトを小さく切り分ける。
そして、
「はい、ベレイさん」
にこりと笑ってフォークを差し出した。
「……あーん」
「……っ」
ベレイの動きが完全に止まる。
先ほどの光景が、鮮明に頭をよぎった。
「ジェ、ジェナさん、それは……」
しかし、ジェナはフォークを引っ込めることなく、少し照れたように微笑んだ。
「……だ、駄目ですか?」
その問いに、ベレイは言葉を失う。
断るのも不自然ではないだろうか。
かといって、受け入れるのもどうなのだろう。
様々な思考が一瞬で頭の中を駆け巡る。
やがて、観念したように小さく息を吐いた。
「……では、失礼します」
静かに身を乗り出し、ローズタルトを口に含む。
薔薇の香りと上品な甘さが口の中に広がった。
確かに美味しい。
だが、それ以上に心臓がうるさかった。
「ど、どうですか?」
「……想像以上に、美味しいです」
「ふふ、良かったです!」
そして今度は、ジェナの視線がベレイの皿へ向けられた。
「じゃあ、次はわたしですね?」
「……っ」
ベレイの胸の奥で、再び鼓動が強く鳴る。
逃げ場はない。
ベレイは無言のままフォークを手に取り、チェレンショコラを小さく切り分ける。
そしてぎこちなく差し出した。
「……では、ジェナさんも……あーん、です」
「っ!」
自分から言い出したことだというのに、ジェナの顔が一瞬で赤く染まった。
「え、えっと……」
視線をさまよわせ、指先をもじもじと動かす。
やがて、覚悟を決めたように小さく頷いた。
「……いただきます」
そっと口を寄せ、ショコラを口に含む。
濃厚な甘さがゆっくりと舌の上で溶けていった。
「ん……! すごく美味しいです!」
その笑顔を見て、ベレイは小さく安堵の息を吐く。
窓の外から差し込んでいる午後の陽射しが、二人のいる席を優しく照らしている。
そのせいなのか、はたまた別の理由があるのか、二人のいる席は周囲より少しだけ温かな空気に包まれていた。
◯
店を出る頃には、王都は夕暮れ色に染まり始めていた。
人族も魔族も肩を並べながら帰路についている。
「今日はありがとうございました」
ベレイがそう言った。
丁寧で礼儀正しく、どこか他人行儀なその言葉に、ジェナはほんの少しだけ眉を下げる。
「それだけですか?」
「……?」
「例えば……楽しかった、とか」
ベレイは視線を逸らした。
胸の内にあるものを、どう言葉にすればいいのか分からない。
しばらく考えた末に、静かに口を開く。
「……悪くありませんでした」
「……悪くない、ですか」
ジェナは呆れたように笑った。
けれど、彼女の目は少しだけ寂しそうだった。
そのとき、
「うわああああん!!」
甲高い泣き声が通りに響く。
二人は同時に振り返った。
通りの端で、小さな魔族の子供が一人で立ち尽くしている。
小さな角も、背中の翼も成長途中でまだ幼い。
「……迷子ですね」
ベレイは迷いなく歩み寄る。
そして膝をつき、子供と目線を合わせた。
「ぼく、どうしたんだ?」
子供はびくりと肩を震わせたが、やがて少しずつ顔を上げる。
「……ママ、いない……」
「そうか」
ベレイは静かに頷いた。
「自分の名前、言えるか?」
「……ヴェルド」
「偉いな」
優しく頭を撫でる。
泣き声は少しずつ小さくなっていった。
ベレイはゆっくりと周囲へ視線を巡らせる。
行き交う人々、交差する気配。
その中に混ざる、不安と焦りの気配を探す。
やがて彼は小さく息をついた。
「……見つけた。ヴェルドくん、お母さんのところまで案内するから、一緒に行こう」
「……うん」
恐る恐る伸ばされた小さな手が、ぎゅっとベレイの指を握る。
その手を引きながら歩き出すベレイの背中は、どこか頼もしい。
ジェナは少し後ろからその姿を見つめる。
夕陽に照らされた彼の横顔を見ながら、ジェナもついていくように足を進めた。
◯
数分後、
「ヴェルド!」
駆け寄ってきた母親が、子供を強く抱きしめた。
「よかった……! 本当にありがとうございます!」
何度も頭を下げる母親に、ベレイは静かに首を振る。
「いえ、お気になさらず」
特別なことをしたつもりはない。
ただ当然のことをしただけ。
そんな様子だった。
「おにいちゃん! おねえちゃん! ありがとう!」
ヴェルドが満面の笑みで手を振る。
そして母子は夕暮れの街へと消えていった。
その背中を見送りながら、ジェナは隣のベレイをじっと見つめる。
「……やっぱり、優しいですね」
「私がですか?」
ジェナはくすりと笑う。
困った人ですね、と言いたげな顔だった。
「はい。そういうところ、私は好きですよ」
風がふわりと吹き抜けた。
石畳が夕陽に優しく照らされている。
不意に告げられた言葉に、ベレイは完全に動きを止めていた。
好き。
先ほど口にした『悪くありませんでした』という言葉が、急にひどく味気なく思えた。
本当は、もっと違うことを伝えたかったのではないか。
ベレイは小さく息を吐く。
そして、少しだけ視線を伏せたまま口を開いた。
「……ジェナさん」
「はい?」
「その、今日は……楽しかったです」
ジェナの目が大きく見開かれる。
「本当ですか?」
「ええ。先ほどの言い方は……少々不適切でした。もしよろしければ……また、ご一緒していただけませんか」
一瞬の沈黙の後、ジェナの顔に花が咲いた。
「はい! もちろんです!」
先ほどまでとは比べものにならないほど明るい声だった。
「また一緒にお出かけしましょう!」
「ええ、楽しみにしています」
そう答えたベレイの口元が、ほんの少しだけ緩む。
そして二人は並んで歩き出した。
今度は、来た時よりも少しだけ肩の距離が近かった。
◯
それから、少し未来。
「魔王様、何か仕事はございませんか?」
「……もうない」
玉座に腰掛けた魔王が呆れたように、しかしどこか楽しげに言った。
「どれだけ仕事をすれば気が済むんだ、お前は……」
「家族を養うために、一生懸命働くのは当然のことです」
胸を張って答えるベレイに、魔王は小さく息を吐く。
「……まったく、よく働く男だ」
そのとき、
「ごめんくださ〜い!」
城門の外から、明るい声が響いた。
周囲に元気を与えるような、聞き慣れた人懐っこい声。
ベレイが魔王城の正門に向かうと、見慣れた少女が立っていた。
手には、布に包まれた小さな包み。
「これ、忘れていきましたよー」
差し出されたのは、丁寧に結ばれた弁当袋だった。
「これは……」
「お昼がないと困ると思って」
魔王はその光景を見ながら、静かに口元を緩めた。
以前なら考えられないことだった。
かつて魔王は本気で心配していたのだ。
この側近は、一生仕事だけをして生きていくのではないかと。
だが、今は違う。
「……ありがとうございます」
ベレイは少し照れたように頭を下げる。
「はいはい。ちゃんと食べてくださいね」
「はい、いただきます。……では、また後で」
軽く手を振り、少女は城門の向こうへ去っていく。
ベレイはしばらくその背中を見送っていた。
やがて大切そうに弁当袋を抱え、中身を想像しながら魔王城へと戻っていくのだった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
本作が、私にとって初めての投稿になります。
これまでずっと自分の頭の中だけで思い描いていた世界や物語があったのですが、ちゃんと形に残してみたいと思い、思い切って小説を書いてました。
実は、どうしても描きたい物語が別にいくつかありまして、本作はそれを執筆するための練習として書き上げた短編です。
頭の中にあるものを文章にするのは想像以上に難しく、自分でも至らない点や未熟な部分が多々あると感じています。
それでも、自分の思い描いたものをこうしてひとつの作品にでき、読者の皆様に届いたことをとても嬉しく思っています。
今後の執筆に向けた何よりの勉強と励みになりますので、ぜひお気軽にご指摘やご感想などのコメントをいただけるととても嬉しいです。




