第9話 過去との決別、そして「収納」するのは大切なものだけ
窓の外を見下ろすと、ヴェリテ公国の街並みは今日も白く輝いていました。
整然とした通り、手入れされた街路樹。
そこには、平和で穏やかな時間が流れています。
けれど、山を越えた南の国――私の故郷であるリストラ王国は、今、嵐の中にありました。
「……王都では暴動が起きているそうです」
セバスチャンさんが、紅茶を淹れながら静かに報告してくれました。
「ゴミ処理機能が停止し、疫病の兆候が出たことで国民の不満が爆発しました。国王陛下は責任を追及され、退位は免れないでしょう」
執務室のソファで、私は膝の上で手を組みました。
予想していたこととはいえ、胸が痛まないと言えば嘘になります。
ですが、それはもう、私がどうにかできる問題ではありませんでした。
「当然の報いだ」
向かいの席で書類に目を通していたレオンハルト様が、冷ややかに言いました。
「彼らは『浄化』を金で買い、問題を先送りにしてきただけだ。ツケが回ってきたに過ぎない」
「はい……」
「コレット、君が気に病むことはない。君は十年もの間、彼らの生活を一人で支えていたのだから。……むしろ、持ち堪えた方だろう」
レオンハルト様の言葉は、いつも論理的で、私の罪悪感を霧散させてくれます。
「ところで、コレット様。……こちらを」
セバスチャンさんが、銀のトレイを差し出しました。
そこには、一通の手紙が載っていました。
薄汚れた、皺くちゃの封筒です。
宛名は、震えるような乱暴な字で『コレットへ』と書かれています。
見覚えのある筆跡でした。
「レイモンド、元王子からです」
セバスチャンさんが「元」と付けたことに、事態の深刻さを感じました。
廃嫡されたのでしょう。
今の彼は、ただの罪人です。
「検閲は済ませてあります。毒物などの危険はありません。……ですが、内容は読むに値しないものです。このまま処分することも可能ですが」
レオンハルト様が私を見ました。
その瞳は「無理をして読む必要はない」と語っていました。
私は少し迷い、そして手を伸ばしました。
「いいえ。……読みます。これで、本当に最後にするために」
封筒を受け取ると、指先にざらりとした感触がありました。
ほんのりと、カビと鉄錆のような臭いがします。
今の彼の生活環境が滲み出ているようでした。
ペーパーナイフで封を切り、中身を取り出します。
殴り書きの文字が、目に飛び込んできました。
『コレット。僕が悪かった。謝るから戻ってきてくれ』
最初の一行だけなら、反省の言葉に見えたかもしれません。
ですが、手紙はこう続いていました。
『部屋が臭くて眠れないんだ。お前がいなくなってから、誰も僕の服を片付けない。食事も冷たいものばかりだ。ミラは役立たずだった。やっぱり僕にはお前が必要なんだ』
『お前も辛いだろう? あんな潔癖症の堅物公爵の元で、息が詰まっているはずだ。僕ならお前の地味なところも許してやれる』
『今すぐ国境まで来てくれ。愛しているんだ、コレット』
読み進めるうちに、私の中で何かが、すぅっと冷えていきました。
怒りすら湧きませんでした。
ただ、呆れるほどに空虚でした。
彼は最後まで、自分のことしか考えていません。
「愛している」という言葉さえ、私を便利な道具として取り戻すための誘い文句として使っている。
十年間、私はこの人のために尽くしてきました。
嫌なことも、汚いものも、すべて飲み込んで、収納して、隠してあげていました。
それが愛だと信じて。
でも、それはただの「隠蔽」でした。
臭いものに蓋をしていただけ。
(可哀想な人)
私は手紙を降ろしました。
以前の私なら、この手紙をどうしていたでしょうか。
きっと、「見なかったこと」にするために、収納魔法の中に放り込んでいたでしょう。
嫌な記憶ごと、心の奥底に封印して。
でも、今は違います。
私は立ち上がり、暖炉の前へと歩きました。
赤々とした炎が燃えています。
「コレット?」
レオンハルト様が不思議そうに私を見ています。
私は手紙を、火に近づけました。
「収納しないのか?」
彼が静かに尋ねます。
私は首を横に振りました。
「はい。……私の魔法は、もう『ゴミ箱』ではありませんから」
私は指を離しました。
手紙が炎の中に落ちます。
ジジッ。
紙が焦げる音がしました。
『愛している』という嘘の文字が、黒く変色し、炎に巻かれていきます。
私の収納魔法は、時間を止めます。
もし収納してしまえば、この不快な手紙は、永遠に「そのまま」私の心の中に残り続けることになります。
そんなのは、もう御免です。
「嫌なものは、燃やして灰にします。……形も残らないように」
手紙はあっという間に燃え尽き、灰となって崩れ落ちました。
煙突を通って、煙が空へと消えていきます。
心が、軽くなりました。
今度こそ、本当に終わったのです。
私は振り返り、レオンハルト様を見ました。
彼は優しく目を細め、頷いてくれました。
「正しい判断だ。……君の容量は、もっと価値のあるもののために空けておくべきだ」
彼は立ち上がり、私の隣に来てくれました。
暖炉の炎が、彼の白い横顔をオレンジ色に染めています。
「価値のあるもの……」
「そうだ。たとえば、美味しい紅茶の記憶や、美しい景色。……あるいは」
彼は少し言い淀み、照れくさそうに視線を逸らしました。
「……私との、思い出とか」
その不器用な言葉に、私の胸がきゅっと締め付けられました。
この方は、いつもそうです。
完璧に見えて、私に対してだけは、少し自信なさげで、愛らしい。
「はい」
私は彼に向き直り、まっすぐにその瞳を見つめました。
「私の収納魔法には、もう大切なものしか入れません」
「……そうか」
「レオンハルト様。私、この国に来て本当によかったです」
言葉にすると、涙がこぼれそうになりました。
ゴミ処理係だった私が、選ぶことを覚えました。
捨てる勇気を知りました。
そして、何よりも守りたい人に出会えました。
「ここが、私の居場所です。……これからも、貴方様の隣にいさせていただけますか?」
それは、私からの精一杯の告白でした。
レオンハルト様は目を見開き、そしてゆっくりと、手袋を外しました。
素手が、私の頬に触れます。
少し熱い、温もり。
「……愚問だな」
彼は、今までで一番優しい声で囁きました。
「君以外に、私の隣に立てる人間はいない。……ずっと、そばにいてくれ」
彼の顔が近づき、額に温かいものが触れました。
誓いの口づけ。
暖炉の薪がパチリと爆ぜました。
その音は、まるで新しい人生の始まりを告げる祝砲のように聞こえました。
灰になった手紙のことなど、もう思い出せません。
私の心の中は今、目の前の愛しい人と、これから積み上げていく幸せな予感で満たされていました。
外の風はまだ冷たいけれど、この部屋の中は春のように温かい。
私はそっと目を閉じ、この温もりを、記憶の「一番いい棚」に大切にしまいました。




