第8話 社交界デビューと、暴かれる王国の恥
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射しています。
ヴェリテ公国の王城ホール。
そこは、私がかつていたリストラ王国の夜会とは、何もかもが違いました。
香水のきつい匂いはなく、ほのかな花の香りが漂うだけ。
大声で笑う者もおらず、静かな音楽と、洗練された会話のさざめきが満ちています。
そして何より――塵ひとつ落ちていない、完璧な清潔さ。
「……緊張しているか?」
隣を歩くレオンハルト様が、小声で問いかけました。
今日の彼は、いつもの軍服ではなく、白を基調とした正装に身を包んでいます。
その姿は、息を呑むほど高貴で、美しい氷の彫像のようです。
「はい、少しだけ。……皆様の視線が、痛いほどですので」
私は、彼のエスコートに身を預けながら答えました。
ホールに入った瞬間から、数百の瞳が私たちに向けられています。
(やっぱり、場違いでしょうか)
私が着ているのは、レオンハルト様が贈ってくださった淡いブルーのドレスです。
「氷蚕」という、この国特有の絹で織られたもので、動くたびに光の粉を纏ったように輝きます。
髪も、プロの手によって結い上げられ、真珠の髪飾りが飾られています。
鏡の中の自分は、別人のようでした。
けれど、中身は数週間前までゴミ処理をしていた女です。
公国の皆様には、それが見透かされている気がしてなりませんでした。
「堂々としていればいい」
レオンハルト様が、私の手に重ねた手に、きゅっと力を込めました。
手袋越しの温もりが、震える心を支えてくれます。
「君は美しい。……私が選んだのだから、間違いはない」
その言葉に、頬が熱くなりました。
この方は、いつもさらりと心臓に悪いことを仰います。
「あら、レオンハルト殿下。そちらが噂の……」
「今宵は一段と輝いておられますな」
貴族の方々が挨拶にきます。
彼らの視線は、好奇心を含んではいましたが、軽蔑の色はありませんでした。
むしろ、潔癖症で有名な殿下の隣に女性が立っていることへの、驚きと称賛が含まれているようでした。
私は、背筋を伸ばしました。
リストラ王国では、常にうつむいて、影のように振る舞うことを強要されていました。
でも、今は違います。
私は「筆頭管理官」であり、彼のパートナーなのですから。
その時でした。
「見つけたわよ! この泥棒猫ぉぉッ!!」
静寂で優雅な空間を、ガラスを引っ掻いたような金切り声が切り裂きました。
会場の空気が凍りつきます。
入り口の方から、ドレスの裾を乱した女性が、衛兵の手を振り払って走ってきました。
けばけばしいピンク色のドレス。
怒りで歪んだ厚化粧の顔。
――ミラ様でした。
「ミラ、様……?」
どうしてここに。
彼女は王国の、それもレイモンド様の愛人のはずです。
その姿は、以前の勝ち誇った様子とは程遠く、髪は乱れ、ドレスには薄汚れた染みがありました。
「よくもあたしをこんな目に遭わせてくれたわね! あんたのせいで、王国はめちゃくちゃよ!」
ミラ様は、私を指差して喚き散らしました。
周囲の貴族たちが、眉をひそめて道を開けます。
まるで汚いものを見るような目。
かつて私が向けられていた視線が、今は彼女に向けられていました。
「警備は何をしている。つまみ出せ」
レオンハルト様が冷たく命じようとします。
しかし、ミラ様はウェイターが持っていたトレイから、赤ワインの入ったグラスを奪い取りました。
「あんたなんか、こうしてやるわ!」
彼女は腕を振り上げ、なみなみと注がれた赤ワインを、私に向かって思い切り浴びせかけました。
バシャッ!
真っ赤な液体が、空中に放たれます。
私の淡いブルーのドレスに向かって。
悲鳴が上がる――暇もありませんでした。
(――汚れる)
私の思考は、恐怖よりも先に、反射的に動いていました。
私のドレスが汚れる?
いいえ、それ以上に。
レオンハルト様の屋敷の、この美しい大理石の床が汚れてしまう。
「収納!」
私は右手をかざしました。
魔法回路が瞬時に開き、空間を歪めます。
シュンッ。
空中で、赤ワインが消失しました。
一滴残らず。
私にかかるはずだった飛沫も、床に落ちるはずだった雫も、すべてが私の収納空間へと吸い込まれたのです。
カラン、と虚しく空のグラスだけが床に転がりました。
「……え?」
ミラ様が、振り抜いた手のまま固まっています。
周囲の貴族たちも、何が起きたのか理解できずに静まり返りました。
私は、ドレスの裾を優雅に払い、一歩前に出ました。
「公国の床を汚さないでいただけますか。……赤ワインの染みは、落とすのが大変なのです」
私の言葉に、ホール中から、ほぅ……と感嘆の吐息が漏れました。
「な、なによ……! 魔法なんか使って!」
ミラ様は顔を真っ赤にして地団駄を踏みました。
「この泥棒! 国のお金を盗んで逃げた犯罪者のくせに! みんな聞いて! この女は、王国の金庫から大金を横領して逃げたのよ!」
彼女は周囲に向かって叫びました。
犯罪者。横領。
その言葉に、会場がざわめきます。
しかし、私はもう動じませんでした。
隣に立つレオンハルト様が、嘲るような笑みを浮かべたからです。
「横領、か。……滑稽だな」
レオンハルト様のよく通る声が、ホールに響きました。
彼は私を庇うように一歩前に出て、ミラ様を見下ろしました。
「コレットが王国を出た際、持ち出したのは古着とわずかな私物のみ。我々の入国審査ですべて確認済みだ」
「う、嘘よ! だって、お金がないのよ! レイモンド様が使おうとした裏金も、あたしの宝石も、全部なくなったのよ!」
ミラ様が墓穴を掘りました。
「ほう。裏金、と言ったか?」
レオンハルト様が目を細めます。
「それは『なくなった』のではない。……今までコレットに隠蔽させていたものが、彼女がいなくなったことで『発見された』だけだろう」
図星だったのでしょう。
ミラ様がヒッと息を呑みました。
「コレットは先日、王国の城で、預かっていた『ゴミ』をすべて返却したと聞いている。その中には、お前たちが私腹を肥やしていた証拠書類や、横領した金貨の空袋も含まれていたはずだ」
レオンハルト様は、冷酷なまでに事実を突きつけました。
「つまり、泥棒はお前たちだ。コレットという『隠し場所』を失い、自らの罪が露見したのを、彼女のせいにしているに過ぎない」
会場の空気が変わりました。
公国の貴族たちは、聡明です。
どちらが真実を語っているか、そしてリストラ王国がいかに腐敗しているか、瞬時に理解したのです。
「そ、そんな……違う、あたしは……」
ミラ様が後ずさります。
しかし、背後にはすでに屈強な衛兵たちが立っていました。
「不法入国、および公爵邸での暴力行為、さらに虚偽の告発による名誉毀損。……罪状は十分だ」
レオンハルト様が手を振ると、衛兵たちがミラ様の腕を掴みました。
「いやぁ! 離して! あたしは男爵令嬢よ! 未来の王妃になるはずだったのよ!」
「連れて行け。……その甲高い声は、耳障りだ」
ミラ様はズルズルと引きずられていきました。
その姿は、かつて夜会で私を嘲笑った時とは真逆の、あまりにも無様なものでした。
再び、静寂が戻ります。
しかし、今度の静寂は、温かいものでした。
パチ、パチ、パチ……。
誰からともなく、拍手が起こりました。
それは次第に大きくなり、ホール全体を包み込みます。
「見事な魔法でしたな」
「あの一瞬で液体だけを収納するとは」
「公国の美観を守る、素晴らしい判断だ」
称賛の言葉が、私に降り注ぎます。
私は驚いて、レオンハルト様を見上げました。
彼は、満足げに微笑んでいました。
「言っただろう。君は美しいと」
彼は私の手を取り、その甲に口付けを落としました。
公衆の面前での、親愛の情を示す行為。
「君の魔法は、ただの収納ではない。世界を正しく保つための力だ。……それを証明できたな」
目頭が熱くなりました。
今度こそ、私は涙を堪えきれませんでした。
でも、それは悲しい涙ではありません。
私は、ドレスの裾を摘み、皆様に向かって深くカーテシーをしました。
胸を張って。
もう、誰の影でもない、私自身として。
リストラ王国との決別は、これで決定的になりました。
私の心の中に残っていた最後の未練――「戻らなければならないかもしれない」という恐怖は、あの赤ワインと共に、永遠に収納されたのです。
夜会は続きます。
レオンハルト様に手を引かれ、私はダンスの輪の中へと歩み出しました。
そのステップは、今までの人生で一番、軽やかでした。




