第7話 元婚約者の来訪と、揺るがない拒絶
その日の午後、静寂に包まれていたレオンハルト様のお屋敷が、けたたましい怒鳴り声によって揺さぶられました。
「通せと言っているだろう! 僕はリストラ王国の王子だぞ!」
「アポイントメントのない方は、どなたであろうとお通しできません」
玄関ホールから聞こえる、見苦しい叫び声と、セバスチャンさんの冷静な対応。
私は、執務室で紅茶の用意をしていましたが、カチャリとカップを鳴らしてしまいました。
間違えるはずもありません。
あの甲高い、自分の我儘が通らないとすぐに癇癪を起こす声。
元婚約者、レイモンド様です。
「……来たか」
レオンハルト様がペンを置き、立ち上がりました。
その瞳は、絶対零度まで冷え切っています。
「コレット、君はここにいろ。顔を合わせる必要はない」
「い、いえ」
私は震える指先を、もう片方の手で強く握りしめました。
怖い。
足が竦むほど怖いです。
十年間、私を支配し、ゴミ箱扱いしてきた人。その声を聞くだけで、体が萎縮してしまいます。
でも。
ここで隠れていたら、私は一生、彼の影に怯えて暮らすことになる気がしました。
それに、レオンハルト様にばかり矢面に立たせるわけにはいきません。
「私が出ます。……自分で、終わらせたいのです」
私が顔を上げると、レオンハルト様は一瞬驚いたように目を見開き、やがて静かに頷きました。
「分かった。だが、私の後ろにいなさい。何かあれば、すぐに私が対処する」
私たちは共に、玄関ホールへと向かいました。
◇
ホールには、数人の護衛を引き連れたレイモンド様がいました。
数週間ぶりに見る彼は、以前の煌びやかさが嘘のようにやつれていました。
服には皺が寄り、目の下には濃い隈があります。
きっと、誰も彼の服を管理しなくなったからでしょう。
「あっ、コレット! やっと出てきたか!」
私を見るなり、レイモンド様の顔がぱっと明るくなりました。
まるで、失くした財布を見つけた時のような顔です。
「さあ、帰るぞ! 馬車は用意してある。まったく、お前がいないせいで城の中がめちゃくちゃなんだ! ゴミは溜まるし、書類は見つからないし、ミラは掃除ができないと泣くし……」
彼は一気にまくし立てました。
謝罪の言葉など一つもありません。
あるのは、「不便だから戻れ」という要求だけ。
「……お断りいたします」
私は、レオンハルト様の背中から半歩踏み出し、はっきりと言いました。
「は?」
「私はもう、貴方様の婚約者でも、召使いでもありません。戻る理由はございません」
レイモンド様は、ぽかんと口を開けました。
信じられない、という顔です。
彼の中では、私は「命令されれば従うしかない女」のままなのでしょう。
「な、何を言っているんだ? 強がりはよせよ。どうせ、こんな田舎の堅苦しい国で、寂しい思いをしていたんだろう? 分かってる、僕が優しくしてやらなかったのが悪かった。許してやるよ。これからは週に一度くらいは話を聞いてやるから……」
許してやる。
その上から目線の言葉に、私の中で何かが冷たく冷えていくのを感じました。
怒りすら湧きません。ただ、呆れるほどに、彼は何も分かっていない。
「レイモンド様」
私は静かに遮りました。
「私が寂しい? いいえ。私は今、これまでの人生で一番幸せです」
「なっ……」
「ここには、私を『ゴミ箱』と呼ぶ人はいません。私の淹れたお茶を『美味しい』と言ってくださり、私の仕事を『美しい』と褒めてくださる方がいます」
私は隣に立つレオンハルト様を見上げました。
彼は私を守るように立ち、レイモンド様を氷のような目で見下ろしています。
「そして、私はもう、貴方様のゴミを預かるつもりはありません。……ですので、これもお返しいたします」
私は収納魔法を発動しました。
取り出したのは、美しい包装紙に包まれた小箱の山です。
ドサッ、ドサッ。
レイモンド様の足元に、箱が積み上がります。
「こ、これは……僕が贈ったプレゼントじゃないか! 大切に持っていたのか、やはりまだ僕のことを……」
「中身をご覧ください」
私は冷たく告げました。
レイモンド様が箱の一つを開けます。
中に入っていたのは――真っ二つに割れた皿の破片でした。
「なっ!?」
「それは、貴方様が癇癪を起こして割った、王家伝来の皿の破片です。『隠しておけ』と言われましたね」
別の箱を開けます。中身は、破られた手紙の束。
「それは、貴方様が公務をサボるために偽造しようとして失敗した、病欠の診断書です」
さらに別の箱からは、片方だけのイヤリング。
「それは、ミラ様が私の部屋にわざと置いていったゴミです」
レイモンド様の顔が、みるみるうちに赤くなっていきます。
「貴方様が私にくださった『プレゼント』は、すべて貴方様の尻拭いのためのゴミでした。表向きは贈り物として処理し、中身は証拠隠滅。……本当に価値のある贈り物をいただいたことなど、一度もございません」
私はすべての箱を出し終え、胸の前で手を払いました。
埃を払うように。
「これですべてです。どうぞ、お持ち帰りください」
「き、貴様ぁぁぁぁっ!!」
レイモンド様が激昂しました。
恥辱で顔を歪め、拳を振り上げて私に掴みかかろうとします。
「僕を愚弄する気か! この、薄汚いゴミ箱女が! 教育し直してやる!」
その手が私に届くことはありませんでした。
キィィィィン!
空気が凍る音がしました。
レイモンド様の足元から、鋭い氷の棘が一斉に突き出し、彼の動きを封じたのです。
「ひっ!?」
彼の拳は、私の鼻先数センチのところで止まっていました。
見えない壁に阻まれたように。
「……その汚い手を、私の婚約者に伸ばすな」
低く、地獄の底から響くような声。
レオンハルト様でした。
彼は片手を前にかざし、レイモンド様を睨みつけています。
その全身から溢れ出る魔力は、ホールの気温を一気に氷点下まで下げていました。
「こ、婚約者……だと……?」
「そうだ。コレットは私の大切なパートナーだ。……彼女を『ゴミ箱』と呼んだその口、二度と開けなくしてやろうか?」
レオンハルト様の指が動くと、氷がレイモンド様の首元まで這い上がりました。
「ひ、ひいぃぃっ! 助けてくれ! 帰る! 帰るからぁ!」
レイモンド様は腰を抜かし、氷に囲まれたまま失禁しそうなほど震え上がりました。
護衛たちも、公国最強の騎士であるレオンハルト様の殺気に当てられ、剣を抜くことさえできません。
「セバスチャン。こいつらを摘み出せ。二度と敷居をまたがせるな」
「御意」
セバスチャンさんが指を鳴らすと、屈強な衛兵たちが現れ、レイモンド様たちを引きずっていきました。
「覚えてろよぉぉ!」という情けない捨て台詞が、遠ざかっていきます。
静寂が戻りました。
足元に残されたのは、ガラクタの入ったプレゼント箱の山だけ。
私は、力が抜けてその場に座り込みそうになりました。
言えた。
全部、言えた。
膝がガクガクと震え、指先が氷のように冷たくなっています。
「コレット」
ふわりと、温かいものが肩にかかりました。
レオンハルト様が、私を支えてくれていました。
彼は私の震える手を取り、両手で包み込んでくれます。
「よく言った。……立派だったぞ」
「レオンハルト、様……」
「怖かっただろう。もう大丈夫だ。あんな男、二度と君の前に現れさせない」
彼の手の温もりが、冷え切った指先から心臓へと伝わっていきます。
あの時、助けに入ってくれた時の「婚約者」という言葉。
それは咄嗟の嘘だったのでしょうけれど、私の胸をこんなにも甘く締め付けるのはなぜでしょう。
「……ありがとうございます。私、やっと……本当の意味で、終わらせることができました」
私は涙ぐみながら微笑みました。
レオンハルト様は、少しだけ顔を赤くして、咳払いをしました。
「あー、その……さっきの『婚約者』発言だが」
「あ、はい! 助けていただくための方便ですよね。分かっております」
「……いや、まあ、方便……ということにしておこう。今は」
彼は何かを言いかけて、やめました。
そして、私の手を引いて歩き出します。
「さあ、部屋に戻ろう。冷えてしまった。……君の淹れた熱い紅茶が飲みたい」
「はい! すぐに最高の一杯をご用意します」
私たちは並んで歩きました。
背後に残されたガラクタの山は、あとでセバスチャンさんが処分してくれるでしょう。
私にとって、それらはもう、収納する価値もない本当のゴミになったのですから。




