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君の収納魔法はゴミ箱だと言われたので、中身を全てお返しします  作者: 秋月 もみじ


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第5話 氷の貴公子が溶ける、温かい紅茶の時間


 窓の外では、朝から冷たい雨が降り続いていました。

 ヴェリテ公国の雨は、針のように鋭く、静寂を連れてきます。


 執務室の中も、今日はいつもより重苦しい空気に包まれていました。


「……ゲホッ、ゲホッ」


 苦しげな咳の音が響きます。

 机に向かっているレオンハルト様は、眉間に深い皺を刻み、ペンを握る手もどこか頼りなげでした。

 顔色は、彼の着ているシャツと同じくらい真っ白です。

 頬だけが、熱を持ったように赤く染まっていました。


「レオンハルト様、やはり少し休まれた方が……」


 私が声をかけると、彼は視線だけをこちらに向けました。

 いつもなら氷のように澄んでいるアイスブルーの瞳が、今は熱で潤み、少し虚ろです。


「問題ない。この決裁だけは、今日中に……」

「ですが、熱がおありです」


 私は、サイドテーブルに置かれたまま冷え切っているスープを見ました。

 セバスチャンさんが一時間前に運んできたものです。

 一口も手がつけられていません。

 薬も、封が開けられないまま置かれています。


「何か召し上がらないと、お薬も飲めません」

「……食欲がない」

「一口だけでも。セバスチャンさんが、消化に良いものをと特別に作られたものです」


 私がスープ皿に手を伸ばそうとすると、レオンハルト様がビクリと肩を震わせました。


「下・げ・て・く・れ」


 拒絶の声。

 それは単なる我儘ではありませんでした。

 彼の瞳に浮かんでいたのは、怯え――明確な「恐怖」の色だったのです。


(どうして……?)


 セバスチャンさんは、彼が最も信頼する執事のはずです。

 そのセバスチャンさんが作ったものさえ、今の彼は口にできないようでした。


 私は、下げるべきか迷い、エプロンの端をぎゅっと握りました。

 このままでは、彼は倒れてしまいます。

 国のために身を粉にして働くこの方を、ただ見ていることなんてできません。


「……レオンハルト様」


 私は意を決して、彼の机の前に立ちました。


「スープがお嫌なら、お茶はいかがですか? 私が淹れます」

「君が?」

「はい。私の趣味は紅茶を淹れることです。……お口に合うかは分かりませんが、体も温まりますし」


 彼は迷うように視線を泳がせました。

 断ろうとしているのが分かります。

 喉が渇いているはずなのに、何かが彼を止めているのです。


「……無理だ」


 彼は、自嘲気味に笑いました。


「君を信用していないわけではない。だが、私は……ダメなんだ」

「ダメ、とは?」

「誰かが手を加えたものが、怖い。……特に、体が弱っている時は、昔の記憶が蘇る」


 彼は震える手で、自分の首元を押さえました。

 まるで、何かが喉に詰まるのを恐れるように。


「幼い頃、風邪を引いた私に、乳母がスープを持ってきてくれた。私は彼女を母親のように慕っていた。……だが、そこには致死量の毒が入っていたんだ」


 私は息を呑みました。

 そんな、残酷なことが。


「彼女は敵国の回し者だった。……優しく微笑んで、私に毒を飲ませた。それ以来だ。他人の作った温かい料理を見ると、吐き気がするのは」


 彼の潔癖症の根源。

 それは単なる綺麗好きなどではなく、生存本能に基づく防衛反応だったのです。


 だから彼は、既製品や、完全に管理されたものしか好まない。

 人の手の温もりが、彼にとっては「殺意の隠れ蓑」に見えてしまうから。


 胸が締め付けられました。

 この孤独な貴公子は、ずっと一人で、その恐怖と戦ってきたのですか。


(私にできることは、ないの?)


 いいえ、あります。

 私だからこそ、できることが。


「レオンハルト様」


 私は一歩、彼に近づきました。

 そして、静かに言いました。


「私の魔法を、信じていただけますか?」


 彼は怪訝そうな顔をしました。

 私は、収納空間から茶葉とポット、そして水が入った瓶を取り出しました。


「このお水は、ヴェリテ公国の湧き水を私が直接汲み上げ、すぐに収納したものです」

「……収納?」

「はい。私の収納空間は時間が止まっています。つまり、細菌が繁殖する暇も、毒が混入する隙もありません。汲み上げた瞬間の純度が、永遠に保たれています」


 私はポットに水を注ぎ、魔道具でお湯を沸かしました。

 コポコポと、優しい音が静かな部屋に響きます。


「茶葉も同様です。誰の手も触れていない、未開封のものを収納しました。カップも、私の空間内で高温洗浄し、真空状態で保管していたものです」


 カチャリ。

 ソーサーの上に、一点の曇りもない白磁のカップを置きます。

 ポットから注がれる琥珀色の液体が、ふわりと芳醇な香りを立てました。


 それは、ただの紅茶です。

 でも、論理的に「世界で一番安全な紅茶」でもありました。


「ここにあるのは、純粋な水と、茶葉だけです。……不純物うそは、一切ありません」


 私はカップを彼の前に差し出しました。

 そして、自分用のカップにも注ぎ、先に口をつけました。


「毒見も済みました。……いかがでしょうか」


 レオンハルト様は、カップを見つめています。

 湯気が彼の冷え切った顔にかかりました。

 彼の鼻が、微かに動きます。


 柑橘系の、爽やかなベルガモットの香り。

 それは、澱んだ空気を切り裂くような、清冽な匂いでした。


 彼はゆっくりと、手袋を外しました。

 素手で、カップの取っ手に触れます。


「……温かい」


 彼は独り言のように呟き、そして、恐る恐る口をつけました。


 一口。

 ごくり、と喉が動きます。


 長い沈黙がありました。

 私は祈るような気持ちで見守ります。

 もし、これで吐き気をもよおしたら、私はすぐに消えようと覚悟して。


 しかし。


「……ああ」


 レオンハルト様から漏れたのは、苦悶の声ではなく、深い安堵の吐息でした。


「雑味がない。……こんなに透き通った味は、初めてだ」

「お口に合いましたか?」

「ああ。……美味しい。すごく」


 彼は二口目を飲みました。今度は、少し長く味わって。

 強張っていた彼の肩の力が、抜けていくのが分かりました。

 眉間の皺が解け、いつもの美しい顔立ちに戻っていきます。

 でも、それは冷徹な「氷の貴公子」の顔ではなく、ただの疲れた青年のような、無防備な表情でした。


「君の魔法は、すごいな」


 彼はカップを両手で包み込みながら、私を見上げました。

 その瞳は、熱のせいだけでなく、潤んで見えました。


「世界中のどんな清浄な場所よりも、君の淹れたお茶の中が、一番安全な気がする」

「そんな、大げさです」

「本心だ。……ありがとう、コレット」


 彼はすべて飲み干すと、ふぅ、と息をつき、椅子の背もたれに深く体を預けました。

 温かい飲み物が効いたのでしょう。

 急激な睡魔が彼を襲ったようでした。


「少しだけ……目を閉じる……」

「はい。私がここにおりますから」

「……君がいるなら、大丈夫だ……」


 その言葉を最後に、彼の寝息が聞こえ始めました。

 無防備に、首を傾げて眠る彼。

 私はそっと、彼の肩にかけられていたショールを掛け直しました。


 王国では、誰も私の魔法を評価しませんでした。

 「便利だ」「汚い仕事を押し付けられる」としか言われませんでした。

 でも、この人は違います。

 私の魔法を「美しい」と言い、「安全だ」と信じてくれました。


 眠る彼の顔を見つめながら、私は胸の奥に、小さくて温かい火が灯るのを感じました。

 それは、ただの忠誠心とは少し違う、もっと個人的で、柔らかい感情。


(ゆっくりお休みください、レオンハルト様)


 私は空になったティーカップを、音もなく片付けました。

 もちろん、私の大切な「収納」の中に。

 このカップは、もう二度と他の食器とは混ぜません。

 彼が初めて、心を許してくれた証なのですから。


 雨音はまだ続いていましたが、それはもう冷たい響きではなく、私たち二人だけの時間を守る、優しい子守唄のように聞こえました。

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