第4話 「ゴミ箱」ではなく「宝箱」として
その部屋は、屋敷の中で「開かずの間」と呼ばれていました。
重厚なオーク材の扉の前で、私は深呼吸をしました。
ここはレオンハルト様の執務室。
公国の頭脳であり、彼が最も時間を過ごす場所です。
そして、最も他人の侵入を拒む「聖域」でもありました。
「……コレット様、ご武運を」
セバスチャンさんが、戦場に送り出すような顔で私を見守っています。
先日、備品室を片付けた功績を認められ、私はついにこの部屋の整理を任されたのです。
緊張で指先が震えます。
エプロンの端をぎゅっと握りしめ、私はノックをしました。
「失礼いたします。管理官のコレットでございます」
「……入れ」
中から聞こえた声は、疲労で少し掠れていました。
私は意を決してドアノブを回しました。
部屋に入った瞬間、私の目に飛び込んできたのは――「壁」でした。
白い紙の壁です。
広い執務室の中央にある大きな机。その上が、天井に届きそうなくらい高く積み上げられた書類の塔で埋め尽くされていたのです。
レオンハルト様は、その塔の隙間に埋もれるようにして座っていました。
美しい顔には濃い隈があり、完璧に整えられていた髪も少し乱れています。
「……何の用だ。急ぎの決裁なら、そこへ置いておけ」
彼は顔も上げずにペンを走らせています。
その声には、明らかな苛立ちが混じっていました。
(空気が、重い)
部屋自体は掃除が行き届いています。埃ひとつありません。
けれど、情報の「圧」がすごいのです。
未処理の仕事、保留された案件、読みかけの資料。
それらが無秩序に堆積し、レオンハルト様の視界と思考を圧迫しているのが分かりました。
「あの、レオンハルト様。少し、書類の整理をさせていただいてもよろしいでしょうか」
私が恐る恐る尋ねると、彼はピタリと手を止めました。
鋭いアイスブルーの瞳が、私を射抜きます。
「断る」
「え……」
「誰も触れるな。場所が変わると分からなくなる。他人の手垢がついた書類など読みたくもない」
拒絶でした。
セバスチャンさんの言っていた通りです。
彼は潔癖症かつ完全主義者。
他人が無神経に触って、彼の頭の中にある「順序」を乱されるのを何よりも嫌うのです。
以前の私なら、ここで引き下がっていたでしょう。
「邪魔だ」「出て行け」と言われるのは慣れっこでしたから。
でも。
私は、眉間を押さえて辛そうに息を吐くレオンハルト様を見ました。
このままでは、彼が倒れてしまいます。
私を泥の中から救い出してくれた、この美しい方が。
(引いてはだめ。私は、ここの管理官なのだから)
私は一歩、前に進みました。
「触りません」
「何?」
「貴方様の聖域には、指一本触れません。ただ、通り道を整えるだけです」
私は部屋の隅に移動しました。
彼の視界に入らない、けれど彼の机に手が届くギリギリの位置へ。
観察します。
山積みの書類には、法則がありました。
赤い封蝋がされた封筒。
青いリボンで綴じられた報告書。
何も印のないメモ書き。
それらが地層のように重なっています。
「収納魔法――展開」
私は魔法を発動しました。
ただし、今回は「しまう」ためではありません。
私の手元から、透明な魔力の板が出現しました。
私はそれを空中に固定し、簡易的な「棚」を作り出します。
「失礼します」
私は魔法で風を操るように、机の上の書類をふわりと浮かせました。
直接手では触れません。
私の魔力で包み込み、空気のクッションで運びます。
「なっ……!?」
レオンハルト様が驚いて顔を上げました。
書類の塔が崩れ、宙を舞います。
一見、散らかったように見えますが、私の頭の中では完璧なインデックスが出来上がっていました。
赤い封蝋は『最優先』。右手の空中棚へ。
青いリボンは『各部署への通達』。左手の棚へ。
古い日付のものは『保管』。背後の箱へ。
中身は読みません。それは守秘義務違反ですから。
あくまで、外見の特徴と日付だけで判断し、仕分けます。
シュパパパパッ!
カードを配るような速さで、数百枚の書類がそれぞれの「居場所」へ飛んでいきました。
数秒後。
机の上には、今まさにレオンハルト様が書いている一枚の紙と、愛用のペンだけが残されました。
そして彼の周囲の空中には、半透明の棚が整然と並び、書類が美しく分類されて浮いています。
「終わりました」
私は静かに告げました。
「右手が緊急案件です。左手は今日中でよいもの。後ろは過去の資料です。……いかがでしょうか」
心臓が早鐘を打っています。
勝手なことをしたと、怒られるかもしれません。
魔法で動かしたとはいえ、彼の空間をいじったことには変わりないのですから。
レオンハルト様は、呆然と周囲を見渡していました。
そして、おずおずと右手の棚に手を伸ばします。
そこにあるのは、一番上に期限が近い「予算申請書」がありました。
「……日付順に、並んでいる」
「はい。封筒の日付印を見ました」
「内容を見ていないのに、重要度が分けられている」
「封蝋の色と、紙の質で判断しました」
彼は震える手で、書類を一枚取りました。
そして、机の上に置きます。
広大なスペースが確保された机の上に。
「……息ができる」
彼は呟きました。
「書類の圧迫感がない。必要なものが、必要な時にだけ手元に来る。……これなら、思考が途切れない」
彼は私を見ました。
その瞳は、もう氷のように冷たくはありませんでした。
驚きと、そして深い感謝の色が揺れていました。
「君は、私の領域を侵さなかった」
「はい。貴方様のやり方を尊重したかったので」
「……普通は、勝手に並べ替えたり、余計な付箋を貼ったりするものだ。だが君は、私の邪魔をせず、ただ『道』を作ってくれた」
レオンハルト様が立ち上がりました。
机を回り込み、私の目の前に来ます。
背が高い。
見上げると、彼は少し照れたように視線を逸らし、それから手袋を嵌めた手を私に差し出しました。
「コレット」
初めて、名前を呼ばれました。
「君を、私の専属補佐に任命する。……この部屋に入室し、私の書類に触れることを許可する唯一の人間として」
許可。
それは、潔癖な彼にとって、最大級の信頼の証でした。
私は胸がいっぱいになり、慌てて膝を折りました。
「も、勿体ないお言葉です。私はただのゴミ……いえ、元・ゴミ処理係ですので」
「違う」
彼は強い口調で否定しました。
そして、私の手を取り、立たせてくれます。
「君の魔法は、ゴミ箱などではない。情報を整理し、価値あるものを守る『宝箱』だ。……少なくとも、私にとっては」
宝箱。
その言葉が、じんわりと心に染み渡ります。
王国で十年かけて貼られた「無能」のレッテルが、この一瞬で剥がれ落ちていくようでした。
「ありがとうございます、殿下」
「レオンハルトでいい。……これから、頼むぞ」
握られた手は手袋越しでしたが、そこから伝わる温度は、確かに温かいものでした。
こうして私は、この「開かずの間」の鍵を預かることになったのです。
もちろん、物理的な鍵だけでなく、頑なに閉ざされていた彼の心の鍵も、少しだけ回してしまったことに、私はまだ気づいていませんでした。
その様子を、少し開いたドアの隙間からセバスチャンさんが見ていて、ガッツポーズをしていたことも。




