第2話 国境の森で、白銀の貴公子と出会う
ガタン、と車輪が大きな石に乗り上げ、私の体は椅子から跳ね上がりました。
王都を出てから三日。
私が乗った辻馬車は、王国と公国の境にある深い森の中を進んでいました。
「お嬢さん、大丈夫かい? もう少しで国境の関所だ」
御者のおじいさんが声をかけてくれます。
私はフードを目深に被り直して頷きました。
「ええ、平気です。急がせてしまってごめんなさい」
手には、なけなしの宝石を握りしめています。
王城を出る時、私が身につけていた数少ない私物です。これを換金すれば、隣国でしばらくは雨露をしのげるでしょう。
窓の外には、鬱蒼とした木々が続いています。
王国の中心部は魔導具の排気で空気が澱んでいましたが、ここは空気が澄んでいました。
冷たい風が、火照った頬を冷やしてくれます。
(追っ手は……来ていないわよね)
私は後ろを振り返りました。
あの夜会で、私は王国の「恥部」をぶちまけました。
レイモンド様だけでなく、不正に関わっていた多くの貴族たちが私を恨んでいるはずです。
彼らにとって、私は「生きた証拠品」。
捕まれば、二度と日の目を見ることはないでしょう。
その時でした。
ヒュンッ!
風を切る音がして、馬車の前方で何かが弾けました。
「うわあっ!?」
御者さんの悲鳴と共に、馬がいななき、急停止します。
私は前のめりに転がりそうになりながら、窓枠にしがみつきました。
「な、何事ですか!?」
「お嬢さん、逃げろ! 盗賊だ!」
御者さんが叫びます。
前方から、薄汚れた革鎧を着た男たちが五、六人、剣を抜いて現れました。
ただの盗賊ではありません。彼らの動きは統率が取れていますし、装備も良すぎます。
「いたぞ、あの女だ!」
「殺すなよ! 生け捕りにして連れ帰れと伯爵様からの命令だ!」
男の一人が叫びました。
やっぱり。
彼らは私を連れ戻しに来た「私兵」です。
「降りろ! 痛い目に遭いたくなければな!」
男たちが馬車を取り囲みます。
御者さんは震えて動けません。
私は唇を噛み締めました。ここで捕まるわけにはいきません。絶対に。
私は馬車の扉を蹴り開け、地面に飛び降りました。
「おっ、自分から出てきたか。殊勝なこった」
男が下卑た笑みを浮かべて近づいてきます。
私はスカートを握りしめ、魔力の回路を開きました。
私には攻撃魔法は使えません。
火も出せない。雷も落とせない。
けれど、「出す」ことならできます。
(お願い、間に合って!)
私は男たちの足元の地面を睨みつけました。
「収納解放――対象、『王都の貯水池の水』!」
十年前に一度、水不足に備えて「念のためしまっておけ」と言われて収納した、巨大貯水槽一杯分の水。
腐らないよう時間停止していた大量の水を、私は一気に放出しました。
ドッパァァァン!!
破裂音と共に、男たちの足元に鉄砲水が出現しました。
乾いた土が一瞬で泥沼と化し、濁流となって男たちを襲います。
「うわっ!? なんだこれ!?」
「み、水だ! 足が取られる!」
「くそっ、何をしやがった!」
男たちは泥に足を取られ、無様に転倒しました。
よし、今のうちに!
私は泥濘を避け、森の奥へと駆け出しました。
「待て! 逃がすな!」
「あいつ、ただの収納持ちじゃねえぞ! 魔法使いだ!」
背後から怒号が聞こえます。
ドレスの裾が木の枝に引っかかり、破れました。
息が切れます。足が重い。
所詮、私は運動などしたことのない令嬢です。ぬかるんだ森の中を走り続ける体力なんてありません。
やがて、前方が開けました。
しかし、そこは崖でした。
下には激流の川が流れています。
「はぁ、はぁ……行き止まり……?」
絶望で膝が震えました。
後ろからは、泥まみれになった男たちが、血走った目で追いかけてきます。
「よくもやってくれたな、あま」
「もう生け捕りはなしだ。腕の一本くらいなら切り落としても文句は言われねえだろう」
男たちが剣を構え、じりじりと距離を詰めてきます。
私は一歩後ずさり、崖の縁に立ちました。
もう、水も残っていません。
投げるものといえば、自分の靴くらいです。
(ここまで、なの……?)
自由になれると思ったのに。
また、あのゴミだらけの檻に戻されるのでしょうか。
恐怖で視界が滲みます。
その時。
ふわり、と冷たい風が吹きました。
「――薄汚いな」
凛とした、氷のような声が響きました。
男たちの動きが止まります。
声は、頭上から降ってきました。
見上げると、木の枝の上に、一人の騎士が立っていました。
月光のような、プラチナブロンドの髪。
吸い込まれそうなアイスブルーの瞳。
身につけているのは、塵一つない純白と濃紺の軍服です。
まるで、その人だけが世界から切り取られたように、圧倒的に「綺麗」でした。
「誰だ、てめえ!」
「俺たちはリストラ王国の公務中だ! 邪魔するなら……」
騎士は答えず、ただ右手を軽く振りました。
白い手袋が、優雅な軌跡を描きます。
パキィッ!
乾いた音が響いた瞬間、男たちの足元の泥が、一瞬にして凍りつきました。
いいえ、泥だけではありません。男たちの下半身ごと、氷の塊に閉じ込められたのです。
「な……!? う、動けねえ!」
「なんだこの魔法!? 無詠唱だと!?」
騎士は音もなく地面に降り立ちました。
カツン、とブーツの音が響きます。
彼は男たちを一瞥もしません。まるで、道端の石ころを見るような無関心さです。
「我が国の国境付近で、薄汚い騒ぎを起こすな。景観を損ねる」
それだけ言うと、彼は私の方へ歩いてきました。
私は息を呑み、後ずさりました。
美しい人です。
けれど、その瞳はあまりにも冷たく、鋭い。
彼もまた、私を捕まえに来たのでしょうか?
彼は私の目の前で立ち止まりました。
私が放出した水のせいで、地面はまだ少しぬかるんでいます。
私が一歩下がった拍子に、泥水が跳ねました。
バシャッ。
泥のしぶきが、私の足元に咲いていた小さな青い花にかかりそうになりました。
私はとっさに屈み込み、自分のハンカチでその花を覆いました。
「……あ」
やってしまいました。
逃げなければならないのに、何をのんきに花など守っているのでしょう。
私は慌てて顔を上げました。
騎士様が、私を見下ろしています。
その瞳が、わずかに見開かれていました。
彼は私の泥だらけのドレスと、泥から守られた小さな花を交互に見つめました。
「……君は」
彼の声色が、先ほどまでの絶対零度から、少しだけ温度を変えました。
彼はゆっくりと片膝をつき、私と同じ目線の高さになります。
そして、真っ白な手袋をした手を、私に差し出しました。
「怪我はないか」
私は呆然としました。
こんなに汚れた私に、触れようとしているのですか?
貴族の男性は、汚れたものを何より嫌うはずですのに。
「え、あの……私は、汚れておりますので……」
「ああ、ひどい汚れだ」
彼は即答しました。否定はしません。
けれど、彼は続けて言いました。
「だが、不快ではない」
え?
私が瞬きをする間に、彼は私の手を取りました。
手袋越しの感触は少し冷たく、でも、しっかりとした力強さがありました。
彼の手が触れた瞬間、不思議と震えが止まりました。
「君の魔力……今、水を放出したな?」
「は、はい。身を守るために……」
「あの量の水を、淀みなく管理していた。……見事だ」
彼は私を立たせると、背後の森から現れた部下たち――同じ軍服を着た騎士たちに指示を出しました。
「この者たちを捕縛しろ。不法入国および暴行の現行犯だ」
「はっ!」
騎士たちが氷漬けの男たちを連行していきます。
彼は再び私に向き直りました。
「私はヴェリテ公国第二公子、レオンハルト・ヴェリテ。訳ありのようだが、我が国へ来るといい」
「え……?」
「君のような人材を、このような泥の中で野放しにはしておけない」
人材?
私は首を傾げました。
ゴミ処理係の私が、人材?
レオンハルト様は、わずかに口角を上げました。
それは本当に微かな変化でしたが、氷が解けて水になるような、美しい微笑みでした。
「行こう。まずは、その泥を落としてからだがな」
引かれた手の力強さに、私は拒む言葉を忘れました。
この人となら、どこか安全な場所へ行けるかもしれない。
そう思わせる何かが、彼にはありました。




