第10話 綺麗な部屋と愛する人と、幸せなティータイム
長い冬が終わり、雪に閉ざされていたヴェリテ公国にも、遅い春が訪れていました。
陽光が降り注ぐテラス。
私は、ガラスのティーポットにお湯を注ぎました。
ポットの中でジャンピングする茶葉を眺めながら、ふと視線を上げます。
目の前に広がるのは、手入れの行き届いた庭園。
かつては「管理が面倒だ」という理由で芝生しかなかった庭に、今は色とりどりの花が咲いています。
私が植えたビオラや、春告げの小花たちです。
「……いい香りだ」
向かいの席で、レオンハルト様が目を細めました。
今日の彼は、堅苦しい軍服ではなく、柔らかなリネンのシャツにカーディガンというラフな姿です。
以前の、人を寄せ付けない氷のような雰囲気は、もうありません。
「今日は『春摘み(ファーストフラッシュ)』のダージリンです。若々しい香りが、今の季節にぴったりだと思いまして」
「君の選ぶものに間違いはない。……私の生活は、君のおかげで色彩豊かになった」
彼はカップを手に取り、一口飲んでから、満足げに微笑みました。
この数ヶ月で、お屋敷の雰囲気はずいぶんと変わりました。
以前はモデルルームのように無機質で、生活感の一切なかった部屋。
今は、ソファにふかふかのクッションがあり、テーブルには季節の花が飾られ、カーテンも温かみのある色に変えました。
レオンハルト様は最初、「物が増えるのはノイズだ」と渋っていましたが、私が配置した空間を見るなり、「……悪くない。むしろ落ち着く」と認めてくれたのです。
潔癖症が治ったわけではありません。
相変わらず、他人が触れたものは嫌がりますし、手袋も欠かせません。
でも、私にだけは別です。
「コレット」
「はい?」
名前を呼ばれ、私はカップを置きました。
レオンハルト様が、なぜか視線を泳がせています。
朝から少し様子がおかしいのです。
書類仕事をしている時も、ペンの進みが遅かったり、何度もネクタイを直したり。
「……その、話があるんだが」
彼は咳払いを一つして、ポケットから小さな箱を取り出しました。
ベルベットの紺色の箱。
金色の装飾が施された、とても高価そうなものです。
心臓が、トクンと跳ねました。
(なんでしょう。……新しい魔導具の管理依頼でしょうか?)
彼が箱を開けます。
中に入っていたのは、指輪――ではなく、一本の「鍵」でした。
アンティーク調の銀の鍵で、持ち手の部分にはヴェリテ公国の紋章である「天秤と剣」が刻まれています。
「これは……?」
「この屋敷の、マスターキーだ」
レオンハルト様は、少し顔を赤らめながら説明しました。
「これ一本で、すべての部屋、すべての金庫、そして王城にある私の私室まで……あらゆる扉が開く」
「そ、そんな重要なものを! 私が預かってよろしいのですか?」
私は慌てました。
筆頭管理官として、いくつかの鍵は預かっていますが、これはレベルが違います。
公国の機密に関わる権限そのものです。
「すぐに収納魔法で、誰にも盗まれない場所に保管いたします!」
私が手を伸ばして魔法を使おうとすると、レオンハルト様が私の手首を掴みました。
「違う」
「え?」
「しまってほしいんじゃない。……使ってほしいんだ」
彼は私の手を引き寄せ、その掌に、鍵を載せました。
金属のひんやりとした重みが伝わります。
「コレット。君は私の屋敷を完璧に管理してくれた。私の体調も、仕事も、君なしではもう回らない」
「それは、私の仕事ですから」
「仕事としてではなく……これからは、家族として管理してほしい」
家族。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかりました。
レオンハルト様は、いつになく真剣な瞳で、私をまっすぐに見つめました。
その瞳の中には、私だけが映っています。
「私は不器用で、面倒な潔癖症で、君に苦労をかけるかもしれない。……だが、君を愛する気持ちだけは、誰にも負けない自信がある」
彼は、私の手の上にある鍵ごと、両手で私の手を包み込みました。
手袋を外した、素手の温もり。
「私の心も、人生も、すべて君に預ける。……受け取ってくれないか?」
風が吹き抜け、庭の花々がざわざわと揺れました。
私の目から、涙が溢れ出しました。
悲しいわけではないのに、止まりません。
リストラ王国での十年間。
私は「ゴミ箱」でした。
誰もいらないもの、隠したいものを押し付けられるだけの存在。
私の心なんて、誰も見てくれませんでした。
でも、この人は違います。
私のすべてを肯定し、一番大切な鍵を――心を、私に預けようとしてくれている。
「……はい」
私は涙声で答えました。
「喜んで、お引き受けいたします」
レオンハルト様の表情が、ぱぁっと輝きました。
まるで氷が解けて、春の水が溢れ出すように。
「ありがとう、コレット」
私は、掌にある鍵を見つめました。
いつもなら、大切なものはすぐに「収納魔法」に入れます。
汚れないように、なくさないように、時間停止の空間へ。
でも、私は鍵を握りしめ、自分の胸元に引き寄せました。
「あの、レオンハルト様」
「ん?」
「この鍵は……収納魔法には入れません」
「……なぜ?」
彼は少し不安そうに尋ねました。
私は、涙を拭って、精一杯の笑顔で伝えました。
「だって、しまってしまったら、いつでも触れられないではないですか。……大切なものは、こうして肌身離さず、温めておきたいのです」
魔法の空間は安全です。でも、温度はありません。
この鍵は、そして彼との関係は、冷たい箱の中ではなく、日向のようなこの場所で育てていきたい。
レオンハルト様は目を見開き、そして愛おしそうに目を細めました。
「……そうだな。君の言う通りだ」
彼は立ち上がり、テーブル越しに私を引き寄せました。
そして、私の額に、瞼に、最後に唇に、優しい口づけを落としました。
「愛している、コレット」
「私もです、レオンハルト様」
カシャン。
物陰から、お皿が割れるような音がしました。
驚いて振り返ると、庭の植え込みの陰で、セバスチャンさんとメイドたちが涙ぐみながらガッツポーズをしていました。
「あ、あれは……!」
「……見なかったことにしよう」
レオンハルト様が苦笑いして、私の視線を遮ります。
私たちは顔を見合わせ、声を上げて笑ってしまいました。
テーブルの上には、まだ湯気を立てている紅茶と、焼き立てのスコーン。
美しく整えられた庭。
そして、隣には愛する人。
かつて「ゴミ箱」と呼ばれた私の手の中には今、数え切れないほどの宝物が溢れています。
もう、収納魔法に隠す必要はありません。
だって、この幸せは、隠しておけないほどに輝いているのですから。
私は鍵をネックレスに通し、首にかけました。
胸元で揺れる銀色の重みを感じながら、私はまた、彼のために新しい紅茶を淹れるのです。
これが、私が見つけた「一番美しい居場所」のお話。
(完)




