第1話 「君の魔法はゴミ箱だ」と言われたので、中身を全てお返しして国を出ました
王城の大広間に、シャンデリアの光が煌々と降り注いでいます。
着飾った貴族たちの喧騒が、不自然なほど静まり返っていました。
数百の視線が、会場の中央に突き刺さっています。
その視線の先に立っているのは、私、コレット・ヴィオレ。
そして私の目の前で、不愉快そうに顔を歪めているのが、この国の第三王子であり私の婚約者、レイモンド様でした。
「聞こえなかったのか、コレット。お前との婚約を破棄すると言っているんだ」
レイモンド様の隣には、鮮やかなピンク色のドレスを着た女性が寄り添っています。男爵令嬢のミラ様です。
彼女は私の顔を見て、扇子の陰でくすくすと笑っていました。
「地味で、暗くて、華がない。おまけに特技といえば物を消すことだけ。王族の妻として、これほど相応しくない女もいないだろう」
レイモンド様の言葉に、周囲から嘲笑が漏れます。
彼らのひそひそ話が、私の耳にも届きました。
「ああ、あの『ゴミ箱令嬢』か」
「便利だが、王子の隣には似合わないよな」
「いつも薄汚れた色のドレスを着ているし」
私は静かに、自分のドレスの裾を握りしめました。
グレーのドレス。汚れが目立たない色。
私がこれを着ているのは、いつ何時、レイモンド様に「これを片付けろ」と汚物を押し付けられてもいいようにですのに。
「……レイモンド様。それは、本気でございますか」
私は努めて冷静に、声を絞り出しました。
感情を荒立ててはいけません。ここで泣き叫ぶのは、淑女のすることではないからです。
けれど、私の静かな問いかけは、彼の神経を逆撫でしたようでした。
「本気に決まっているだろう! 僕は真実の愛を見つけたんだ。ミラのように明るく、愛らしい女性こそが僕に相応しい」
レイモンド様はミラ様の腰を抱き寄せ、勝ち誇ったように胸を張ります。
ミラ様が甘い声で囁きました。
「そうよぉ、コレット様。諦めてくださいな。レイモンド様は、あたしといる時が一番幸せなんですって。貴女みたいに、見てるだけで辛気臭くなる女は嫌なんですって」
辛気臭い。
そうかもしれません。
この十年間、私は貴方たちが散らかした後始末ばかりしてきましたから。
十歳の時に婚約が結ばれてから、私はレイモンド様の「影」でした。
彼が勉強をサボって捨てた答案用紙。
お忍びで遊び歩いた時の泥だらけの服。
食べ残したお菓子。
狩りで仕留めて放置した獲物の死骸。
『コレット、しまっておけ』
その一言で、私はすべてを「収納魔法」の中に収めてきました。
私の魔法は、空間に物を格納できます。容量は、私自身の魔力量の限り無限。そして、収納されたものは時間が止まります。
レイモンド様にとって、それは魔法のゴミ箱でした。
何を入れても一杯にならず、臭いも漏れず、証拠も残らない。
だから彼は、好き勝手に振る舞えたのです。
「……わかりました」
私は顔を上げました。
不思議と、心は凪いでいます。
悲しみはありませんでした。あるのは、重たい鎖が外れ落ちるような、乾いた開放感だけ。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
私が深々と頭を下げると、レイモンド様は鼻で笑いました。
「ふん、やっと分かったか。これでお前も自由だ。精々、どこかの商会で荷運びでもして暮らすんだな。お前の魔法は、それくらいしか役に立たないのだから」
「まあ、レイモンド様ったらお優しい。こんな女、野垂れ死にがお似合いですわ」
二人の笑い声が、高い天井に響きます。
周囲の貴族たちも、私を憐れむどころか、面白がるような目で見ていました。
この国は、どこかおかしい。
汚いものをすべて「なかったこと」にして、表面だけを取り繕うことに慣れきっています。
私は、震えそうになる手を、もう片方の手で抑えました。
大丈夫。私はもう、彼らの道具ではありません。
「それでは、レイモンド様。最後にもう一つだけ」
「なんだ? 慰謝料なら払わんぞ。お前のような陰気な女に時間を費やした、僕の方が被害者なのだからな」
「いいえ、お金など結構です。ただ……」
私は一度だけ目を伏せ、そして、まっすぐに彼を見据えました。
「お預かりしていたものを、すべてお返しいたします」
「は? 預かりもの?」
レイモンド様が怪訝な顔をします。
忘れているのでしょう。
彼にとっては「捨てた」ものでも、私にとっては「しまえ」と命令されて収納した、管理下の物品ですから。
「私の魔法は、所有権を持てません。婚約者という立場を失った今、貴方様の所有物を私が保持し続けるのは、法に触れる恐れがございます」
「何を言って……」
私は、胸の前で両手を組みました。
体の中にある魔力の回路を開きます。
普段は、ほんの少しずつ、蛇口をひねるように使う回路。
それを、私は一気に全開にしました。
「さようなら、レイモンド様。どうぞ、ご自身で管理なさってくださいませ」
――展開。
ドサッ。
最初は、小さな音でした。
レイモンド様の足元に、丸められた紙屑が落ちました。彼が昨日、家庭教師に見つからないように隠した恋文の下書きです。
ボトボトボトッ!
続いて、泥だらけのブーツや、ワインの染みがついたシャツが降り注ぎました。
「な、なんだ!? おい、やめろ!」
レイモンド様が叫びますが、もう止まりません。
私の頭上に展開された魔法陣から、十年間溜め込まれてきた「負の遺産」が、滝のように溢れ出しました。
ズザザザザザァァァーッ!!
「きゃあああああっ!?」
ミラ様の悲鳴が上がりました。
彼女がレイモンド様にねだって買わせた、大量の宝石箱やドレスの箱――そして、彼女が「飽きたから捨てて」と私に押し付けた、古いドレスや靴が、彼女自身の上に降り注いだのです。
しかし、それはまだ序の口でした。
ぐしゃっ、べちゃっ。
湿った音が響き渡ります。
腐臭。
強烈な、鼻が曲がるような悪臭が、煌びやかなホールに充満しました。
狩りで仕留めた猪の頭。
食べかけで放置された果物。
カビだらけのパン。
そして、横領の証拠となる裏帳簿の山。
かつての側近たちが処分に困って私に預けた、賄賂の金貨の袋(中身は抜き取られて石が入っています)。
私の収納魔法は、時間を止めます。
腐りかけのものは腐りかけのまま。
汚物は汚物のまま。
十年前の生ゴミも、ついさっき捨てられたかのような鮮度で、そこに出現したのです。
「う、うわあああああああ!」
「く、臭い! なんだこれは!」
「逃げろ! ドレスが汚れる!」
貴族たちが悲鳴を上げて逃げ惑います。
けれど、出口は限られています。パニックになった人々が押し合いへし合い、会場は瞬く間に地獄絵図と化しました。
ゴミの雪崩は止まりません。
レイモンド様とミラ様は、すでに腰までゴミに埋もれていました。
「こ、コレット! 何をしたんだ! しまえ! 早くこれをしまえぇぇぇ!」
レイモンド様が、腐ったカボチャを頭に乗せたまま絶叫します。
その顔は恐怖と屈辱で真っ赤でした。
ミラ様に至っては、生魚の内臓のようなものを浴びて、白目を剥いて気絶しています。
私は、その光景を静かに見つめました。
不思議です。
あんなに怖かったレイモンド様が、今はただの、ゴミに埋もれた滑稽な男にしか見えません。
「申し上げたはずです。私の魔法はゴミ箱ではありませんと」
私の声は、喧騒にかき消されて誰にも届かなかったかもしれません。
でも、それでいいのです。
私は彼らに理解してほしいわけではありません。
ただ、終わらせたかっただけ。
私は踵を返しました。
誰一人、私を止めようとする者はいません。皆、自分のドレスを守るのに必死でしたから。
混乱に乗じて、私はホールの扉を抜けました。
廊下に出ると、冷やりとした夜の空気が肌を撫でます。
背後からは、まだ怒号と悲鳴が聞こえていました。
私は早足で歩き出しました。
目指すは裏門。
そこに、こっそりと手配しておいた辻馬車が待っているはずです。
ドレスの裾をまくり上げ、私は走りました。
こんなに速く走ったのは、いつぶりでしょうか。
心臓が早鐘を打っています。
でも、それは恐怖のせいではありません。
私の手には、もう何もありません。
重たいゴミも、押し付けられた責任も、偽りの愛も。
すべて、あのホールに置いてきました。
(さようなら、レイモンド様。さようなら、私の不幸な十年間)
裏門が見えてきました。
古びた馬車の御者が、私に気づいて手を振っています。
私は馬車に飛び乗り、御者に告げました。
「北へ。国境を越えて、ヴェリテ公国へお願いします」
馬車が動き出します。
ガタガタと揺れる車窓から、遠ざかる王城を見上げました。
美しくライトアップされた城は、今頃、中が腐臭で満たされているはずです。
私は、くすりと笑ってしまいました。
口元を手で覆っても、笑いが込み上げてきます。
「……あんなに、汚いなんて」
私がずっと抱え込んでいたものが、あんなにも醜悪だったとは。
それを手放した今、私の体は羽が生えたように軽く感じられました。
馬車は闇夜を駆けていきます。
行き先は隣国。
厳しい冬の国だと聞いています。
けれど、今の私には、その冷たささえも清らかで愛おしく思えるのでした。




