スイートピー
家の前に立つ。インターホンを押すまでもなく、ゆっくり門が開いていく。
その先に、家政婦が待ち構えていた。
「お母さまがお待ちです」
家政婦に前後を固められて、門から続く敷石を歩く。玄関を入り、母がいるというリビングへと歩いていく。
コン、コンと先頭の家政婦がドアを叩いた。中から「入りなさい」と声がかかった。
家政婦がドアを開き、私にお辞儀をしてその場を離れていく。
リビングへ足を踏み入れる。ソファに座っている由紀子と、その正面に女性がいた。由紀子の爪にマニキュアを塗っている。ネイリストのようだ。ツンとした刺激臭が鼻につく。
由紀子は、赤色に塗られていく爪を見つめていたが、ちらりと私の視線だけこちらへ向け、すぐに元へ戻した。
「着物は、どうしたの?」
「動きにくいので、買っていただきました」
「行先は、遊園地だったみたいね。春樹さんは、精神年齢が低い方のようね」
由紀子は相変わらず、自分の爪を凝視している。
場所は把握されていても、湊と一緒にいたことは認識していないらしい。
安堵のため息を消すために、特に興味はなかったが、念のため聞いてみることにした。
「行先をどうして知っているのですか?」
「スマホ、渡したでしょ?」
当たり前のようにそういって、それ以上説明する気はないようだった。
スマホの中に位置情報アプリでも、仕込まれていたということだろう。
そんなことだろうと思っていた。
由紀子は、手を天井へとむけ、満足したように頷いた。十本の指先が、真っ赤に染まっている。
ネイリストは、会釈すると手早く荷物を片付け、部屋から出て行った。シンナーの香が充満している。
由紀子がは、体ごとこちらへ向けた。
肌が、お綺麗ですね。
会食などがあると、必ず褒められる。そんな時の由紀子はいつも、嬉しそうだった。
その顔に、濃い化粧が施されている。美容クリニックへもよく通うから、皺もシミもほとんどない。
そんな綺麗な肌に、ポツリと雨が降る。
「昔、まだ私が小さかったころ。よく公園へ連れて行ってくれましたね」
気づけば勝手に唇が動いていた。太陽の下で、ブランコを漕いでいる私を由紀子はずっと見守っていた。
急に飛び出してきた昔話に、由紀子は眉を顰めていく。
由紀子は私へ向けていた視線を外してそっぽを向いた。
「子供に騒がれると、クレームがすぐ来るようなボロアパートでしたからね。外で遊ばせて、家ではおとなしくさせねばならなかった。炎天下の公園は、最悪だったわ。お陰で、目元にできてしまったシミがすぐに浮いてくる」
由紀子は、化粧の下に隠れているシミを赤い爪で触る。
由紀子にとっては、忌々しい記憶なのだろう。
いくら消しても出てくるシミを作ってしまったあの時が。自分の汚点だとでもいうように、押し込んでいる。
「私は、その頃のお母さまが好きでした」
あの頃、私はブランコが好きだった。まだ身体が小さくて、体重もなかったから、なかなか空高く漕げなかった私の背中を由紀子は、押してくれた。背中に感じる力強さ。何倍も高く飛び上がるあの瞬間。それが、大好きだった。
目を細めると、数少ない思い出の一端が、脳裏をかすめていく。
毎日朝早くから働きに出ていく由紀子の背中。それを見送っまたときの少し寂しさと、それ以上に感じた頼もしさ。時折私へ優しくかけてくる言葉が、励みだった。
「家は、小さくて寒いアパートだったけれど、私は幸せでした」
由紀子は、そんな私の裏を読もうとしていた。
裏表のないただの本心で、何もないというのに。 分厚く施されていたファンデーションがひび割れるのではないかと思うくらい、由紀子の眉間に深い深い皺が寄っていた。
そのまま受け取ってくれればいいと思う一方で、一生届かないと知っている。
シンナーの香は、相変わらず強く、この部屋に染み込んでいる。
「情に訴えて、私のいうことを聞かせようとしても無駄です。春樹さんのところへ行ってもらいます」
由紀子は、鼻先で突っぱねて、本筋へと軌道修正してくる。
わかってもらおうなんて思っていない。ただ、伝えられればそれでいい。
私は、細めていた目をもとの大きさに戻して、息を吸い込んだ。
「私の存在は、お母さまのアクセサリー代わり。いつからか、そんな役目に変わっていきましたね」
数々のさせられた習い事は、岩国のような大企業のところへ潜り込ませるため。
自分にも箔も付き、ビジネスでも利用できるところへ。子供の頃はそんなこと、全く求められていなかったけれど、いつの間にか私の価値は、その基準でしかなくなってしまった。
「何言ってるの。最初から、あなたの役目は変わってないわよ。子供の頃は、頑張る母親のアクセサリー。私だけじゃない。世の中みんなそうでしょ。政治家なんか、見てみなさい。みんな公然と強調するでしょう。『子供を育てている親として』って。そんなこと本来言わなくたっていいことを、当然のように公言して、利用している。政治家の命である、好感度は上がる。私の場合は、会社ね。子供を持つ親としての当然の権利よ。それがなかったら、子育てなんかやってられないわ」
私は、まだまだ由紀子のことを理解しきれていなかったのだなと思う。それ以上に、もう理解したいとも思わない。
きれいに塗られた指先をうっとりと眺めたあと、向けた視線が私に向かう。
「でも、大人になると利用の仕方に困るわね。大きくなって可愛げもなくなり、ない頭を勝手に動かし始めて、勝手に行動されるんだから。たまったものではないわ。今は、アクセサリーどころか、処分するにも金ばかりかかる粗大ごみね」
理解できない価値観や感覚は、いくら血はつながっていても、親子だったとしても、一生かけても分かり合えないことがある。
他人は、よくいう。親子なんだから、いつかは必ず通じ合えると。でも、それは現実を知らないが故の甘言でしかない。
「本当なら、自分で粗大ごみから価値あるものになれるように努力して探し出すもの。あなたの場合、私のお膳立てがなければ何もできない。だから、私が苦労して用意してあげたのです。感謝してほしいわ」
「そうですね。お母さまの力で、これまで私は生かされてきました。そのことには心から感謝を申し上げます」
私は、深々と頭を下げ、顔を上げる。
由紀子の勝ち誇ったような笑顔があった。
その直後、私が「でも」と、二文字口にした瞬間、唇は垂れ下がり、目が吊り上がった。
「私は、岩国さんと一緒になりません」
由紀子は、うんざりと顔を顰めた。
「この前、私は言ったわよね。逆らうようなことをすれば、あなたに手を貸した喫茶店を潰すって」
「私が、守ってみせます」
「どうやって? あなたにそんな力あるの? 所詮、あんたは影山の名前がなければ、何の価値もない。何もできない。己惚れるのもいい加減にしなさい!」
「外へ飛び出してみて、よくわかりました。お母さまが吐き出すその言葉が、私を孤独にし、動けなくするための呪いだった。たしかに、私はまだまだほかの人よりも、未熟です。でも、私は一人じゃない。助けてくれる人がいる。頼ることは悪いことじゃないと、教えてくれました。私はその方たちの力を借りながら、返しながら、自分の足で歩いていきます」
人はそうしたいという衝動と情熱さえあれば、何でもできる。
私をマネージャにしてくれた時、小早川がくれた言葉だ。
由紀子は顔を真っ赤にして、暴言を吐き続けている。それを無視して、私は淡々と告げた。
「そもそも、岩国様は、他の方との縁談を進める方向で調整を進めている。私の出る幕はとうになかったのです」
車の中で湊から聞いた話だった。
「なんですって? そんなはずがない! 先方はあなたとの縁談をそのまま受け入れたわ!」
由紀子との縁談の話をはっきり断ることなく、ここまでうやむやにして引き延ばし続けたのは、小早川と湊からの要望だった。すぐに断らず、保留のまましばらくやり過ごしてほしい。はっきり断りを入れらてしまうと、私を外へ出す理由がなくなり、接触不可能になってしまうから、と。そして、岩国側は、その話へ乗ったに過ぎない。
「お相手は、ワールドレジャーランドのご令嬢だそうです。信じられないのならば、ご確認を」
先ほど、湊と一緒に訪れた遊園地の経営者の娘だ。
由紀子の頭の中の計算機が働き始める。険しい顔をして、顎に手をやっている。
そこに、ノック音が響いた。お手伝いさんが焦りながら、電話をもってくる。
「岩国様からお電話です」
湊が岩国へ促してくれたのかもしれない。図ったようなタイミングだ。
由紀子は、受話器をひったくる。まさに今話した内容の電話だったのだろう。
電話切った由紀子の顔は、蒼白だった。
岩国が関東で急成長を遂げているワールドレジャーランド。その周辺環境はまだ、未開発状態。これから十分に、成長できる余地がある。そこに岩国グループが食いこめば、確実に関東での知名度も上がる。
レジャーランド近郊にホテル建設する案も浮上しているらしい。事業を関東県内でも広げたかった岩国グループにとって、願ってもない話だろう。それを足掛かりに、関東各地に手を広げるチャンスとなる。
そうなれば、当然影山グループにとって、脅威となる。手を組んだと見せかけて潰すはずだった相手の方が、何倍も上手だったということだ。
「どうしてこんなことに……! 全部、あなたのせいよ!」
私に向かって受話器を投げつけようとしたとき、 ピンポーンと、この場にはあまりに軽快なインターホン音が鳴った。
同時に、家政婦がノックもなしに焦って入ってきていた。
「一体何なの!」
由紀子がヒステリックに叫ぶ。家政婦は、おろおろしながら、答えた。
「家の前にマスコミがたくさん押し寄せています」
「なぜ!?」
由紀子は鋭く叫び、家政婦は肩をビクつかせながら首を振る。そして、由紀子は私を睨んだ。
しかし、私にとっても寝耳に水で、目を丸めることしかできない。
一体、何が起きているのか。
その答えを知っているとばかりに、再び由紀子が握りしめている受話器が鳴った。
由紀子はそれを、家政婦に投げつける。家政婦は、うまくキャッチして、その電話に出た。
家政婦は、困り顔を由紀子へ顔を向けた。
「小早川という方から、由紀子様宛にお電話です……」
「切りなさい!」
由紀子の声が飛ぶ。家政婦はびくっと肩を飛び跳ねさせながら、消え入るような声でいった。
「『切ったら、外のマスコミにリコの兄の件を喋る』と、言ってます……」
リコの兄? 降ってわいてきた存在。そもそも梓に、兄がいたことさえ知らなかった。それを由紀子が、知っていたこと自体驚く。
由紀子は、無表情になっていたが、こめかみだけが痙攣している。
「『スピーカーにしろ、早く出ろ』と、言ってます……」
家政婦が電話口で叫んでいるであろう小早川の言葉をそのまま伝える。
由紀子が、カッ目を見開いて、家政婦を人が殺せそうなほどの鋭さで、睨みつけていた。理不尽な被害者となった家政婦は、全身をぶるっと震わせる。
そして、家政婦はボタンを押した。




