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願わくば一輪の花束を  作者: 雨宮 瑞樹


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ネモフィラ2

 鏡花がこの家を去ってから、しばらくすると階下にいた家政婦がバタバタと走り回っている音がした。

 由紀子が帰宅してくる前触れだ。

 私は、窓際から離れる。ずっと部屋の外のドアに張り付いているであろう誰かに声をかけた。

「お話がありますと、母に伝えてください」

 返事はなかった。しかし、離れていく足音がする。了解したという意味なのだろう。

 

 それからだいぶ時間が経った。

 もう今日は来ないのかと思い始めた頃、由紀子が部屋のドアをけ破るようにして飛び込んできていた。すでに、お怒りのようだ。

「鏡花が突然辞めると言い出して、出て行ったと聞いたわ! 説得したのは、あなたね!」

 外の見張りが、由紀子へ告げ口したのかもしれない。まぁ、どこでもいいことだ。溜息をつかずにはいられなかった。私は、ずっと手に持っていた託されていた辞表を差し出した。

「鏡花さんには、もうずいぶんと長くここで働いてくださりました。私にとっても彼女の存在は、とても大切な方。だからこそ、これ以上この家に縛り付けておくのは、間違っていると思い、助言いたしました」

 由紀子の頭の血管がプツっと、切れる。実際、本当に切れたんじゃないかと思う。

 それくらい、わかりやすく顔が真っ赤になった。


「本当なら! あなたのような出来損ない、捨て置いたってかまわなかった! 苦労や恥ばかり掛けられてただけで、で私は何も返されていない! いい加減、返してもらうわ!」

「もう、私にできることは残っていないと思いますが」

 社長がいくら箝口令を敷いたといっても、ホテル内にはたくさんのスタッフがいる。完全に止めることはできないだろうし、由紀子はずっと岩国に執着していた。彼らは、大企業。当然、私の件は耳に入っていることだろう。

 そんな悪い噂が纏わりついている人間との結婚など、相手にメリットどころかデメリットしかない。

 岩国も企業を束ねるトップ。由紀子ほどの極端な考え方の持ち主ではないだろうが、損得勘定は必ずする。

 破談となったとみて、間違いない。現に連れ戻されて三か月間、音沙汰もなく、ひたすらこの場所に閉じ込められていることが、何よりの証拠だろう。

 そう確信していたのだが。

 

「あなたを岩国のところへ何としても出します!」

 唐突に、由紀子が言い放った。

 ならば、なぜ一気に話を進めていなかったのだろうか。なぜこんなに時間が空いたのか。

「先方から断りがきていたのでは、ないのですか? お母さまが頭を下げたのですか?」

 そういってみて、笑ってしまった。由紀子が自ら頭を下げることなど、天地がひっくり返ってもない。

 今の私は、そうやってなんの遠慮なく吐き出せてしまう。冷静に考えれば、単にずっと部屋に押し込められ続けていて、思考力が低下していたせいかもしれない。

 

 由紀子の顔はみるみるうちに赤くなり、耳まで赤くなっていた。

 今は、もう鏡花はいない。彼女は、由紀子の抑止力でもあった。面倒なことになったなと、他人事のように思う。

「むしろ岩国から、私に頭を下げてきたのよ! あんたに会わせろって!」

 由紀子はカッと目を見開き、傍にあった花瓶を私へ思い切り投げつけてきていた。

 私の真横を飛んで、壁にぶつかる。花瓶は派手な音を立てて、粉々に砕けた。生けられていた梅の花の先端はもげて、花瓶のガラス片が散らばった。破片が飛んできて、私の足首を掠めた。ぴりっとした痛みとともに、液体が流れる。それに気を取られすぎた。様々なものを投げつけてくる中、エアコンのリモコンが真正面に迫っていた。咄嗟に顔を守った左腕に直撃していた。

 足の痛みなんかとは比べ物にならないくらいの激痛が走った。

 歯を食いしばって、痛みを何とか散らしても、どうにもならずその場に蹲る。

 由紀子は、物を壊したお陰で、ある程度のストレスが発散されたのだろう。由紀子は、上がった息を整えていた。

 赤かった目が、真っ白になっている。

「岩国のところへ行ったら、岩国グループの営業秘密情報を私へ流してもらう。それが、あんたが私にでいる唯一の恩返しよ!」

 由紀子は、吐き捨てるようにそういって出て行った。

 なるほど、そういうことだったのか。

 私の縁談は、結婚による裏切りのない結びつきを得るため、だと思っていた。しかし、そこにはまだ思惑があった。

 私が岩国の内部に入れて、内部情報を由紀子へ流す。得た情報を利用して、影山グループを大きく成長させ、岩国を蹴落とす。

 どうしたら、そこまであくどくなれるのだろう。

 そんな血が自分にも流れていると思うと、身の毛もよだつのに、左腕の痛みは引いていた。

 

 しんと静まり返った部屋を見渡す。

 散々な有様だった。部屋中にガラスの破片が散乱しているし、床は水浸し。その上に梅の花弁の赤が散らばっている。水を吸い込んで、梅の甘いが立ち込めてくるようだった。

 私は嘆息して、立ち上がる。切れた足首がずきずき痛んだが、片づけを優先する。

 ビニールの中へ拾えそうなものを拾って、投げ入れていく。

 こんなこと些末なことだ。

 どうせ私はここを出るのだろう。何があろうが、もうどうでもいいことだ。

 

 部屋の中にハンカチタオルで、床を拭いているとき、ガラスの破片が刺さった。ぷっくりと浮き上がった赤い玉が、ポタっと落ちる。痛みはなかった。

 指先から赤い雫が、零れ落ちていく。


 

 散々な出来事の翌日、再び由紀子が部屋にやってきた。由紀子と接触したのは、昨日が久々だったのに、今日もか。窓際の椅子に座りながら、仕方なく、由紀子の方へ顔だけ向ける。

 昨日は、顔を出して早々から鬼の形相だったが、今回は上機嫌のようだ。薄く赤い唇の両端が上を向いている。

 

「岩国さんと、今日会うことになりました」

 由紀子は、私へ着物を投げてよこす。

 前回の縁談の時に来た着物以上のド派手に描かれた梅だった。どす黒い赤い色をしている。

 趣味が悪い。声に出そうだったが、今回は飲み込む。

「早く用意しなさい。三十分後に家を出ます」

 由紀子が、出ていく。私は、大きくため息をつき、膝の上にある着物を手にする。

 

 そして、家の前でスタンバイしている黒塗りの車へ押し込まれた。

 車の中で、自分の手へと目を落とす。昨日の指先の傷は、まだ治りきっていない上に、左腕が痛い。

 どうせなら、切り傷や痛みが引いてからにしてほしかった。揺れるたびに、不快な痛みが時折襲ってくる。

 

 無機質に流れていく車窓から、外を眺め続け、閑静な住宅街を出て、都内の中心部へと入っていく。

 人が賑わう街へと、景色が変わった。

 楽しそうな笑顔が、溢れている。それを見ているのも億劫になって、私は瘡蓋になっている指先を撫でた。

 車が停車する。止まった勢いで、かさぶたを爪でひっかけた。

 じわっと、血が再び滲んでいくのを、じっと見つめていた。

 

 しばらくすると、ドアが開かれた。

 促されるがままに、両足を地面に下ろす。

 前回は、料亭だったから、似たような場所を想像していたのだが。

 目の前にあったのは、高層ビルだった。


 ふと縁談を飛び出したソメイヨシノが、脳裏に浮かぶ。

 しかし、今の季節は、冬を迎えようとしているところだ。そんな季節に桜など咲くはずもない。

 そもそも、都会のど真ん中の高層ビル群の中に桜どころか木々はほとんどない。こじんまりと植えられている生垣くらいだ。逃げ出した庭の勝手口は、ここにはない。

 もう、逃げ場はない。


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