あざみ5
ずっと昔からかかっていた呪いが再発動したように、体が動かなかった。足に根が生えたように動かない。激しい動悸だけが、警笛のように鳴り響いていた。
思考回路が自動的に逆流して、頭の中の時間が巻き戻っていく。
『カゲ』
私のことをそう呼んだ人は、一人だけ。高校時代でぴたりと止まっていた。
息苦しい日々。自分ではない偽りの時間。狭い世界。刺々しい視線。
すべてリコと重なり、本来の彼女の名前が口からこぼれた。
「あずさ、さん……」
私のことをカゲと呼んだ人間は、ただ一人。松坂梓だけだった。
高校時代の頃とは、かなり容姿が変わっていて、気づかなかった。
動かない私の前に、リコが回り込んでくる。ゆったりと弧を描いていた赤い唇の両端が、どんどん下がっていく一方で、双眸は鋭く吊り上がっていく。
「ドラマの現場であんたを見たとき、まさか見間違いだろうと思った。だけど、むかつくほど独特な言葉遣い。間違いないと思った。一体、どんな手を使って蓮くんのマネージャーなんかやっているのか。ずっと不思議に思っていたのよ。今まで蓮くんがマネージャーをつけなかったのに、突然使えもしない人間をわざわざつけるようになった理由。御手洗に頼んで、徹底的にあんたのことを調べさせて、ようやくわかった。あんた、喫茶店でバイトしていたんですってね。そこに、ちょうど蓮くんがやってきた。そして、蓮くんのストーカーが大暴れ。それを止めたカゲは、怪我をした。蓮くんは、優しいからね。相当罪悪感を感じていたんでしょう。それに付け込んだあんたは、今の仕事を得た。……それを聞いたとき、本当に心の底から呆れたし、腸煮えくりかえる思いがしたわ」
私は、ジャケットの下にある傷跡を右手で、ぎゅっと握り込む。
リコの早口にまくし立ててくることは、悪意のある言い方が含まれていたとしても、反論しようもない事実だった。
湊はずっと、気に病んでいた。私に対する罪悪感をずっと抱えていたことを、知っている。この仕事を与えてくれたのは、贖罪の意味が隠されている。
私は、ひたすらその事実を重く受け止めることしかできず、ただ押し黙ことしかできなかった。
そんな中、リコは突然くるりと一回転しだす。
私は、ただ目を見張る。
ワンピースは、この場の重苦しい雰囲気など関係ないとばかりに、本来の美しさを引き出すようにふわりと揺れる。
「ねぇ、これ覚えてる? 高校の時、カゲが着てたカブスのワンピース。とっても高かった。私の本来の給料じゃ手に入らないくらい。でも、臨時収入を得たから余裕で買えたのよ?」
突如変わった話題が不気味に響き、道脇に咲いていた赤紫色のあざみも揺れた。
そして、リコはワンピースの魔法にかかったかのように、無邪気な子供のように笑っていた。
カブスのワンピース。たしかにそれは、私が高校の時、母から与えられた洋服の色違いだった。
それがいったい何を意味をするのか。ぼんやりとした不気味な輪郭だけが見えるが、核心がわからない。
正体のわからないこの不気味な空気に、異常なほど馴染まない笑顔に、背筋がぞくっとする。
その時、車のエンジン音が近づいてきていた。
「あ、バスが来た」
リコが叫んで数秒後、バスがロビー前に到着する。
ホテルの中で待っていたスタッフたちが、バスが来たことに気づいて、ぞろぞろとやってくる。みんな知った顔だった。撮影期間が長かったため、ほとんど顔なじみとなっているから、おはようございますと、声をかけてもらう。
みんな笑顔で挨拶してくれるのに、私は上の空で返事をすることしかできなかった。
そんな私の耳元で、リコは囁いた。
「あとで、ゆっくり話しましょ。ちなみに、逃げようっていう姑息な考え方はやめてね。突然スタッフが消えたなんていったら、面倒くさいことになって、みんなに迷惑がかかるし、どうせ逃げられないんだから」
口の中がカラカラに乾いていて、何も答えられなかった。ただ、ひたすら心臓が早鐘を打ち続ける。手が震える。そんな私に、リコはにっこりとほほ笑んだ。
「じゃあね」
リコはそういって、ぞろぞろとバスに乗り込んでいくスタッフに続いていた。
最後に乗り込もうとしていた女性スタッフ――飯島が、こちらを怪訝な顔をしてみていた。
「鈴木さん、乗らないんですか?」
「あ……リコさんが、先発のバスに乗り遅れてしまったらしくて……私の代わりに彼女が」
動揺が滲み出ていたのだろうか。飯島は、何か言いたそうな顔をして眉根を寄せていた。
今は、仕事。私の話は、後回し。何度も言い聞かせて、息を吐く。
「私は、後からタクシーで向かいます」
「そうですか。では、蓮さんに、そうお伝えしておきますね」
「お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
頭を下げると、飯島は笑顔で了解しましたと、元気に頷いてくれる。
そして、たくさんの人を乗せたバスは、黒い排気ガスを力いっぱい吐き出して、走り去っていた。
1人残された私にだけ何倍もの重力がかかってきたかのような感覚だった。
先ほどまで見ていた景色が嘘のように、色褪せていく。
身体も、内臓も、すべてが重い。それでも、時間は淡々過ぎ、仕事は待ってはくれない。
ポケットのスマホは、震えだしていた。
仕事は、どうしようもなく差し迫ってくる現実をも薄れさせていく。今日に限って、ひっきりなしに連絡が入ってくる。いくら考えても逃げ道のない袋小路に追いやれている私には、丁度よかったのかもしれない。
そうこうしている間に撮影は、無事終了していた。スタッフはお互いの仕事を称え合い、抱き合っていく。
一つのものをみんなが、全力で作り終える。その充実感は、何よりも代えがたい。湊がこの仕事を選んだ理由はよくわかる瞬間だった 。
湊は大勢のスタッフに囲まれて、一人ずつ拍手を交わしていく。
私の仕事もそこで、やっと途切れ、遠くからそれを見つめる。
湊がくれた煌びやかな景色を、鮮明に脳に焼き付ける。夢は覚めればすぐに忘れてしまうものだけれど、この夢だけは二度と忘れることはないだろう。
私は、そう思う。




