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願わくば一輪の花束を  作者: 雨宮 瑞樹


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あざみ4

 逃げるように人気のない場所まで移動する。非常階段の近くまできたところで、立ち止まり息をついた。相変わらず心臓がドクドクと、嫌な音を立てていた。

 そのリズムに合わせるように、濡れた袖から水が滴り落ちている。

 ハンカチをポケットからだして、袖口をハンカチでぎゅっと絞るように吸い込ませた。ハンカチは、ゆっくりと水分を含み濡れていく。ある程度、袖口の水が拭き取れたことを確認して、ジャケットを着る。濡れているからどうしても不快な感覚はあるが、すべて黒いジャケットの下に隠れてくれていた。水分を吸ったハンカチを電子機器の入っている鞄にしまうことはできず、仕方なくジャケットのポケットにしまう。そこから再び水がじわじわと、不快な感触がしみわたっていくようだった。


 

 再び御手洗と顔を合わせたとしても、これ以上の動揺を見せるわけにいかない。動揺は弱みを見せることと同じことだ。

 ふうっと息を吐く。気合を入れなおして、再び食堂へ向かう。俳優陣は、相変わらず熱い議論の最中だった。その輪の中にリコもいる。しかし、御手洗の姿は消えていた。食堂の隅々まで見渡しても、気配がない。安堵はあったが、それでも心はずっと揺れていた。


 しばらくすると、湊たちのグループが解散していた。

 湊がこちらへつま先を向けてくる横に、リコが張り付いている。リコは、私など眼中にないような顔をして、私の目の前までやってきていた。

「じゃあ、蓮くん、また明日ね」

 今までのリコならば、構わずずっと湊に絡みついていたが、あっさりと湊から離れていた。湊が「また」と返すと、リコは満足そう笑みを浮かべていく。そして、くるりと踵を返す直前、私を見た。

 細めていた瞳が鋭い牙となっていた。その眼が、ギラリと光る。御手洗がダブって見えた。

 

 食堂を出て、私と湊は、廊下の突き当りにあるエレベータホールへと向かう。

 壁際においてあるテーブルに梅が飾られていた。それを視界の外へ追いやり、上のボタンを押す。予約部屋は五階だ。

「今日も一日、お疲れさまでした。すごく熱心に話されてましたね」

「つい時間を忘れちゃいました。紅羽さんは、どうでしたか?」

 そう聞かれて、一瞬言葉に詰まりかける。その隙間を埋めるように、五階到着を告げるチャイムが鳴った。扉を開けるボタンを押して、湊が先に出るように促す。

「何か困ったことがあれば、遠慮なくいってくださいね」

 湊はじっと私を観察しているようだった。

 湊は、勘が鋭い。先ほどのことを気取られないように、気を付ける。

「お気遣い、ありがとうございます。今朝は、よく休ませていただいたので、すごく仕事が捗って、もう社長への報告メールも仕上げました。なので、私の心配は無用です」

 私は、笑顔で守りを固めた。

 

 部屋の前までやってくる。湊の部屋のルームキーを渡す。私は、その隣の部屋だ。

「じゃあ、今日の仕事はお互い終わりですね。夜更かししないで、ゆっくり休んでください」

 本来湊の世話を焼くのが私の仕事だ。なのに、ここにくる前の件といい、これではまるで逆だ。

 苦笑するしかなかった。

「それは、私のセリフです。湊さんこそ、明日から本格的な撮影です。明日は、早朝からでしたので、ゆっくり休んでください」

「あーそうだった……明日の朝、早いんですよね……」

 湊は自信なさげにぽりぽりと頭を掻き始める。立場が元に戻った。

「寝ていても、無理やりたたき起こしますので、覚悟していてくださいね」

「はい。任せました」

「任されました」

 ニッコリとほほ笑むと、湊も笑っていた。

 水分を含んでいた心臓が、乾かされて軽くなる。

 私も湊を起こすコツというのが、少しずつ分かってきている。自信をもって、頷いた。

 

 それから、私自身に降りかかった初日の躓きもなかったかのように、湊たちの撮影も私の仕事も順調に進んでいった。

 あれ以来、御手洗も私から距離をとるように、接近してくることはなかった。

 私の傷を見た時の強引さは、鳴りを潜め、不気味なほど大人しい。あの時見せた、獣のような目の鋭さも、幻だったのではと思えるほどだった。 淡々と過ぎていく時間の中で、母のホテルだということに対する警戒心も、平穏というぬるま湯の中で薄れていた。


 撮影当初は、湊を起こすのに氷水で十分だったが、撮影の終盤には、ホッカイロや熱いタオルを顔にかけて起こすというやり方になっていた。理由は、気温が高くなっている中での氷では、逆効果だったからだった。

 そんなこんなで、撮影最終日も、そうやって湊をたたき起こすいつも通りの朝を迎えていた。


 部屋を出て、エレベーターを待つ。

「これが終われば、しばらくお休みですね」

「はい。やっと羽が伸ばせそうです」

 湊は、苦笑いを浮かべながら、大きく伸びをする。

 ずっと働き詰めだった湊に一週間ほど、まとまった休みが与えられることになっている。

「自分から言ってはみたものの、仕事のない時間をどうやって過ごせばいいのか、わからないんですよね」

 今まで一度も湊自ら、休みが欲しいといったことがなかったらしいが、珍しく社長に直訴したらしい。

 毎日早朝から晩までの自然の中での撮影。これだけハードスケジュールだ。疲れは溜まっているだろうし、当然の主張だろう。

 湊が普段会えない大切な誰かにも会いたいに決まっている。

 そう思ったら、少しだけ胸が痛みそうだった。それに気づかぬふりをして、到着したエレベーターに乗り込み、ロビーボタンを押した。

 

「紅羽さんも、休みですよね?」

 湊に聞かれ、私はうなずく。

 佐藤蓮のマネージャだから、必然的に休みになる。考えてみれば、蓮と働き始めて、まとまった休みというものは初めてのことだ。

「休みの日の予定とか考えてるんですか?」

「いえ、予定は特に。部屋が散らかっているので、片付けくらいはしようかと」

 片付けながら、残っている雑務をこなしたかった。そうすれば、何とも言えない、鈍い痛みも忘れられるだろう。そんな安易な考えなど見透かしているように、湊はいった。

「せっかくの休みです。仕事は、頭の外に追いやってくださいよ」

 ズバリと言い当てあられて、湊を見やる。まともに合った形のいい瞳は、やっぱり私を見透かしていた。

 といっても、聞く耳持たないか、と、ぼそぼそと湊は呟いている。

 そして、湊は、突然ぽんと手を叩いた。


「休みの使い方がわからない同士、一緒に出かけませんか?」

 思いがけない提案だった。私は、一瞬言葉を失ってしまう。湊の目は真剣だった。

「私がいては、湊さんが気を遣うばっかりで、お休みならないじゃないですか」

「今までだって、気を遣った覚えないですけど……まぁ、そう見えたのならば、それはそれで。休みの時間は一切気をまわしません。それなら、いいでしょ? 行きたい場所があるんです」

 湊ならば、声をかければいくらでも付き合ってくれる人は、いるのだろうに。

 そんな思いを打ち消すように、湊は言葉を重ねた。

「ぜひ、紅羽さんと一緒に」

 そういわれてしまえば、断る理由を失ってしまう。

「……そう言っていただけるのなら、喜んでお供させていただきます」

「本当ですか?」

「もちろんです」

 本当に私なんかでいいのだろうかという疑問を含めて答える。しかし、そんな疑問を吹き飛ばすくらい、湊は無邪気に喜んでくれるから、私も素直な嬉しさだけが広がっていた。ロビー到着を告げるチャイムが軽快に鳴っていた。

 

 ロビー前にバスが止まっていた。

 空は、撮影最終日を喜んでいるかのような抜けるような青空が広がっている。ホテルのロータリーの脇にある草の中に赤紫色のあざみがいくつも揺れていた。見渡す限りの緑に彩りが加えられている。

 湊は、俳優だけを乗せる専用バスへ乗り込んでいく。

「頑張ってください」

 私が湊の背中へ声をかける。振り返った湊から、満面の笑みで親指を上へ向けた。

 バスが、風を切りながら出発していく。初夏の香りと、温かい風が私の心を救い上げて、少し浮つきそうだった。


 私は、そのあとに到着するバスへと乗り込むために、その場で待つことにする。

 まだ、湿気の少ないさわやかな風がさっと吹き抜ける。風と一緒に、湊とした約束が、さわやかに響いてくる。

 嬉しさを伴って、胸がきゅっと締め付けてくるようだった。そして、胸の奥からこみあげてくる感情。

 私は、胸に両手を乗せた。とくとくと甘やかに響く心拍。その音を聞きながら、私はその答えを出そうとした。

 その時、私の肩に手がのった。

 思考の中に意識を沈めすぎていて、気配に気づかなかった。驚いて振り返る。

 無表情のリコがそこにいて、さらに驚くことしかできなかった。

 私服なのだろうか。丈の短いワイン色のワンピースは、光沢感があった。高級感が漂っている。

 リコの唇の色も、服に合わせたのか赤いルージュが塗られている。目元もアイラインをきっちり入れているせいで、以前会った時以上に威圧感を感じた。

 どうしても感じてしまう重い空気を追いやるように、出発していったバスの方向へ顔を向けた。

 俳優陣を乗せたバスはすでに見えない。リコは、乗り遅れたのだろうか。

 

「先ほど、俳優の方々を乗せたバスは出発してしまいました。お急ぎでしたら、私の席を譲りますので、この後のバスに乗ってください」

「そうね、そうさせてもらおうかしら」

 リコの手が、私から離れた。

 ほっと胸を撫でおろして、一礼する。リコへ席を譲るのならば、私はタクシーを使わねばならない。

 タクシーを呼ぶために、その場を離れようと踵を返したとき。

「お気遣いありがとう、カゲ」

 リコの冷たく呼んだ名前が、胸の中心を貫く。

 私の心臓が凍っていく。

 

 

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