あざみ
早朝。ぼんやりした頭で、ゆるりとベッドから這い出る。
今日のスケジュールをもう一度確認して、最終確認をしていくが、余計なことばかりが脳裏にちらついていく。
昨日の湊とのやり取りに加えて、今日の行き先は、グランドセンターホテル。影山グループのホテルだ。
母のホテルだからといって、ホテルスタッフまでも私の顔を把握しているわけではないだろう。来宅したりパーティーに出席してくるのは、上層部の人間だけだ。
そう簡単に素性がばれることはないはずだ。長い髪もバッサリ切ってある。
ただ、大きな懸念は一つ。
母は、定期的に各ホテルに抜き打ちで視察に行くことがある。それに遭遇することだけは、絶対に避けなければならない。もし鉢合わせしてしまったら、確実に湊へ迷惑をかけることになる。
もう一度スケジュール表へ目を通す。滞在期間は、一か月。
その間、ぎっしり撮影が詰まっている。ホテルには、寝に帰ってくるだけのスケジュールとなっている。宿泊期間は長いが、ホテル自体の滞在時間はそれほど長くない。
それならば、きっと大丈夫。見つかることはない。絶対大丈夫。そうやって自分を奮い立たせるが、すぐに気分が落ち込んでいく。それを何度も繰り返していると、インターホンが鳴っていた。
ドアを開ける。そこに湊が立っていた。
「おはようございます。寝てましたか?」
いつも通りの微笑み。昨日のことを気にしている素振りはなかった。いつもと変わらない湊の顔を見られただけで、騒めいていた心がずいぶんと落ち着いていくようだった。
「いえ、ずいぶん前から起きていました。湊さん、早いですね」
微笑みを混ぜて声をかけると、湊は苦笑していた。
「実は、もう十時回ってますし。一応、紅羽さんに連絡入れようと思ったんですけど、仕事用のスマホが繋がらなかったので」
「あ……すみませんでした!」
指摘されて初めて気づく。今日は朝からずっと、スマホに意識が向いていなかった。
「それは、いいんですけど。大丈夫ですか?」
少し湊の顔が曇っていた。やっぱり、昨日つい口走ってしまったことを、気にさせてしまっているのかもしれない。
私の粗末なことに、気を遣わせたくない。
「もちろん、大丈夫です! この後は、しっかりとやらせていただきます!」
こぶしを握り、気合を入れる。仕事に集中しなければ。気合を入れている私を、湊はじーっと見つめてくる。
そして、一泊おいて湊は言った。
「昨夜、ちゃんと眠れましたか?」
湊の言う通り昨日は確かにほとんど眠れなかった。けれど、仕事に支障をきたすほどではない。人間、一日や二日寝ていなくても、何とかなる。
「お気遣い、ありがとうございます。まだお化粧をまだしていないから、酷い顔に見えるだけで、元気いっぱいです」
ニッコリ笑って見せる。しかし、湊の表情は何故か曇るばかりだった。
「まだ、時間ありますから、少し仮眠とってください」
湊は、私が言ったことを何も聞いていなかったように平然と言うから、一瞬言葉が詰まる。
「私は全然平気です。念のため放っておいたスマホの中身も確認しておかないと、いけませんし」
湊は少しだけ考える素振りを見せると、曇りがちだった表情に笑顔が戻った。
「じゃあ、少しお邪魔しても大丈夫ですか?」
湊自ら、部屋の中へ入りたいと申し出るのは、初めてのことだった。
「勿論です」
ドアを開け放ち、中へ招き入れた。
改めて自分のリビングを目の当たりにすると、こんなに散らかっていただろうかと、驚いてしまうほど書類があちこちに散乱していた。
ダイニングテーブルに置いてある開きっぱなしのパソコンを閉じる。そして、テーブルの上に散乱している書類を重ねていこうと手を伸ばしていく。
「今、コーヒー淹れますね」
「今日は結構です。ところで、仕事用のスマホって、ありますか?」
寝室に置きっぱなしだと伝えると、見せてくれという。
こんなに部屋は散らかっているし、仕事がちゃんとできているのか、心配になってしまったのかもしれない。不安が大きな波となって、押し寄せてくる。
少しシュンとしながら、寝室へ行って、スマホ手にして画面を見る。湊以外に、着信や連絡が数件入っていた。自分自身の力量のなさに、重い溜め息が出てしまう。
「やっぱり、連絡が入っていました。すみません」
謝りながらスマホを湊へ渡す。湊は、無言で受け取ると、そのまま電源をオフにしてしまっていた。
驚いて湊を見やる。勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
一体どういうことなのか。わからないが、いくら何でもそれはまずい。
「それは、私が困ります。返してください」
取り返そうとしても、背の高い湊がスマホを持った手を高く挙げてしまえば、まったく届かない。
うさぎのように、跳ねても無理だった。
「少しぐらい、大丈夫ですよ。僕が責任持ちますから。それより、本当に少し休んでください。顔色、悪いですよ」
湊はぎゅっと眉根を寄せていた。自分の頬に手をやる。そんなに、酷い顔をしているのだろうか。鏡がないから自分の顔は確認できないが、湊の顔をみる限り、目もあてられない状態なのかもしれない。
「それは、お化粧していないからで」
「普段だって、そんな化粧してないでしょう?」
ぐっと押し黙ることしかできなかった。ほかの言い訳も見つからない。
すると、湊が手招きしていた。
「紅羽さん、こっちに」
机も散々な状態なのを、横目に言われた通り、湊の前にたつ。すると、湊は閉まっていた寝室のドアを開けて、私を寝室に押し込んでいた。
「湊さん!」
驚いて振りかえる。寝室のドアを閉めようとしていて、慌てて手を掛けた。
「あの、一体どういう……」
「仮眠、とってください。今回は、僕が紅羽さんを起こしますから」
「え……そ、そんなこと、湊さんにさせられません!」
「いいから、いいから」
恨めしいとばかりに抗議しても、湊は笑っているだけだった。
「心配しなくても、大丈夫です。僕はここで紅羽さんが出てこないように見張っているだけなので」
そういうと、楽しそうに笑っていた。
困ったように目を細めている瞳が、胸に柔らかく刺さる。
「……どうして、そんなに優しいのでしょうか……」
気付いたときには、思っていたことがそのまま声に出たあとだった。湊の形のいいの瞳がほんの少しだけ見開かれる。そして、元に戻った柔らかい眼差しが。
「紅羽さんだからです。それ以外に理由なんて、いらないでしょ? たぶん、これ以上僕が余計なことをいうと、休めなくなると思うので。今日は、このくらいで勘弁してください」
湊は微笑んでパタリとドアを閉められていた。
きゅっと、胸が締め付けられる気がした。
私が優しさを知ったのは、つい最近のことで。それまで、人の優しさというものがどういったものなのか、少しずつ理解していけた気がするけれど、その優しさが少し怖かった。
また、裏切られるのではないか。私の不甲斐なさに愛想をつかされてしまうのではないか。いつも、怖くて仕方ない。
それなのに。
いつも、ありのままの私を受け入れようとしてくれるから、どうしたらいいのか本当にわからなくなる。




