桜4
声で制するよりも先に、身体が勝手に動いていた。
気付いたときには、目の前の女肩を掴んでいて、しゅっと風を切る。
なんだろう?
そんな疑問が、思い浮かんだところで、初めて気付いた。自分の左腕がざっくり切られ、白の長袖ワイシャツが赤く染まっている。
腕から溢れる赤い液体が手を伝ってポタポタと床に滴り落ち、水溜まりを作っている。アドレナリンが出ているせいか痛みはほとんど感じなかった。
振り返ってきた女。その顔は、蒼白で無表情。それなのに、白目がやけに赤い。
女の背後にある個室から、先ほどの男性三人が飛び出してきて、私を見て目が飛び出さんばかりに、見開いているのが見えた。その中に、サトと呼ばれている男性もいて、端正な顔立ちは驚愕に包まれていた。女がそちらへ振り返ろうとする。
この女の目当ては、サトだ。このまま彼女が振り返って、彼がいることに気付いたら、危ない。私は無我夢中で、女の腹部に突進して押し倒した。必死に彼女の腰にしがみついて、身動きとれないようにさせる。
「逃げてください」
サトへ必死に呼びかけたつもりだったが、女の叫びでかき消される。
「ふざけんじゃないわよ!」
甲高い雄叫びだった。反射的にびくっと肩が跳ねあがらせながら、母の怒声によく似ているなとこんな時に場違いなことを思っていると、再び女の手が、天井に向かって振り上げられていた。
血走った瞳と手の中の鋭い切っ先が、真っ直ぐに私へ向けられている。
くるであろう衝撃に備えて、ぎゅっと目を閉じた。しかし、その直前でサトを囲んでいたスタッフに取り押さえられていた。
ふっと気が抜ける。倒れて痛みを起こす。涙目になった三浦が血相変えて私の横で膝をついた。
「紅羽ちゃん、大丈夫!?」
「大丈夫です」
左腕を押さえながら答える。指の間から血が流れ続けている。意外と深いのかもしれない。他人事のようにそんなことを思う。
ふと母の大激怒している顔が思い浮かんだ。今頃、食器を投げ飛ばしたり、花瓶を割ったりして、みんなに大迷惑をかけているかもしれない。極限のストレスがたまると、母はそうやってものにあたる。みんなに多大な迷惑をかけているに違いない。
兄も似たような気質の持ち主。兄の場合は、人に八つ当たりをする。どうでもいいことに難癖をつけて、お手伝いさんたちを罵倒したりして、ストレスを発散させるのだ。
鏡花さんたちは、大丈夫だろうか。私のせいで本当に申し訳ないことをしたなと思う。
こんなことになったのは、みんなに迷惑をかけてしまった代償なのかもしれない。
そんなことを思っていたら、いつの間にかサトが目の前にいて驚いた。端正な顔が苦悩で歪んでいた。
「僕のせいでこんなことになって、本当に申し訳ありません……」
そういいながら、自分のハンカチを私の傷口へきつめに縛る。青いハンカチが、どんどん血で染まっていく。
それを見ていたら、こちらの方が申し訳なってくる。
「気にしないでください。大したことありませんので」
そう答えても、サトの顔は歪められたままだった。じっとしたまま動かない。そんな中、カウベルがなった。
外から更に、数人のサトの取り巻きがやってきたようだった。その一人がサトに下がるようにいう。サトは後ろ髪を引かれるように、無理やり外へ連れ出していた。
そして、残っていた取り巻きの一人が、私を促していた。
「病院へお連れします。我々がすべて責任を持たせていただきます。この度は、本当に申し訳ございませんでした」
男性はそう言ってくれる。しかし、病院はまずい。咄嗟にそう思うが、ほとんど抱えられた状態になり、ほぼ強制的に外に止まっている車の方と連れ出されていた。
「病院は行かなくて、大丈夫です。本当に大したことないので」
車に乗せられる間も主張したが、三浦が本気で怒っていた。
「病院に行かなきゃダメよ」
初めてみる怒りの前に、私は何も言えなくなってしまう。その間に、サトの取り巻きの車に三浦も付き添う形で乗り込み、強制的に病院へと向かっていた。
大学病院につくと、患者で溢れていた。処置までに相当時間を要しそうなところだが、特別なツテでもあるのか、速攻で処置室へ招かれていた。
傷を診るやいなや医師は、眉をひそめていた。
「結構深いですね……」
一言置くと、さっと尋問のような目つきになった。
「この傷、どうされたんですか?」
正直な理由は、人に刺されたこのによる傷。でも、それをそのまま白状すれば、警察が来るかもしれない。いや、すでに警察沙汰になっている可能性の方が大かもしれない。それでも、ここでは言いたくはなかった。ここで言えば、すぐに母へ連絡がいって、ここにくる。
「えっと……ナイフが落ちた時に、誤って切れてしまって……」
「とてもそんな風に、見えませんけど」
完全否定されて、それ以上の言い訳が見つからなかった。押し黙ると、医師はいった。
「私あてに連絡が入ってます。あの会社は、人気商売。印象を悪くしないために、都合の悪いことを揉み消するのはよくあることなんです。あなたもそれに承諾している、という認識でいいですか?」
そんな事情があるなんて知らなかったが、渡りに船だった。警察へ連絡がいかないほうが、私にとっても都合がいい。
「はい、私も承知しております」
きっぱりと言い切ると、医師はいう。
「処置代は、事務所に請求するので安心してください。あと、しばらく入院してください」
「え……入院ですか?」
「手術します」
「そんな、大袈裟な」
「指、動きますか?」
そう言われて、初めて気づいた。力が入らない。
「神経が傷ついているんです。再建手術をします。最低でも十日間は入院です。先ほども言いましたが、費用は事務所持ちなので安心してください」
どんどん進められていく。口を挟む余地はなく、すべて身を委ねる他に道はなかった。
そして、あれよあれよと言う間に、手術となり終わっていた。それからしばらくの間入院生活が始まった。
三浦は店が開店する前に、毎日必ず面会に来てくれていた。忙しくさせてしまって本当に申し訳ない。
「毎日本当にすみません……」
「そんなこと、気にしないで。ゆっくり治しなさい」
「……はい」
頷くと気がかりなことがたくさん浮かんでくる。あのあと、どうなったのか。
「あの……私を刺した女性はどうなりましたか? 警察へ?」
前のめりになると、三浦は少しだけ怪訝な顔をしていた。
「警察には行かない方向になったみたい。紅羽ちゃんはそれでいいの? 犯人が捕まらなくて」
「はい。警察には関わりたくないので」
即答する私に、三浦は眉を寄せていた。
「そんなに警察、嫌?」
もしかしたら、私は犯罪から逃げ回っている人に思われているのかもしれない。そんな可能性が浮上した途端、自分でもびっくりするほど、大きな声が出ていた。
「私は決して、犯罪を犯したとか、そういった理由で警察と関わりたくないと言っているのではありません! それだけは、どうか信じてください!」
「紅羽ちゃんが犯罪とか、想像もしていなかったけど」
三浦の方が驚いた顔をしていた。すみません、大きな声を出してと、謝罪しながら先を続ける。
「私は……家出中で、どうしても居場所を知られたくないのです……」
それ以上の言葉が出なかった。暗い記憶が次々と浮かんでくる。三浦はうつむいていく私にいった。
「そういうことなら、納得よ。話したくないことは、話さなくていいわ。私が紅羽ちゃんの事情を聞いたところで、どうすることもできないと思うしね。それに、大切なのは過去じゃなくて、今でしょ?」
三浦はニッコリ笑う。
考えてみれば、バイトとして雇ってくれた時も、今何をしているのかなどの事情さえも何も聞かれることはなかった。三浦の懐の深さが、本当に有難い。
優しさが胸にしみて、じわっと温かくなる。みんなから与えられる恩に、私はどう報いればいいのだろう。
三浦がポンと手をたたいた。
「そういえば、天野さん物凄く心配してたわよ」
「天野さん?」
聞いたことのない名前だ。首をかしげると、三浦が電動ベッドのリモコンを手にする。
「ちょっと背中起こしてもいい?」
頷くと、三浦がボタン操作して、電動ベッドが起き上がっていく。ちょうどいい角度にきたところでストップする。三浦はポケットから走り書きされたメモを取り出していた。右手でそれを受けとる。
『天野 湊』と書かれていた。
その下に連絡先らしき電話番号。やはり、全く心当たりがない。目を瞬かせると、三浦がいう。
「この人は、個室にいた男性。ほら、キャップをかぶっていて、女の子たちからキャーって言われてた方」
あの端正な顔立ちの人か。頷くと、店長が続ける。
「紅羽ちゃんがよければ、連絡がほしいって置いていったの。謝りたいって」
「謝る? その方に謝られるようなことは、されてないと思うんですが……」
そういうと思った、と店長は苦笑する。
「あの女、天野さんのストーカーだったらしいの。あまりにもしつこいから、最近彼のスタッフが強く注意したんですって。そその注意のし方が、気に入らなかったから、今回の行動に繋がったらしいわ」
そんな理由であんなことするなんて、本当に酷いと、眉を寄せて三浦は憤ったが、すぐに気を取り直す。
「天野さんがね。『本来ならば、僕が受けるべき被害を、影山さんに背負わせてしまって、大変申し訳ない』って」
「そんな……。これくらい、気にされなくてもいいのに……」
「いやいや、気にするレベルでしょ。手術もしたのよ?」
私の左腕を指差されてみやる。手術は確かにしたが、前腕部全体にテープのようなものが張られている程度だ。やはり大したこはないのではと思うが、三浦は首を横にふる。
「腕の傷、残ってしまうみたいだし、ちゃんと謝罪していただきましょう。私から連絡しておくわね」
厳しくそう言う割に、三浦の顔がにやけていた。悪巧みしていそうな顔。そんな、三浦に私は首を傾げるしかなかった。
そんなやりとりをして、三浦が帰っていく。そうなれば、私はやることもなかった。静かに本を読み、時間が進んでいくのを待つ。そして、夕方頃になるとなんとなく、窓をみやる。それが入院生活の日課になっていた。
外は、黄昏時で刻一刻と顔を変えていく。この時間は習い事をぎっちり詰め込まれていたから、空を観察することなんてほとんどなく、その色を知らかった。燃えるようなオレンジ色になったかと思えば、強いピンクになって、しばらくすると、青が混ざりあい淡い紫に変化していく。空ってこんなに綺麗だったんだと、呑気に感動してしまう時間だった。
しかし、それは束の間で、少しずつ暗くなる空のせいか、罵倒されるときと同じような胸の痛みがあった。
そこから、血が流れるように滴り落ちてくる罪悪感。三浦には申し訳ないなと思う。
こんな時こそ、私も手伝えればよかったのに、肝心な時にはいつも役立たず。
本当ならもっと、いいやり方があったのかもしれないとか、ぐずぐずあれこれ考えてしまう。
コンコン。
ドアをノック音が響いた。看護士が様子を見にやってきたのだろうか。
「はい、どうぞ」
返事を返すと「失礼します」という男性の声とともに、ゆっくり引戸のドアが開いた。
現れたのは、看護士からは程遠い。キャップ、マスク、サングラスで身を固めた長身男性だった。




