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期待外れと妥協の人生を歩んでいる

作者: ムクダム
掲載日:2025/11/08

 生まれて初めて期待を裏切られた時のことを記憶しているだろうか。保育園に通っていた5歳くらいの頃、それは到来した。母と一緒に保育園から帰宅したある日の夕方のことだ。

 いつも家族で食卓を囲んでいるテーブルの上に見慣れないものがちょこんと置かれていた。山のようにこんもりとした形状で、全体的にカラフルで頂には赤い球体状のものが乗っかっている。幼い私はそれをケーキの一種と認識し、今日のおやつに違いないと考えた。誕生日以外にケーキを食べたことなどなかったから、嬉しさのあまり、普段は後回しにする手洗いを早々に済ませ、テーブルの椅子に腰掛けた。後年、母に聞いたところ、あの時の私は史上最大級のニコニコ笑顔だったという。それだけおやつへの期待が大きかったのだろう。

 しかし、最高潮に達していた私の期待は無惨にも裏切られる。ケーキだと思っていたそれは、母が裁縫で使う針刺だったのだ。針刺には無難なクッション型以外に、動物やお菓子などを模した可愛らしいものまでヴァリエーションが豊かなのである。

 母が何の気なしに片付けずにおいたそれが、幼い私の心に大きな影を落とすことになる。天国から地獄に落とされたような気持ちとはまさにこのことで、私はその時人生初の挫折感を味わった。その日までの私は人生には楽しいことしかない、自分の願ったことはなんでも叶うと信じていた。将来、ウルトラマンに変身して怪獣と戦うのだと心から信じていたし、世界中どこへでも行くことができると考えていた。今となっては、給料で買い漁った玩具を並べながらニマニマと妄想したり、Googleマップで知らない土地の風景を見て擬似旅行をしたりするのが関の山だ。子供の頃はお金がなくても充足感を得ることが出来ていたのに不思議なものである。

 その日を境に、期待は裏切られるものだという気持ちを抱きながら進む人生が幕を開けた。齢五つにして、どうせ裏切られるなら初めから何も望まない方が良いという多感な中学生のような思考に陥ることになる。これが大人になるということなら受取拒否をしたいところだ。

 進学、成人、社会人と体だけは順調に育っていったが、精神的には満たされないままだった。勉強や運動は低空飛行、音楽や美術も壊滅的、たくさんの友達など作れないし、まして異性と軽やかに話すことなど夢の世界。高望みし過ぎなのだと思わないで欲しい。そんなに強欲になったつもりはないのだ。宝くじを買う時に、何も1億円当たって欲しいなどとは考えていない。その100分の1、100万円が当たれば良いと考えるくらいには謙虚である。合コンに参加した時も、綾瀬はるかレベルの女性とお近づきになりたいなどと命知らずな下心は持ち合わせていない。せいぜい浜辺美波か今田美桜ぐらいで十分なのだ。そんなささやかな期待も成就しない人生の前途は暗いと思っていたが、そもそも期待とは一体どのようなものか考えてみた。

 期待外れと妥協を繰り返しながら生きているが、期待外れには大きく分けて種類ある。一つは、心待ちにしていた出来事や行動が成就せず満足できない場合、もう一つは、それらが成就したにも関わらず想像していたような楽しさや喜びを感じることが出来ない場合である。どちらがより辛いかと問われれば、私は後者であると答える。

 出来事や行動が成就しなかった場合は、将来的な希望が残る。成就した暁には満足感が得られるはずだという希望的観測だ。しかし、外形的に願いが叶ったのに内面的には目標が達成されない、心が満たされないという場合、そもそも想像していたような楽しさや喜びが存在しない、成立しないという結論に至る可能性がある。

 休日を楽しく過ごそうと、遊びに行く場所や食事などあれこれ計画を立てたものの、当日になって、天気や交通、家庭の事情など外的要因でその計画が頓挫した場合、日を改めてその計画を実行すれば期待通りの結果が出るという可能性が残されている。

 当日なんらの障害がなく計画通りの休日を過ごしたにも関わらず、思っていたほど嬉しくない、楽しくないと感じた場合でも、まずは計画そのものに何か穴があるのでは疑い、次はもっと良い計画を練ろうとするだろう。

 しかし、その後も同じことが続けば、そもそも自分が想像したような喜び、楽しさといったものの存在に疑いを向けることになる。幸せな結婚生活というのはその最たるものである。

 望みが叶わず不満を覚えることと、そもそも望みそのものが存在しないということの間には途方もない断絶がある。何をおいても叶えたいという望みを持った人間はそれを原動力に生きていくことができる。願望の形は人それぞれであるが、願望は人が生きるために欠かすことが出来ないものだと思える。それゆえ、望むものが存在し得ないという事実を突きつけられることは、とてつもない恐怖なのではないだろうか。

 おやつのケーキが偽物だったからまだ救いがあったのだ。あれが本物のケーキで、それを食べても望んでいた満足が得られなかった場合、私は別の形で満足を得る道を探しただろう。だが、何をしても自分が思っていたような気持ちになれないと気がついてしまったら、そこで生きる気力を失っていたかもしれない。極端な例え話ではあるが、どんな人間にもそういった袋小路に行き着く可能性はある。妥協せずに願望の成就に邁進することは、願望の存在の否定という結論に至る危険がある。

 もしかしたら、期待外れと妥協を繰り返すことは生きるためのテクニックなのかもしれない。妥協するということは、新たな期待への準備体操のようなものにも思える。

 人生の終わりを迎えた時、まあ悪くない生き方だったという気持ちを抱きたい願望があるのだが、これは存在しない、成立し得ない望みだろうか。それを確かめるためには、なるべく長く生きねばなるまい。終わり

 

 

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