【秋の文芸展2025】放課後の図書室で、僕らは世界を作った
第1話 放課後の図書室
放課後の図書室には、夕陽が降っていた。
窓の桟の向こうで、茜色が少しずつ琥珀に溶けていく。
古い本の匂いと紙の埃。
ページをめくる音が、世界の呼吸のように規則正しく響いていた。
僕は、いつもの席に座っていた。
三年の二学期。クラスの誰とも深く話さないまま、ここが自分の居場所になっていた。
本の中なら、何者にでもなれた。
けれど、現実の僕は、教室の端にいる空気みたいな存在だった。
その日、カーテンの影が揺れて、誰かが入ってきた。
制服の袖をまくり上げて、分厚いノートを抱えた女子――綾だった。
明るい茶色の髪を一つに結び、机の上にノートを「ドン」と置く。
「ねえ、君。文章、書くでしょ?」
唐突な問いに、鉛筆が手の中で止まった。
顔を上げると、綾がまっすぐこちらを見ていた。
根拠のない確信を持つ人の目だった。
「……どうして、そう思うの」
「筆箱の中身。鉛筆ばっかりだから」
彼女はくすりと笑った。
確かに、僕の筆箱にはシャーペンが一本も入っていない。
鉛筆のほうが、言葉の感触を手で確かめられる気がしたからだ。
「じゃあ、私と一緒に“世界”を作らない?」
その言葉に、少しだけ時間が止まった気がした。
綾はノートを開き、黒いペンで見開きの中央に大きく文字を書いた。
世界の設計図
彼女の筆跡は伸びやかで、少し乱れていて、どこか自由だった。
僕が思わず見とれていると、綾は笑って言った。
「ルールは簡単。このノートに交互に書くの。私が始めて、次は君。
ひとつの物語を、二人で作る。どんな話になるかは、わからない。
でも――作ってみたいの、誰にも読まれない“私たちの世界”を」
僕はうなずいた。
それが、すべての始まりだった。
***
それから、放課後の図書室が僕らの世界になった。
窓際の席に並んで、綾が書き出す。僕はその続きを書く。
彼女の物語は突拍子もなく、だけどどこか懐かしかった。
王子がいない童話、花の咲かない庭、時が止まった町。
どれも未完成の断片で、僕はそこに小さな呼吸を吹き込む。
彼女が描く「夢」に、僕が「現実」を足すように。
「君の文、静かで好き。言葉に温度がある」
綾は何度もそう言った。
褒められて嬉しいはずなのに、心のどこかがざらついた。
彼女の“好き”の一言で、僕の言葉はすぐに色を失う。
僕は彼女の世界の“影”にいる気がした。
ページが進むごとに、僕らの“世界”は広がっていった。
ノートはもう二冊目に入り、物語は行き先を見失いながらも続いていた。
綾は言った。
「私ね、将来は小説家になるんだ。ほんとの世界を作る人になる」
僕は答えられなかった。
その夢が、僕の中でも同じように育っていたからだ。
だけど、言葉にした瞬間、壊れてしまう気がした。
放課後の図書室。
並んだ椅子。二人分の影。
外では野球部の声が響いていた。
僕らの世界には、夕陽しかなかった。
***
ある日、綾がノートを抱えて言った。
「ねえ、文化祭でこの物語、展示してみない?」
僕は驚いた。
あのノートは、僕らだけの秘密の世界だった。
誰にも読まれないからこそ、呼吸できた。
けれど綾はもう決めていた。
彼女はページをめくりながら言う。
「見てもらいたいんだ。この世界が本当に“生きてる”って」
その瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
彼女にとって、“世界を作る”とは、誰かに見せることだった。
僕にとっては、誰にも知られずに残すことだった。
夕陽が、図書室の奥まで差し込む。
紙の上の文字が、茜色に染まっていく。
綾は微笑んで、ノートを抱きしめた。
「ねえ、きっと、これは始まりなんだよ」
僕はその言葉の意味をまだ知らなかった。
この“始まり”が、僕らの世界を壊す始まりでもあったことを。
第2話 世界の設計図
文化祭の前日。
放課後の図書室は、紙の匂いと緊張の気配で満ちていた。
窓際の机に、僕と綾のノートが並んでいる。
表紙には、彼女の丁寧な筆跡でタイトルが書かれていた。
『世界の設計図 作者:綾と“僕”』
“僕”という文字が、彼女の筆圧で少しだけ滲んでいる。
僕はその滲みをじっと見つめていた。
まるで、僕の名前が曖昧なままでいてほしいと願っているようだった。
「ねえ、緊張してる?」
綾が笑う。
彼女の手はインクで少し汚れていた。
それが、僕には絵の具よりもずっと美しく見えた。
「……少しだけ」
「大丈夫。うちらの“世界”は、ちゃんと息してるよ」
綾はノートを胸に抱えたまま、窓の外を見た。
夕陽の光が彼女の横顔を照らす。
僕はその光景を、何度も心に焼き付けようとした。
***
文化祭当日。
図書室の展示スペースに、僕らのノートが置かれた。
最初は誰も立ち止まらなかったけれど、やがて数人がページをめくり始めた。
小さなざわめきが広がる。
「これ、高校生が書いたの?」「すごいね」――そんな声が、紙の向こうから聞こえた。
僕は嬉しいよりも、どこか落ち着かない気持ちでいた。
綾はといえば、顔を少し赤らめながらも、誇らしげに笑っていた。
彼女はその瞬間、もう“僕ら”ではなく“彼女自身”として、光の中に立っていた。
「やっぱり、見てもらうって気持ちいいね」
「……そうだね」
そう答えながら、僕はノートのページをめくった。
彼女の文章の一つひとつが、僕の書いた行よりも鮮やかで、遠かった。
その夜、僕は一人でノートを読み返した。
綾の言葉は、まるで自分の知らない誰かが書いたものみたいに生き生きとしていた。
僕の文は、整っているけれど、どこか呼吸が浅い。
ページの上で、僕の言葉だけが少し遅れて歩いていた。
――“世界”は、誰のものなんだろう。
その問いが、頭の中で何度もこだました。
***
冬が近づく頃、綾の変化は目に見えて現れ始めた。
授業中もノートを開き、何かを書き続けていた。
それはもう僕との共作ではなく、彼女だけの物語だった。
「今、新しい小説書いてるんだ。新人賞に出してみようと思って」
そう言った綾の瞳は、まっすぐ前を向いていた。
僕は笑顔を作るのに、少し時間がかかった。
「すごいね。応援してる」
本当は、心の奥で別の言葉が渦巻いていた。
“僕たちの世界は、もう終わったの?”
“どうして一緒に続きを書こうって言わなかったの?”
でも口にしたら、全てが壊れる気がして、何も言えなかった。
それからの放課後、図書室で会うことは減った。
彼女の席には、いつも開きかけのノートと、コーヒーの香りが残っていた。
まるで彼女の影だけがそこに座っているようだった。
***
数週間後。
廊下の掲示板に「全国高校生文学コンクール 入賞者発表」という張り紙が貼られた。
その中に、綾の名前があった。
“優秀賞 作品名『灰色の王国』 作者・綾”
クラス中がざわつき、教師が祝辞を述べた。
綾は照れくさそうに笑いながら、みんなに囲まれていた。
僕は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
心の奥で、何かが静かに音を立てて崩れた気がした。
「やったね、綾」
放課後、廊下でそう声をかけると、彼女は振り返った。
その笑顔には、もう僕の知らない世界の光が宿っていた。
「ありがとう。あのね、この作品――少しだけ、あのノートの続きを使ったんだ」
僕は笑おうとした。
でも、喉の奥が塞がって、声にならなかった。
「すごいね。……本当に、すごいよ」
綾は嬉しそうにうなずいた。
夕陽の光が廊下の窓を染めて、二人の影を長く伸ばした。
僕はその影を見つめながら、思った。
“世界”は、もう彼女のものだ。
僕が触れることのできない場所に、行ってしまったのだと。
***
図書室の机に、置きっぱなしのノートが一冊あった。
表紙の角は擦り切れて、インクの跡が滲んでいる。
僕はそのページを開き、最後の行に一文だけを書き足した。
世界は二人で作った。けれど、神様は一人しかいらない。
その言葉が、僕自身の痛みなのか、祈りなのか、わからなかった。
鉛筆の先が折れ、机に小さな音が響いた。
放課後の図書室には、もう綾の笑い声はなかった。
第3話 物語が奪ったもの
年が明けて、冬の空気が張りつめる頃。
校門の前に報道陣が来た――という噂が、校内を駆け抜けた。
「綾が本を出すらしい」
その言葉が、教室のあちこちで囁かれた。
文芸部の先輩が誇らしげに言う。「うちの学校からデビューだってさ」
僕の心臓が、ひとつ跳ねた。
黒板の字が遠のく。
耳鳴りがして、誰の声も届かなくなった。
***
放課後の図書室。
そこはもう、あの頃の静けさを失っていた。
綾の姿はなかった。
彼女が座っていた席には、薄い陽射しがひと筋だけ差していた。
僕は机の上に置かれたチラシを見た。
《第○回新人小説大賞 受賞作『灰色の王国』 作者・綾》
出版社のロゴ。発売予定日。
そしてその下に、小さく書かれた宣伝文。
「誰も知らない放課後の“世界”が、いま本になる。」
息が詰まった。
その一文が、まるで僕の記憶から抜き取られたようだった。
彼女が言っていた。“世界を作ろう”――その言葉が、形を変えて紙面に並んでいた。
僕はノートを開いた。
かつての共作の最後のページ。
そこに書いた自分の一文を指でなぞる。
世界は二人で作った。けれど、神様は一人しかいらない。
指先が震えた。
この文を読んで、綾はどう思っただろう。
彼女は、それを“エピローグ”として奪っていったのだろうか。
いや、きっと、彼女にとっては「借りた」だけなのだ。
でも、僕にとっては“世界”そのものだった。
***
数日後、綾が学校に戻ってきた。
報道陣が去った後の、静かな放課後。
教室に二人きりだった。
彼女は新しい制服のリボンを整えながら、笑った。
「見た? 本。まだ発売前だけど、見本届いたの」
差し出された文庫本。
白いカバーに、淡い灰色の建物が描かれている。
そのタイトルを見た瞬間、胸の奥がひび割れた。
『灰色の王国』
あのノートの中で、僕が名づけた世界の名前だった。
綾の指が表紙を撫でる。
その指先の動きが、僕の心臓に直接触れるようだった。
「覚えてる? あの“設計図”の中の話。あれをちゃんと形にしたの。
ね、すごいでしょ。君の言葉があったから、ここまで来られたの」
“君の言葉があったから”――その言葉が、刃みたいに響いた。
光栄だと笑うべきなのに、口の中に鉄の味が広がった。
「……そうか。よかったね」
それだけを搾り出して、僕は本を返した。
綾は気づかない。
僕の声の中に沈んだものの正体を。
***
『灰色の王国』は、瞬く間に話題になった。
新人離れした構成力、詩的な文体――そう評された。
SNSでは、十代の天才だと騒がれた。
そのたびに、僕の指先が冷たくなった。
あの物語の“呼吸”の半分は、確かに僕のものだったのに。
夜、書店に立ち寄った。
棚に並んだその本の帯には、こう書かれていた。
「放課後、私たちは世界を作った。――そして壊した。」
僕の書いた行が、少しだけ言い換えられて印刷されていた。
ページを開くと、あのノートの文がいくつも姿を変えて現れていた。
行間を埋めるように、彼女の言葉が僕の言葉を覆っていく。
まるで、二人の記憶を上書きするように。
***
その日から、僕はもうノートを開けなくなった。
鉛筆の芯が乾いて折れる音が、やけに耳に残った。
僕は、書けなくなった。
放課後の図書室。
誰もいない机に座って、綾のいない空席を見つめた。
かつて隣にあった呼吸の跡が、もうどこにもなかった。
窓の外では雪が降り始めていた。
ページを閉じた指先に、何かが残っていた。
それは嫉妬でも、悔しさでもなく――“欠落”だった。
彼女がいなければ、僕の言葉は生まれなかった。
でも、彼女がいなくなった今、僕の言葉は死んだままだった。
***
数週間後、廊下の掲示板に「綾、進学延期」の知らせが貼られた。
出版の多忙さによるものだと聞いた。
クラスメイトたちは羨望の混じった言葉を交わした。
僕は黙って、その紙を見つめていた。
あの日の綾の笑顔を思い出す。
あの笑顔は、僕の知らない場所を見ていた。
僕の世界は、そこで終わったのだと悟った。
放課後、誰もいない図書室。
机の上に、折れた鉛筆と古いノートがあった。
僕は久しぶりに、それを開いた。
白紙のページを前に、静かに呟く。
「君の世界は、綺麗だったよ」
声はすぐに、埃の中に溶けた。
光が沈み、窓の向こうで雪が止んだ。
机の上には、たった一枚の付箋が残っていた。
“続きを、書いて。”
その文字は綾の筆跡だった。
震えるような、細い線。
それが最後のメッセージだった。
僕は鉛筆を握りしめた。
芯の折れた先端を、削る。
木の香りが広がる。
ページの上に影が伸び、夕陽が差し込む。
――書かなくちゃ。
書かないと、君がいなくなる。
そんな衝動だけが、僕を動かしていた。
***
けれどその“続きを書く”という行為が、
僕の中の何かを少しずつ壊していった。
言葉が出るたびに、君が遠ざかる。
綾の言葉をなぞるたびに、僕自身が薄くなっていく。
「君のいない世界を描くこと」――それは、君を殺すことだった。
僕は知っていた。
それでも、書かずにはいられなかった。
ノートの端に、一文だけを書き残した。
世界は、誰のものでもない。
けれど、僕はまだ君を探している。
その行を見つめたまま、僕は静かに目を閉じた。
鉛筆の先が机に転がり、音を立てた。
その音が、まるで鐘の音のように響いた。
第4話 壊れた神様
春が訪れても、僕の時間は止まったままだった。
図書室の窓から差し込む光が変わっても、机の位置も、僕の視線も変わらなかった。
ただ一つ変わったのは――そこに、もう綾がいないということ。
『灰色の王国』は、発売からわずか二ヶ月で重版がかかった。
ニュースサイトやSNSでは“十代の天才作家”と呼ばれ、
文学誌では評論家が「新しい感性の到来」と評した。
僕はどの記事も読まなかった。
ただ、教室の隅で耳を塞ぎ、放課後の図書室に逃げ込む日々を続けていた。
***
六月の終わり。
雨が降り続く午後、下駄箱の前にひとつの封筒が落ちていた。
差出人は「綾」。
消えかけたインクで、宛名の“君へ”の文字が少し滲んでいる。
僕はそれを開けることができず、数日間、机の引き出しにしまっていた。
触れるだけで指先が痛むようだった。
開けたのは、七月に入ったある夜のことだ。
窓の外では蝉が鳴き、風が熱を含んでいた。
封筒の中には、折り畳まれた原稿用紙が数枚入っていた。
冒頭に、たった一文。
『放課後の図書室で、僕らは世界を作った』
僕の胸が跳ねた。
それは、かつて二人で考えたタイトルそのままだった。
続く文章は、綾の筆跡でこう綴られていた。
あの頃の私たちは、神様みたいだった。
言葉で世界を作れると思っていた。
でも、神様は長くは生きられないんだ。
世界を作り続けるほど、自分が壊れていくから。
君は気づいてた? 私は、もう壊れかけてたんだよ。
文字が震えていた。
行間に滲むのは、汗でも涙でもなく、彼女の心そのものだった。
最後のページには、こう書かれていた。
“この続きを、君に託す。
私が書けなくなった分まで、君が書いて。
あの放課後の続きを――。”
僕は、その紙を抱きしめるように胸に当てた。
息ができなかった。
綾がどんな想いでこの原稿を書いたのか、痛いほど伝わってきた。
***
数日後、学校に一本の連絡が入った。
綾が入院したという。
出版社の過密なスケジュール、取材、締切、SNSの反響――
すべてが彼女の心を削り、ついに倒れたらしい。
僕は迷った末、病院に向かった。
白い廊下の先、静かな病室。
ベッドの上の綾は、思ったよりも小さく見えた。
点滴の管の向こうで、かすかに笑った。
「来てくれたんだね……」
「……原稿、読んだよ」
「そっか。あれ、最後まで書けなかったんだ。
本当はね、もう一度“あの世界”に戻りたかったの。
でも、もうペンが動かなくて。
君なら、続きを書けると思った」
「僕は……君の世界を壊したくなかったんだ」
「壊れていいの。だって、壊れない世界なんてないから」
綾はゆっくりと目を閉じた。
その瞼の下で、何かを思い出しているようだった。
「ねえ、覚えてる? “神様は一人しかいらない”って君が書いた行。
あの時、泣いたんだよ、私。
だって、私、君と一緒にいたかったのに――
一人で神様になっちゃったから。」
声が細くなり、病室の静寂に溶けていった。
僕は、何も言えなかった。
彼女の手の上に自分の手を置く。
指先が冷たく、それでも確かにそこに存在していた。
「君の“世界”を、もう一度見たい」
その言葉だけが、僕の口から零れた。
綾はわずかに微笑んだ。
「――じゃあ、続きを書いて。私の代わりに。」
それが、彼女の最後の言葉になった。
***
葬儀の日、空はどこまでも澄んでいた。
蝉の声がやけにうるさく、白い花が風に揺れていた。
彼女の棺には、あのノートと一本の鉛筆が添えられていた。
表紙の角はすっかり擦り切れていたけれど、
その中には、まだ“世界”の欠片が息づいていた。
式が終わっても、僕は会場を離れられなかった。
最後に手渡された遺品の中に、もう一つの封筒があった。
宛名はまた「君へ」。
中には、短い手紙が入っていた。
“君の言葉で、世界を救って。
私はもう、壊れた神様だから。”
紙の上に、インクの染みがひとつ。
涙か、それとも雨か。
それを指でなぞった瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。
***
放課後の図書室。
夕陽が差し込み、机の上に埃が舞う。
僕は古いノートを開き、綾の原稿を並べた。
彼女が書きかけた物語、その続きを――書く。
鉛筆を削り、手を止め、また書く。
言葉が滲む。涙も滲む。
ページの上で、彼女の声が響く。
君の言葉で、私をもう一度、生かして。
その声に導かれるように、僕は書き続けた。
現実と空想の境界が溶けていく。
ページの中で、綾が笑う。
あの頃の図書室の夕陽が、蘇る。
“僕らは世界を作った”――その過去形が、
少しずつ“作っている”という現在形に変わっていく。
外では雨が上がり、風が涼しくなっていた。
僕は最後の一文を書き終える。
神様は壊れても、世界は続く。
僕らの物語も、まだ終わらない。
ペンを置くと、窓の外の空が茜に染まっていた。
放課後の図書室は、あの日と同じ光に満ちていた。
綾の笑顔が、夕陽の中に滲んで消えていった。
第5話 世界を継ぐ者
夏が過ぎ、秋が来た。
蝉の声が遠ざかり、金木犀の香りが風に乗って流れてくる。
季節の中で時間だけが進んでいくのに、僕の中では、まだ放課後の図書室が続いていた。
綾がいなくなって、半年。
机の上には、彼女のノートと、僕が書き足した数十枚の原稿用紙。
見開きの中央には、かつて彼女が書いたあの言葉が残っている。
世界の設計図
ページをめくるたびに、彼女の笑い声がよみがえる。
鉛筆を走らせる音、風にめくれるページの音、そして、沈黙のあいだに漂う呼吸。
全部、僕の中でまだ生きていた。
***
学校を卒業したあとも、僕は毎日ここに通った。
司書の先生が言った。「ここは君の居場所だからね」と。
僕はただ、机に座って言葉を書き続けた。
綾の“続きを”書くことが、僕に残された唯一の祈りだった。
書いていると、不思議なことに気づく。
彼女の文体が、少しずつ僕の手に馴染んでいく。
文のリズムも、言葉の選び方も、もう区別がつかない。
どこまでが彼女で、どこからが僕なのか、もう誰にもわからなかった。
でもそれでよかった。
きっと物語は、誰のものでもないのだから。
***
十月。
図書室の窓から見える空は、茜色に染まっていた。
夕陽が本棚の隙間を抜けて、机の上のノートを照らす。
その光が、まるで“彼女の帰り道”のように感じられた。
僕は一枚の原稿を手に取る。
それは綾が最後に書いた物語――『放課後の図書室で、僕らは世界を作った』。
彼女の文字は、途中で途切れていた。
だから、神様は――
その先が、白紙のままだった。
僕は鉛筆を握り、そっと書き継いだ。
だから、神様はふたりいた。
世界を作ったのは、君と僕だった。
そしてその世界は、いまもどこかで息をしている。
書き終えた瞬間、風が吹き抜けた。
窓が少しだけ開いて、カーテンが揺れた。
金木犀の香りが、秋の光といっしょに流れ込んできた。
机の上のノートが、一人でにページをめくる。
その音が、まるで彼女の笑い声のように聞こえた。
***
その冬、僕は一つの決意をした。
綾が果たせなかった続きを――世に出す。
タイトルは、彼女のままにした。
『放課後の図書室で、僕らは世界を作った』
編集者に送るメールの最後に、僕はこう書いた。
この物語は、二人で書きました。
彼女の名前は綾。
彼女はもういません。
でも、彼女の“世界”は、今もここにあります。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で何かが解けた。
長く凍っていた季節が、やっと春を迎えるような感覚だった。
***
数か月後、書店の棚にその本が並んだ。
表紙には、かつて彼女が描いた設計図のようなイラスト――図書室の窓と、二つの影。
帯には、編集者のコメントが添えられていた。
「世界を継ぐ者たちへ――」
手に取った瞬間、涙があふれた。
読者のレビューには「友情に泣いた」「静かに心をえぐる」と書かれていた。
僕は、何も言わなかった。
ただ、彼女と一緒に“世界”を作り続けたことを、胸の中で確かめた。
***
放課後の図書室に戻る。
窓の外では、春の花びらが風に舞っていた。
机の上には、一冊のノートと、一本の鉛筆。
誰もいないはずなのに、もう一つの椅子が、わずかに動いた気がした。
ページを開くと、最後の行に知らない文字があった。
おかえり。
その筆跡は、たしかに綾のものだった。
僕はそっと笑い、鉛筆を取った。
「ただいま。――続き、書こうか」
ノートの上で鉛筆が走る。
夕陽が差し込み、机の上の影が二つ並んだ。
放課後の図書室は、再び“世界”の中心になった。
放課後の図書室で、僕らは世界を作った。
そして今も、作り続けている。
終章 夕陽のページ
窓の外、茜色の空に一羽の鳥が飛んでいく。
ページの上に光が落ちて、言葉たちはやさしく眠る。
僕はノートを閉じ、指先を胸に当てた。
もう、あの寂しさは痛くない。
綾の声は、風の音と同じ場所にある。
世界はまだ、書きかけのままだ。
放課後の図書室には、今日も夕陽が降る。
そしてその光の中で、僕らはまた――
世界を作り始める。