Episode.04 踏み越えた境界
「俺と体格は違うが、悪くねえな」
師匠は歩を進めながら、時折、廊下の曲がり角や扉の前で立ち止まり、何の前触れもなく進路を変える。
まるで見えない何かの位置を測っているかのような、目的の見えない動きだった。
『師匠、どうかされましたか?』
顎に手を添えたまま、師匠は再び足を止め、小さく鼻を鳴らして呟いた。
「視線を感じるな」
言葉とは思えぬほど低く、鼻先で嗅ぎ取ったような声音だった。
『……え?』
「崇真、少し走るぜ」
言うが早いか、足音を鳴らして駆け出す。
「崇真、テメェ何かしやがったのか?」
『どういう意味ですか?』
「俺のあとをついてきやがる。足音からして……」
一拍置いてから師匠が笑いながら答えた。
「ありゃあ人間じゃねえな」
『人間じゃない?』
「走って追いかけてやがるのに、足音がしねえ。間違いねえ、異形だな」
崇真の思考が追いつかず、声を失った。
「崇真、予定変更だ。気が散るから少し静かにしてくれよ」
師匠は突然立ち止まり、重たく腰を落とした。
左腰の柄へと指が添えられ、静かに息を吐く。
一拍の沈黙──空気が張り詰める。
次の瞬間、獣のような動きで身を翻し、閃光のような一閃が走った。
男の顔に切り傷が走り、のけ反りながらも即座に距離を取る。
師匠が口角を吊り上げた。
「今の一撃で死なねえのか」
切っ先を男へ向けた。
「崇真、アイツの顔を見ろ。血が出てねえ」
相手は顔を覆った手の隙間から覗き込んでくる。感情が読み取れぬ、貼りついたような無表情。
表情らしき動きはある。だがそれは、空っぽの模倣にすぎず、人間の感情をただなぞっているだけだった。
瞳は動いているのに、そこに「目線」がなかった。
人間の皮膚に酷似していながら、どこか蝋細工じみている。
――師匠の言う通り、あれは人間ではない。
なのに、肌も目も、手の形すらも──自分とほとんど変わらない。
それが、恐ろしかった。
師匠が小さく息を吐いた。
「で、俺に何か用か?」
しかし、男は答えようとしない。
「おいおい、だんまりかよ。寂しいじゃねえか」
その目が鋭く細められた。
師匠は呼吸を整え、短い歩幅で距離を詰め、刀を振り上げる。
大きく踏み込み、相手へと斬りかかる。男は一歩退いた。
「――はあっ!」
さらに踏み込み、刀を横に振る。
刃が肉を裂く重い感触──確かに手応えがあった。
だがその直後、師匠の体が小さく跳ねる。
何かに気付いたかのように、反射的に飛び退いた。
左手を焼かれるような激痛が走る。
「崇真、すまねえ」
視界の端で、布が裂け、皮膚の下にあるものまで露わになるのが見えた。
赤い線が浮かび、そこから血が滲み、垂れ落ちた。
それは、自分の左手──
『師匠、私の左手に何が起きたのですかっ!』
崇真は、自分の手に何が起きているのか理解できずにいた。
痛みは、ある──だが、それ以上に、何かが違っていた。
「……そういうことか。崇真、少しの間、辛抱してくれ。すぐに片付けてやる」
刀を左下に構え、腰を落とす。目を閉じると、呼吸がかすかに乱れた。
張りつめた空気の中、一拍の静寂──そして、わずかに息を吐く。
次の瞬間、そのままひるがえり、誰もいない空間に斬りかかる。
だが、そこには誰もいない──はずだった。
沈黙の中に、不意に声が落ちてきた。
「くっ……引き際じゃな」
誰もいないはずの空間から、荒い息遣いと苦しそうな老人の声がした。
「主から授かった力が馴染んだとき、わしが小僧に引導をくれてやろう」
不気味な笑い声が木霊し、やがて静寂が満ちた。
音が消えたあと、しばらくのあいだ時間が止まっていたように感じられた。
「すぐに医務室に行きてえところだが、戒将が来やがったか」
廊下の各所から足音が迫る。
師匠は戒将たちに取り囲まれ、戦武を向けられた。
女の戒将がひとり、目を細める。
「戦武を――」
「馬鹿野郎! この怪我が見えねえのか!」
「――ただちに医務室へ。取調べは、治療後に実施します」
道が開かれ、師匠は納刀して駆け出す。
「崇真、医務室まで辛抱しろ」
『はい……戦将になったときに、こうなることは覚悟していました……。それが……少し早まっただけです……』
崇真は恐怖を押し殺すように、心を落ち着けながら言葉を選んだ。
強がりではあるが、後遺症さえ残らなければ──
医務室での治療により、回復には二週間を要するとのことだった。
後遺症は残らないと聞き、崇真は胸を撫で下ろした。
それでも、あの痛みの感触だけは、まだ左手に残っていた。
そして崇真は気付いていた。これは、ただの痛みではない。
戦将として、踏み越えてはならぬものを踏んでしまった実感だった。