入院中
夜の冷気が、頬を撫でた。
マンションの外で待っていたのは、ヘッドライトを落としたままの黒いセダン。本郷の私用車だ。後部座席のドアが静かに開き、樹はそこに滑り込んだ。
「解析は?」
本郷が運転席から声を落として訊く。
「葵がやってくれてる。相当やばい内容みたい。暗号は二重、しかもパスつきの映像ファイルがあるらしい」
「なるほどな。おそらく――いや、確実に向後が残したものだ」
「橘に聞き出すしかない」
「あいつが正気なら、の話だ」
車がゆっくりと動き出す。車内は静まり返っていた。
樹はちらりとスマホを確認する。病院側からの通信は一切届かない。ノイズのようなデータばかりが並ぶ画面に、唇を噛んだ。
「……ねぇ、本郷さん。なんで私に、任務を任せたの?」
唐突な問いに、本郷はバックミラー越しに少し笑った。
「お前が、やるって言ったからだ。俺が命令した覚えはない」
「……ずるい言い方する」
「お前が正義感で動くやつだってのは分かってる。だが今のお前は、正義感だけじゃない」
「え?」
「USBを橘から受け取ったとき、あいつに“死ぬな”って言ったらしいな」
「……それ、聞いてたの?」
「お前の声、マイク越しでもはっきりしてる。少し震えてた」
本郷の言葉に、樹は少しだけ顔を背けた。
セダンはゆっくりと病院の近くの裏通りへと入り込む。建物の外周には、複数の黒い車両が停まっているのが見えた。
不自然なタイミングでヘッドライトを点け、すぐ消す一台。
明らかに「こちらに気づいている」合図だ。
「こっちも、完全に監視されてるな……」
「病院の中にも“味方じゃない”職員がいる。注意しろ。お前が橘のところに行く間、俺たちは外側からかき回す」
「俺たち?」
「東野を呼んだ」
「東野さんですか?今はどこに?」
「正面入口で“暴れて”るよ。警察車両を呼び出した上で、不審な車のナンバー全部記録中。連中が慌ててる様子が面白いくらいにわかる」
本郷が不敵に笑う。だが、車内の空気はどこか張り詰めたままだった。
病院は、灯りがついているくせに、不自然な静けさに包まれていた。
まるで“見せかけの安全地帯”。
「……入る」
「気をつけろ。刺客は一人とは限らない」
「了解」
ドアが開き、冷たい空気が流れ込んだ。
樹はフードを被り、バッグに忍ばせた小型スタンガンと拳銃の存在を確認する。
背後から、本郷の短い言葉が飛んできた。
「――死ぬなよ、樹」
「……それ、今の流行り文句なんですかね」
そして、樹は夜の闇へと溶けていった。