事後
空は暗くなり事故の事後処理も終わり、静かな時間が戻ってきた中、ビルの非常階段に腰掛けて、缶コーヒーを口に運ぶ。
ぬるくなった缶から金属の匂いがした。
東京の雑踏は、昼でも夜でもせわしない。だが、この小さな交番の横にある裏路地だけは、どこか切り取られたように静かだった。
樹は制服の胸元を軽くはだけて、深く息を吐いた。
(刑事なのに交番勤務――と、他の連中は思ってるんだろうな)
そう思いながら、樹は数週間前のやりとりを思い出す。
──警察署・第一捜査課の会議室。
本郷は、新聞を丸めながら言った。
「この件、上にはまだ話すな」
「え?」
「正式な捜査ではない。……いや、“できない”。行方不明事件の線で情報は出すが、裏にあるものが大きすぎる。表沙汰にした瞬間、握り潰される可能性がある」
その言葉に、樹は眉をひそめた。
「じゃあ……私たちは、独自に?」
「そうだ。署の一部に根回しはしてある。が、捜査課のバッジをつけて動くと、妙な目を引く。……そこでだ」
そう言って、本郷は机の引き出しから、折りたたんだ書類を取り出した。
人事異動申請書。
「“一時的に交番勤務に戻れ”。理由は“地域密着型の現場再教育”。だが、実質は潜入捜査だ。……この事件、普通の刑事じゃ追えねえ。表の動きじゃ絶対にたどり着けない」
樹は無言でその紙を見つめた。
「異動という形にしておけば、連中に気づかれにくい。警察内部にも“向こう側の人間”がいる可能性がある。交番からなら、こっそり動ける。……俺のサポートもする」
樹は、少しだけ迷った。
刑事になったのは正義感ではなく、必要とされたかったから。
でも今、自分の目の前にあるのは、誰も必要としていない“面倒な闇”だった。
「……わかりました。やります。制服、また着ます」
本郷はうなずき、どこか皮肉げに笑った。
「いい返事だ。今度は“警官の顔”より、“住民の顔”をよく見るんだ。こっちの方が、真実に近いことがある」
その日から、樹は小さな交番に“配置転換”された。
形式的には“新人指導を受ける側”という名目だったが、実際には失踪者が現れる可能性のあるエリアの巡回、住民との対話、非公式な情報収集――つまり、偽装された潜入捜査だった。
ペンとメモ帳。
信号無視の自転車を注意しながら、近所の高齢者と他愛もない会話を交わす日々。
だがその裏で、樹は静かに「不自然な空白」を拾っていた。
──突然引っ越した若者。
──郵便物を取りに来なくなったワンルームの住人。
──誰も見たことがないのに、夜中だけ電気がつく部屋。
(“ただの失踪”なら、こんな空気は残らない)
樹は缶を飲み干して立ち上がった。
制服の上から、わずかに目立たないピンマイクの位置を確かめる。
(ここからが、捜査本番)
人混みの中に溶け込みながら、彼女は今日も“刑事ではない顔”で現場に降りていく。