回想
午後6時
春の入り口にさしかかった東京の空はまだ明るく、警察署の上層階から見える街並みには、灰色のビルと白い街灯が点々と灯っていた。
会議室のガラス窓に反射しているのは、机の上に散らばる書類と、真剣な顔をした男の横顔。
本郷刑事。
樹の直属の先輩であり、署内でも「頑固でクセが強い」と知られる人物だったが、誰よりも現場を知る人間だった。
「……行方不明、ですか?」
差し出された資料の束に目を落としながら、樹は問い返した。
そこには、五人の若者の顔写真と、彼らが失踪した日付、最後に確認された行動などが簡潔にまとめられていた。
樹はそれぞれの写真に、思わず目を留めた。
色白の大学生。派手な化粧のフリーター。細身の男の美容師見習い。共通点は年齢だけ――と思いきや、何か引っかかる。
「年齢は近いけど、職業もバラバラですね。……でも、みんな“消える直前に何かを捨ててる”」
「捨ててる?」
本郷が眼鏡の奥で目を細める。
「大学を中退、アルバイトを辞める、SNSのアカウントを削除……この人なんかは引っ越しの手続きをしたのに住んでない。まるで……準備をしてたみたいな」
「そのとおりだ」
本郷は、重たく頷いた。
「だが、家族や知人には何も言っていない。突然、痕跡を消すようにして姿を消した。しかも、全員が最後に通信した相手が“不明”なんだ」
「GPSも……?」
「例の特殊なSIM経由で、ログが消されている。痕跡は完全に抹消されていた。まるで、存在自体を“誰かが消そうとした”みたいにな」
樹は無意識に背筋を伸ばした。
普通の家出やトラブルとは違う、確かに“意図的な力”を感じる。
本郷が机の端から、さらに一枚の写真を差し出した。
色褪せた集合写真。見覚えのない若者たちが笑っている中に――一人、背の高い男性がいた。
「この男が“向後”だ」
「向後……どこかで聞いたことが……」
「警察には記録がない。だが、十年前、似たような“集団失踪事件”がいくつか報告されていてな。その中の証言にこの男の存在が頻繁に出てくる。“若者を集めている奇妙な男がいた”ってな」
「……それって、宗教とか、カルトとか?」
「そう言い切れれば話は早いが……こいつは違う。思想や信仰じゃなく、“生き方の提案”だったらしい。仕事を辞めさせ、家族を捨てさせ、別の場所へ連れていく。しかも強制ではなく、自発的に」
樹はぞっとした。
見知らぬ誰かに人生を委ね、すべてを放棄する若者たち――そんな存在が実在するのか?
「まるで、何かに“引き込まれる”みたいに……」
「その“何か”を見つけるのが、俺らの仕事だ。樹、この件……お前に担当させたい」
「……私に、ですか?」
本郷は椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。
「お前、あの中目黒の事件、被害者の妹に直接寄り添って話を聞いてたな。“記録に残らない痛みを拾うのが捜査官だ”とか言って」
樹は思わず、うつむいた。
そんなこと、言っただろうか。
「こういう“表に出ない事件”には、そういう感覚が必要だ。……自分の仕事が誰かの人生の境目に立っているって、ちゃんと理解できる人間にしかできない」
「……やります。やらせてください」
その言葉を口にした瞬間、なぜか胸の奥に、軽いざらつきが残った。
ほんの小石のような不安。
それはこの先、いくつも山のように積み上がっていくものになるとは、まだ知る由もなかった。