救急車
橘が担架に乗せられ、救急隊員の「搬送します!」という声とともに車両の扉が閉まる。
樹はその場に立ち尽くしていた。
心臓の鼓動が、まだ早鐘のように鳴っている。
(今の……あの黒い車。あれはただの野次馬じゃない。見張ってた。橘の“状態”を……)
わずかな違和感。
橘の上着――左の内ポケットが、妙に膨らんでいた。
搬送直前、無意識にその部分に目が行った。
不自然なふくらみ。バイク事故で擦ったにしては、破れていない。
何かが――入っていた。
(確認するしかない)
樹は救急車の脇へ駆け寄り、扉が閉じる直前に隊員に声をかけた。
「すみません、この患者、身元確認が必要です。持ち物を一時確認させてください!」
「……急ぎでお願いしますよ。状態、かなり危ないですから」
隊員の一人が渋々うなずき、担架の周囲を広げてくれる。
橘の左胸ポケットに指を入れると――指先に固いものが触れた。
(……これ、USB?)
引き抜くと、それは傷だらけの黒いUSBメモリだった。
ロゴも印字もなく、まるで“無名”の存在のように無機質なそれは、逆に目立っていた。
「持ち物として記録します。こちらで預かります」
メモと写真を撮り、証拠品用の封筒に入れる。
だが、胸の奥では冷たい予感が渦巻いていた。
(こんなもの……なんでこんなものを“命懸け”で持ち歩いてるの)
橘の唇が、わずかに震えた。
「っ、く……か……え……せ……そいつは……」
目を開けずに、掠れた声が漏れる。
それは夢うつつの叫びにも似ていた。
「返せ……やつらに……渡すな……おれを殺しに……」
樹は思わず手に力を込めた。
(橘は、誰かにこれを狙われてる。今も、たぶん――)
救急車のサイレンが再び鳴り、発進していく。
その背中を見送りながら、樹はポケットの中のUSBを握りしめた。
この中に、何があるのか。
なぜ、向後はこれを託したのか。
そして――
なぜ、橘はそれを「死んでも守ろうとした」のか。
(これはもう、ただの“失踪事件”じゃない)
ほんの数時間前まで、日常の延長だった世界が、明確に“別の階層”へと沈み込み始めていた。