交通事故
彼の名は、橘。
そして彼のポケットには――“世界を変える”鍵が、忍ばせてあった。
交信が入ったのは午前九時二十四分。
「駅西口の交差点付近でバイク事故。出血あり、救急要請中」との第一報。
樹はすぐさま無線に応答し、パトカーに乗り込んだ。
ハンドルを握るのは同僚の巡査ではなく、本郷から直々に手配された運転手。
何か――“事前に”分かっていたかのように手配が済んでいた。
(事故じゃない……直感がそう言ってる)
現場に着いたとき、すでに人だかりができていた。
歩道に転がったバイク、破損したフロント、滴る鮮血。
若い男がうつ伏せで倒れ、ジャケットの背中がズタズタに裂けている。
「こいつが……」
樹は人波をかき分けてしゃがみ込み、男の顔を確認した。
写真でしか見たことのなかった“橘”――間違いない。
「意識は……っ、薄い……!」
頬を軽く叩いて呼びかけると、男はうめくように微かに目を開けた。
目は充血し、口元には血が滲んでいる。
「う……あ……」
「大丈夫。もうすぐ救急が来るから」
樹がそう告げたときだった。
後方――交差点を挟んだ向こうの路地に、一台の黒いワゴン車が止まっているのが見えた。
ナンバーは泥で半分隠れ、窓はスモーク。
異様だったのは、救急車が来る音にも動じず、誰一人として降りる様子がないこと。
(……おかしい)
交通事故現場なら普通、何らかの関係者か野次馬なら出てきて確認する。
だがその車は、ただ“見ている”。まるで、確認しているかのように――
「本郷さん、こちら現場。負傷者の身元、恐らく橘。現場に不審車両あり、黒のワゴン。交差点西側、動きなし」
無線越しに、本郷の声が返る。
『すぐにナンバーを撮影しろ。無理なら目視で。奴らかもしれない』
「了解。……あっ」
パッ。
黒いワゴンのライトが一瞬点き、次の瞬間――急発進した。
樹は思わず立ち上がって追いかけるが、群衆の向こう側、狭い通りへと車は消えていった。
(逃げた……! やっぱり、“こいつら”だ)
その直後、橘の体がガクッと震えた。
「っ……脈、乱れてる!」
すぐに救急隊員が到着し、橘は担架に乗せられた。
だが、樹の脳裏にはワゴン車の暗いガラス越しに感じた“視線”が焼きついていた。
「これは……“始まってる”」
ぼそりと呟く。
まるで、自分の知らない劇が、すでに何幕も進んでいたかのような感覚だった。