中庭
ここからは樹と葵の大学生時代のお話です。
本編は一旦休憩です。
夕方、研究棟の片隅。薄暗い教室の一室で、ノートPCの光だけが葵の顔を照らしていた。無数のコードがスクロールする中、彼女の目は画面に釘付けになっている。
「また一人で残ってるの、葵」
背後から声をかけたのは、少し汗をにじませたシャツ姿の女子学生——樹だった。
「……うるさい」
葵はそっけなく返しながらも、手は止まっていた。
「ここのWi-Fi、セキュリティ穴があるって言ってたよな。ほんとに見つけたの?」
「確認してただけ。触ってはない」
「……それで、誰かにチクられたのか?」
葵は無言のまま、うっすらと頷いた。
数日前、研究室のネットワークに“無断でアクセスした”と疑われ、指導教官に強く叱責されたばかりだった。
「別に悪いことしようとしたわけじゃないのに……」
葵は、机に顔を伏せるようにして小さく呟いた。
「分かってるよ。アンタのこと、私は信じてる」
その言葉に、葵は顔を少し上げた。目には薄い驚きが浮かんでいた。
「他のやつらは、すぐ“変人”とか言うけど……私は違う。アンタの頭の回転、プログラムの理解、どれも本物だって分かってるから」
沈黙。だが、葵の目からはわずかに緊張が緩んでいた。
「……ありがと。でも、もうやめる。研究も、全部」
「なんでだよ」
「この世界にいたら、また誰かを傷つける。私は“人間”のこと、ちゃんと分かってないんだと思う。コードの方が、まだマシ」
そのときの葵の声は、どこか機械のようだった。
「だったら、私が“人間”教えてやるよ」
樹はにっこりと笑った。
「……バカじゃないの」
「うん、バカだよ。でも、アンタのバグくらいなら、一緒に直していける」
その日から、葵は樹にだけは心を開くようになった。
けれど、事件はその数ヶ月後に起こる。
研究室の端末がハッキングされた。
誰かが葵の“手法”を模倣し、違法アクセスを試みたのだ。疑いはまた葵に向いた。