退院は早すぎた
車は街の裏通りを縫うように走り、やがて人の気配のない古びた雑居ビルの地下駐車場に滑り込んだ。ここは、かつて学生運動の組織が使用していた隠し拠点のひとつ――今はほとんど使われていないが、本郷が非常時のために確保していた。
車のエンジンが止まると、冷たい静けさが戻ってくる。
「搬入終了。入口には見張りをつけた。ここなら、しばらくは追いつかれんだろう」
本郷が車から降りて周囲を確認する。
樹は橘を抱え、建物内部へと急ぐ。階段を下りた先の、埃っぽい診察室跡のような部屋。簡易ベッドと医療器具だけは、最近補充された形跡があった。
――橘の呼吸は浅いまま。毒物の成分はいまだ不明だが、少なくとも急速に進行しているわけではない。
「……間に合った、よね……?」
樹がつぶやくと、入口近くのドアがギィと音を立てて開いた。
「そいつは、あんたたちが間に合わせたんだよ。ギリッギリでね」
現れたのは、フード付きパーカーにジャージ姿の女性――葵だった。手にはノートPCと、コンビニ袋。例によって目の下にはくまがあり、髪は乱れ、眠そうな目であくびをしながら近づいてくる。
「一応、牛丼はありがたく受け取ったよ。生卵トッピングもね。で、USBの件。もうすぐ中身が全部見れると思う」
そう言いながら、葵は片膝をついてPCを立ち上げ、外付けドライブからUSBの解析を続け始めた。画面には複雑なフォルダツリーと、暗号化解除の進捗バーが表示されている。
「思ってた以上に、手が込んでる。ただの裏帳簿ってだけじゃないな。……隠しフォルダの奥に、圧縮された映像データとPDFファイルがある」
映像?」
「うん。監視カメラか、内部記録っぽいの。このサイズ……録画時間、長いかもね」
本郷が横から覗き込む。
「向後が持っていたというのは、この映像か……?」
「かもしれない。でも、再生できる形式じゃないから、専用のソフトか暗号鍵がいる。抜かりないっていうか……まあ、プロの仕業っぽいって感じ?」
「橘は、その鍵を知ってると思うか?」
葵はちらりと橘の方を見た。
「……さあね。でも、このUSBには一つだけ、ちょっと気になる“署名データ”が入ってる。暗号解除の一部に“BIO-HOST-1”ってタグがあるの」
「バイオ……ホスト?」
樹が眉をひそめる。
「生体認証ってことよ。それも、恐らく“持ち主の体内”でしか解除できない類のやつ。……まさか、と思うけど」
沈黙が走る。橘の体が、その“鍵”である可能性。
「もし、橘が死んだら――このデータは、開かない」
部屋の温度が下がったような気がした。
そのとき、橘がかすかにうめいた。
「……み、ず……」
樹がすぐに傍に駆け寄り、用意された水のボトルを手に取った。
「橘、聞こえる? あなた、USBのデータの“鍵”にされてるかもしれないの。なにか、覚えてることない?」
橘は微かに目を開けた。焦点の合わない瞳で、天井を見つめながら、かすれた声でつぶやいた。
「……向後が……最後に……“中のコードは、俺の中にある”って、言ってた……」
その言葉に、部屋の全員が顔を見合わせる。
“コードは、俺の中にある”
USBの中に、向後の秘密、国家レベルの闇を暴く“鍵”が眠っている。そしてそれは、もうこの世にいない男の「身体」か、彼に繋がる「誰か」が持つ唯一のパスワード――。