早期退院
樹は橘の額をタオルで拭いながら、改めて病室を見渡した。敵は窓から逃げたが、再侵入の可能性もある。ナースコールも反応しない今、この病院全体が「敵の陣地」になりつつある。
(このままじゃ……橘は殺される)
肩にかけた無線機から再び本郷の声が入った。
『樹、聞こえるか。東野が病院裏手の搬入口に回っている。合図があれば突入可能だ』
「了解、でも――搬入口は敵に包囲されてる可能性が高いです」
『その通り。だからこっちで囮を動かす。お前は橘を連れて脱出しろ』
「……あの状態の橘を、どうやって……」
返答はない。代わりに、本郷の冷静な声が届いた。
『やるしかない。あいつの命と、真実がかかってるんだ』
樹は息を整え、ベッド脇のストレッチャーを引き寄せた。点滴スタンドごと外し、橘を慎重に横たえる。簡易の酸素マスクと血圧計はそのまま持ち運びできるように固定した。
「……いい? 橘。あんたが死んだら、全部終わりなんだからね」
その言葉に答える者はなかったが、橘の指先がわずかに動いた。
(分かってる……まだ、生きるつもりなんだ)
樹は病室を出て、慎重に廊下を進み始める。銃を片手に、ストレッチャーを押しながら。廊下の照明は間引かれ、ところどころが暗がりになっていた。
曲がり角で立ち止まった瞬間、遠くで足音がした。複数。重く、規則的な靴音。
(……誰かがこっちに来てる)
スマホに手を伸ばそうとしたが、同時にドアの先からノイズ混じりの音が鳴った。
『……東野だ。搬入口、もうすぐ正面の警備が動く。あと――40秒で陽動開始』
(間に合う……けど、ここを突破するには――)
樹は迷いを断ち切るように、近くの清掃用クローゼットの扉を開いた。中に消毒液やモップが詰め込まれている。
数秒後、通路を警備服を着た二人組の男たちが通りかかる。
その背後から、音もなく樹が飛び出した。
「邪魔、するなって言ったでしょ!」
手に持ったスタンガンを、背後から一人に叩きつける。電流が走り、男が崩れ落ちた。もう一人が振り返るが、拳銃の銃口が目の前に突きつけられた。
「動かないで。撃ちたくないけど、撃てるから」
男は身動きを止め、無言で手を挙げた。
樹はさっとストレッチャーを押し、倒れた男の身なりからセキュリティIDを抜き取る。そのまま搬送エリアへ向かって走り出した。
――搬入口の先に、かすかな人影。東野が小さなライトを手に持ち、目配せを送っていた。
「こっちだ、急げ!」
重い自動ドアが開いた。そこに待機していたのは、別動班の覆面車両。後部座席がすでに開いている。
「乗れ!」
樹はストレッチャーを折りたたみ、橘を抱きかかえるようにして車内へ押し込んだ。
乗り込んだ瞬間、背後で銃声。追っ手が再び病院内に現れたようだった。
「出せ!」
東野の号令で、車が急発進。タイヤがきしみ、病院の裏通路を抜けていく。
――夜の闇が、彼女たちを包んだ。