侵入
病院の裏口。鍵は開いていた。
中に入ると、薄暗い廊下に漂うのは消毒薬の匂い。
だが、どこかが違っている。普段の病院なら聞こえるはずのナースステーションの話し声も、誰かの足音もない。
まるで、人の気配だけがくり抜かれた空間。
照明は落とされていない。だが、蛍光灯の光がやけに白々しく、廊下に影を浮かび上がらせている。音を立てないように、樹は足音を殺して進む。
そのとき――
「……あれ? 巡回の方ですか?」
ナース服を着た女が角から現れた。
だが、その目に驚きも動揺もない。不自然なまでに冷静だ。
樹は反射的に警察手帳を取り出した。
「警察の者です。入院患者の橘について確認があります」
女の目が、一瞬だけ泳ぐ。
それを見逃さず、樹は身構える。
「この階は立ち入り制限中ですよ。時間をあらためて来てください――」
そのとき、背後の廊下で“カツン”という靴音。
そして、誰かの影がスッと柱の裏に消えた。
(……バレてる)
樹は、咄嗟にナースを押しのけ、階段へと駆け出した。
この先に橘の病室がある。彼が今も生きている保証は、どこにもなかった――。
階段を駆け上がりながら、樹は呼吸を整えた。だが立ち止まってはいけない。
もう一度、拳銃に触れる。安全装置は外した。廊下の角を曲がると、病室のドアが視界に入った――が。
(開いてる……!)
病室のドアが、ほんのわずかに開いていた。薄暗い室内からは人の気配が感じ取れない。
樹は壁に背中をつけて静かに近づき、耳を澄ませた。
……何か、掴んでいる音。
椅子を引くような、きしむ音。
一拍。二拍。
樹は一気にドアを蹴り開け、拳銃を構えて突入した。
「動かないで!」
中にいたのは――黒フードの男。
背後から誰かと通信している様子で、耳にピース型のイヤホンを装着していた。
「――チッ、邪魔が来たか」
男は小さく舌打ちし、なめらかに動いて窓際に下がる。
樹は銃口をぶらさず、そのままじりじりと近づく。
橘は――ベッドに倒れ込んだまま、意識が混濁していた。額には冷や汗、口元は紫がかっている。
「これ以上動いたら、撃つ」
「……俺を撃てば、こいつはそのままだぞ。医療処置も間に合わなくなる何もできなくなる、それでもいいのか」
「その状態はすでにあんたらが作ったもんでしょ。責任は取ってもらう」
「へえ。女刑事ってのは、こんなに口が悪かったか?」
男は挑発するように口元を吊り上げた。その瞬間、ポケットの中に手を差し入れる――
「動くなって言ったでしょ!」
銃声が一発、部屋に鳴り響いた。
床に弾が跳ね、男の足元に火花が散る。
「ちっ、撃つのかよ!」
男はバックステップで窓にぶつかると、次の瞬間、壁の通気口カバーを素早く外した。あらかじめ仕込まれていたらしいロープと器具を取り出すと、腰を巻きつけるようにして脱出態勢を整える。
「警察にしてはやるじゃねぇか。……ま、こっちは別ルートで始末するだけだ」
そう言って、男は闇へと溶けるようにロープで降下を始めた。
樹は追いかけようと窓に近づいたが、すぐに橘のうめき声に振り返る。
「……おま、え……? きた……の、か……」
橘の声はかすれていた。冷たい汗にまみれた顔に、かすかな笑み。
「すぐに助ける、死ぬな」
樹はすぐさまナースコールを押す――が、反応はない。通信は遮断されている。 代わりに、ポケットからスマホを取り出し、本郷へ連絡を試みた。
「こちら樹、橘はまだ生きてる。刺客は逃走、病室の通信は遮断継続中。処置が必要、至急救急車を!」
ノイズ混じりの返答が、かろうじて届いた。
『了解……そっちに……東野を……回す、時間稼げ……』
「了解!」
樹は橘の脈を取りながら、彼の目を見据える。
「橘、あんたが助かれば、真実は表に出せる。あんたの知ってること、全部……聞かせて」
橘はうなずく代わりに、微かに唇を動かす。
「……USB……だけじゃ……ない……データ、は……地下……」
その言葉を最後に、橘は再び意識を失った。