第九話 もう一つだけ、灯せ
ククリがおぼつかない足取りで二、三歩よろめくと、口から粘り気のある赤い液体の塊を吐き出す。もう限界が――。
「ククリッ、待ってて。今――」
今、治してあげる。慌てて振り向きながらもそう言って――いや、言おうとした、のだが。
「……ぁ、ぁははははははッ」
慌てて駆け出そうとする私の背後で、痙攣にしか聞こえない笑い声が聞こえ、ほんの一瞬、足が止まってしまった。その一瞬が、あまりにも迂闊だった。
「危ないッ!」
ぐん、と身体が手前に引っ張られる。視界の端で、さっきまで私が立っていた地面が火柱に包まれているのが分かった。そのままククリの足元まで引っ張られると、どさりと乱暴に着地させられる。
「ククリごめ、ん……。」
そう言って顔を上げて、私は息を呑んだ。ククリは、目と鼻と口から血を流し、足元で蹲る私など視界に入らないかのように、胡乱な目で白衣の少女を睨んでいた。実際もはや私に目線を向けるほどの余裕がないのだろう。その壮絶さと自らの不甲斐なさに声が上手く出せなくなり、続けようとしていた謝罪の言葉は出てくることはなかった。
「本当に……油断しすぎ……貴女が死んだら……。チッ…………ムカつく。」
そう吐き捨てた彼女の眉がピクリと動くと、地面に打ち捨てられていた真っ白な塊がうごめいた。
「だ、だめだよ、殺すつもりでやらなきゃ」
不自然な角度に曲がった腕をそれが当然であるかのように使って少女はのそりと起き上がった。さっきまで光のなかった瞳はギラギラと輝いている。胴体にばかりダメージを受けていたであろうことを考えると、身体の中身は腕よりもひどいことになっているだろう。しかし少女はまるでそれを感じさせない立ち方である。
「ほんとに……人間なのかどうか……怪しくなってきたわね。」
「ば、化け物扱いしないで欲しいなぁ。普通に人間なんだけど……」
「殺すつもりでやったんだけど――普通の人間ならそんな状態で立ち上がれないわよ?」
一見余裕そうに皮肉を言っているが、ククリも同じく立っているだけで精一杯、といった様子だった。肩を上下させ、脚は震えている。両手の指が力なく垂れ下がっているところを見ると、もはや握りこぶしを作るのでさえ苦痛なのかもしれない。
「体の丈夫さは生まれつきじゃないけどね……き、鍛えたしさ。こ、こんな能力だから余計にね」
メメは言いながら骨折しているであろう肘を反対の掌で弄んだ。
「……炎の能力と丈夫さに関係が?」
「う、うん。だって私の能力『燐寸令嬢』は自分が不利になればなるほど強くなる、『不幸を燃やす能力』だから」
そう言ってメメはわずかに口の端を持ち上げる。その穏やかな表情は一見して、今まさに人を殺そうとしているのだということを感じさせないものだった。あまりに現実味のない表情に一瞬眩暈がする。
「じゃあ……男どもに絡まれてたのも?」
「そう、適当に痛めつけてもらおうかなって思ってさ、ギルドの人がパトロールするときの道順は大体把握してるから、待ち伏せて、ね。でもアイツら思ってたよりビビリでさあ、全然殴ってくれなかったよぉ」
もっとケガさせてくれてれば、あなた達なんて出合い頭にまとめて焼き殺せたんだけど――とメメは肩を小刻みに震わせながら言った。その表情は、笑っている。私たちが彼女を発見した時もそうだった。彼女は私たちに背を向けて……小さな肩を震わせて……あれは泣いてなんかいなかったんだ。
「それに、私は今……自分の能力のことも話した……からね」
他人に能力を明かすことは基本的にリスクのある行為だ。「自分はこういうことができて、こういうことをされると困ります」とカミングアウトするわけなのだから。つまりメメは自らそのリスクを負った――不幸を――リスクを燃やす能力……。
次の瞬間、炎が消えた。火球も壁もそこにはない。しかし熱気と、陽炎のような空気の歪みからそこに熱源が存在することを伺わせる。
「も、もう油断はしない。……『プロメテウス』」
「ッ――」
理解できなかった。炎を消した理由も、不敵に微笑むメメにも、歯を食いしばって眉間にシワを寄せるククリにも。
「どうして……火を消したの?」
「消したんじゃない……見えなくなったの」
腹立たしそうにククリが答え、理科の授業で習ったことがあるのを私は思い出す。炎は温度によって色が変わる。低温では赤い色に見えるが、温度が上がれば段々と青くなり、一定以上の温度の炎は、明るい場所では肉眼での視認が極めて困難になる。
もはや触れることすらできない。手のひらで触れなければ発動できない私の能力にとって、不可視であるということはこの上ないディスアドバンテージであった。
「これは……貴女でも、近づくのさえ無理そうね」
ククリは目を細めて呟いた。全身を走る激痛に顔をしかめているのか、打開策を逡巡しているのかは分からなかった。もっとも後になって思い返してみれば、それは苦悩や焦燥ではなく、単なる「不快」の表情に他ならないのだが。
「けど限界が近いのは向こうも同じ。ここが気合の入れどころ、ね」
そう言ってククリは両手の指先を合わせる。
「海」
バリアを張って身を守る……結論から言えば無意味な行動だ。どれだけ時間稼ぎをしたところで状況は好転しないし、能力を使えば使うほど消耗するのはこちらの方。おまけに「柩さんの命」という絶対的タイムリミットも存在する。どう考えたって姑息な行為のはずだった。
――ただしそれは「自分の身を守る」場合の話だが。ククリの作り出したバリアに包まれていたのは灯メメだ。
「と、閉じ込めた……つもり? こんな壁じゃ時間稼ぎにもならないと思うんだけど?」
メメはきょろきょろと周囲を見渡す。声色から察するに、虚栄ではなく本心からの言葉だろう。何をしているのか理解できない、という困惑すら感じられる。
「あ、あ、あんまりナメられるのも嫌いなんだけど……」
メメはそう言って火球をぶつけてバリアを壊そうとする。やっぱりこんなのじゃ3秒だって稼げない……。そう思ったのだが、いつまで経ってもバリアは割れなかった。火球はバリアに命中する直前で消滅したのだ。見えなくなったのかとも思ったが、バリアが無事であるところを見るにそうではないらしい。
メメは一瞬キョトンとした表情を浮かべるが、すぐに全身を硬直させ、ピクリとも動かなくなる。
「判断力は――良いのね、何も考えず深呼吸してくれれば楽だったのに」
何が起こって……?とククリにそこまで問いかけて気付いた。炎が燃えるには酸素が必要、密閉された空間の中で物を燃やし続けたら――。
「――初めて能力を使われたあの時。マッチが吹き飛ばされても炎は消えなかった。メメの能力は炎を操るだけでなく、炎の燃焼を維持する効果もある。普通の炎なら窒息死するまで密室内の酸素濃度が低下することはないけど、能力によって限界まで酸素を消費し続けた結果、今あのバリアの中には酸素は残されていない。それこそ火の粉一つとして維持できない、呼吸すらできないほどにね」
いかに炎を消すか、炎をかいくぐるか、そんなことしか考えていなかった。しかし炎が消せないのであれば、「そもそも火を点けられなくしてしまえばいい」のだ。残った体力を振り絞って作った貧弱なバリアでも、空気を密閉するには十分だった。
「さ、ぶっ倒れ――」
膝立ちになり、焦点の合わない目で虚空を眺めながらも、勝利を確信した声音でそう言いかけたククリの表情が固まる。目の前で起こっている現象が理解できない……「驚愕」の表情だった。
透明なバリアの中、逆酸素カプセルとでもいうべき空間に閉じ込められたメメは、笑っていた。ただの笑いではないことはついさっきの経験で分かっている。しかし、ただ笑っているだけではないとしても、意味のない行為のはずだった。現実問題としてもう火は点かないのだ。もう酸素はどこにもないのだ。
メメが溜息を吐く。傍目には敗北を自覚し諦めたようなその吐息は、しかし一般的な溜息とは違ってとても長いものだった。息を吐く、息を吐く……息を吐く。呼吸は酸素を取り込み二酸化炭素を排出する行為だ。だからと言って呼気に酸素が含まれていないわけではない。
元から薄かった胸がさらに薄くなったように感じられた。肺の空気を全て吐ききったかのようだった。彼女が最後に口にした言葉は、もはや声帯を震わせるだけの呼気を伴ってはいなかった。だから私は彼女の唇の動きからその言葉を推察したに過ぎない。
「『セントエルモ』」
すべての空気を吐き出した。そしてそれに着火した。バリアが割れなければ、炎が燃えつきてしまえば今度こそ、どこにも酸素は無い。確実な死が待っている。これ以上の「不幸」など、望むべくもなかった。人生で一度だけの、最大火力。
カチリと音がする。口腔奥で火花が弾け、口内を光が満たす。付近を漂うなけなしの酸素へと着火する。口の端から炎が漏れる。少女は炎を吐く。瞳孔が油の浮いたドブ水のようにギラギラと下品な虹色に光る。そして閃光が迸る。
そしてバリアが割れた。
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