第二十三話 羽化か孵化か
恥じらう少女の顔を見て私たちが安心できたのは、ほんの数秒のことだった。立夏と名乗った少女は、すぐにその顔から表情を消すと、伏し目がちに呟く。
「でもまぁ……私はもうすぐ死ぬよぅ」
「え?」
「いや、ごめんねぅ。あなたの言葉はとっても嬉しかったぅ……もうちょっと生きても良いかなって思えたぅ……」
「ならどうして――まさか」
言いかけて私は不意に思い出した。彼女のエピローグの副作用は……寿命を削ること。だとしたらもう残りの命が……。
しかしそんな見当違いな私の推理を先回りして、立夏は言葉を繋げた。
「いやぅ、大丈夫ぅ。まだ5分ぐらいしか経ってないしぅ。寿命じゃ死なないよぅ」
「だったらどうして死ぬなんて……」
私がそう問いかけると、少女は気まずそうな――まるで、次の駅で降りるのに座席を譲られてしまったときのような――表情で答える。
「どうして――って聞かれるとぅ、情報を漏らさないためなんだけどぅ。そういう契約なんだよねぅ……あぅ、これも言っちゃ駄目だったかなぅ? 別にもうすぐ死ぬんだから私はどうでもいいっちゃいいんだけどぅ、仲間にまで危害が及ぶかもしれないからぅ……」
「仲間……やっぱり集団での犯行なんだね、単独犯にしては用意が良すぎたから……前回も、今回も」
枢さんは、さして驚きもせずにそう言った。
「……失言2。ともかくそういう訳だからぅ、尋問とか拷問とかそういう期待には応えられな――」
と、言いかけて、立夏は口を止める。そしてほぼ同時に、目を大きく見開いて苦しみ始める。無くなった両足の根元をバタつかせ、両手の付け根は首を絞められているかのように首元へと向かう。まるで遅効性の毒物でも飲まされていたかのように――。
「枢さんッ!!」
私が彼女の方を振り向く前に、枢さんはすでに「臨戦態勢」を取っていた。
「もうやってる……ッけど――」
枢さんは両目を固く閉じ、額に脂汗を浮かべながら唸った。彼女のエピローグが物体の操作なのだとしたら、解毒は不得手かもしれない。無理やり体内に酸素を送り込んだり、強制的に心臓を動かすことならできるだろうけど、それらは全て対症療法で延命治療に過ぎない。――それをずっと続けられるのだとしたら、まだなんとかなるかもしれないけれど。
「中和も変性もできない……なんで? 有り得ない……まともな化学物質じゃない……? や、タスク由来の物質だとしてもそんなこと……」
しばらくして、枢さんの様子が変わった。顔から血の気が引いていき、首筋には汗が浮かんでいる。ときおり眠気に耐えられなくなったかのように頭をぐらりと傾ける。肩が微かに上下し始める。強力なエピローグには代償がつきものだ。それは体力の消耗だったり、生命力だったり、あるいは制限時間だったり――。
「紗芽ちゃんごめん……ちょっとだけ……トぶ――」
言い終わらないうちに、枢さんはふらりと後ろに倒れ込んだ。両方の鼻の穴から迸る鮮血が宙にアーチを描き、地面に広がった血糊の上に降りかかる。と同時に、周囲に漂っていた威圧感――大気を重く押し下げるような滑らかで粘り気のある重力――が、フッと消え失せる。それは枢さんのエピローグが機能停止したことを意味していた。
「うぁが……ッハ――」
立夏が再びもがき始める。顔は青紫色に変色し、口の端から唾液を垂れ流していた。時間がない――もう誰も頼れない。今この場で動けるのは……。
「私が、やらないと」
震える脚に言うことを聞かせながら、立夏のそばへ近寄ると、私は両手を伸ばし、彼女の身体に触れようとする。大丈夫、さっきと同じことをもう1回やるだけだ。枢さんにできなかったことが私にできるのだろうか、という不安は心の奥に押しやって、私はタスクを発動した。
「うわあっ――!!」
発動して――そしてそのまま後ろに吹っ飛んだ。さっきとは全然違う、圧倒的な強さの抵抗。身体ごと押しのけられるほどの、衝撃が私を襲った。
「いったたた…………え?」
地面にぶつけた後頭部を掌でさすって、そのぬめりとした感触に慌てて掌を見る。私の右手は真っ赤な血でコーティングされていた。初めは後頭部から出血したのかと思ったが、そうではないことは同じく真っ赤に染まった左手と、数瞬遅れてやってきた激しい痛みが証明してくれた。両掌の皮膚が、無くなっている。
「なに……これ……」
目の前の異常事態にそんな言葉が口を突いたが、原因は明らかだ。私が能力を使ったから、こうなった……。視界の端では、立夏が変わらずジタバタと暴れながら呻いている。通常化できていない……! 私は前のめりによろけながら歩き、もう一度手を伸ばした。そしてもう一度同じように吹き飛ばされてひっくり返った。同じじゃなかったことといえば、抉れた掌の肉からところどころ白い骨が覗いていることぐらいだろうか。
呼吸が浅くなる。耳鳴りが響き、目の奥が白くなっていく。全身から急速に血液が心臓へと集まるのを感じて、私はぐらりと当惑しながらも膝立ちで前へと歩みを進めた。痛みでかじかんだ脳は、しかし妙に冴えていて、迷いなく私は彼女へと手を伸ばす。
「もう……いいよぅ……やめてぅ……」
立夏から発せられたその言葉は、少し前にどこかで聞いたような言葉だった。
「よく、ないです」
「ううん、もういいよぅ……」
彼女の表情は、苦しみに歪んだ顔を少しでも優しく見せようと、己の本能に言い聞かせるかのようなものだった。誰かのために、生きることを――あるいは死ぬことを――放棄した者の表情だった。
「私なんかを助けるためにあなたが傷ついたらぅ……あなたのことを大切に思ってる人がきっと悲しむよぅ……」
「私のことを、大切に思っている人――」
私は両手を思い切り伸ばす。後ろにすっ転ばないように体勢を整えると、思い切り少女の胸元に触れた。全身を衝撃が駆け巡り、ストーブに手を押し付けたような痛みが掌から腕に駆け巡る。焼けた鉄を水に突っ込んだような音と、焼けた鉄よりかは幾分フレッシュな血の匂いが辺りに充満した。
「なんでぅ――!?」
驚きと、少しばかりの悲しみを湛えて立夏は、心底理解できない私の行動を見つめる。それは愛する人に全てを捧げ、しかしそれ以外の全てからの搾取を拒絶し続けた人間にとっての、いたって当然の疑問だった。
「私のことを大切に思ってるかもしれない人は――私のために生きてくれると約束してくれたその人は――」
「――私があなたを見捨てたら、『なんだ、あなたって結局口先だけの奴だったのね』って、軽蔑するに決まってますからッッ!!」
そんなのは、癪だった。私は私の正義を貫きたかった。柔らかな手の肉がちょっと無くなるぐらいで自分の正義を曲げたら、可愛くて真っ白な骨がちょっと削れるぐらいで信念に抗ったら、いくら強くなったってククリには合わせる顔が無いからだ。正義を捨てて得た安寧の中では、いくらふかふかの毛布に包まれてたって安眠できるはずなど無いからだ。それは「地安の役に立つ」だとか「自分を襲った理由が知りたい」だとかの理性や社会性から生まれた動機なんかとは比べ物にならないある意味強迫的な感情だった。「目の前のこの子を助けなければならない」というただそれだけの感情だった。
バキバキと不愉快な音が耳を突く。凍った湖の上を歩いている時に聞こえたら、心底震え上がるような音だった。掌が――いや、全身が痛い。身体が何か、内側から生まれ直そうとでもしているような、どこかへ抜け出そうとしているような、鮮明な痛み。
「紗芽ちゃん……? 何、それ――」
後ろから枢さんの声が聞こえる。時間にしておよそ2分。あの状態からそんな短時間で意識を取り戻すなんて、と私が抱いた驚嘆は、彼女の怯えたような声にかき消された。
「何って……何がですかッ!?」
その時は振り返る余裕なんてなかったし、枢さんの口からこの時のことが語られることは無かったから、私の身に何が起こっていたのかを私が知るのは、ずっと後のことになる。しかし、もし振り返っていたら気が動転して毒を通常化することなんて出来なかっただろうし、ある意味では余裕がなくてよかったのだろう。
枢が見たのは、紗芽の背中――肩甲骨のあたり――から伸びる、白い2本の翼だった。それを翼と形容するには、些かおぞましい形状ではあったが。背中から伸びた2本の光の翼は、空間を裂くひび割れのように、或いは木の枝のように割れ広がり、青白く発光していた。
これは『ピリオド』だろうか、だとしたら紗芽は『エピローグ』を発現しているのだろうか。その真偽は定かではないが、ピリオドなんて見慣れているはずの枢の目にも、それは酷く異質なものに映った。空間を、この世界を割り砕こうとする、ひび割れ。あるいはこの世界の向こう側から何かが這い出ようと檻を破るような破断。驚きよりも好奇心よりも、自身の命が――世界の安定が――侵されるかのような、根源的恐怖。
「紗芽ちゃん、駄目ッ! もうこれ以上――」
しかし枢の制止はそこで途絶えた。翼が消えた。と同時に、紗芽がぺしゃりと立夏の上に倒れ込む。あまりの緊張感の落差に一瞬我を失っていた枢が慌てて駆け寄ると、紗芽はやや荒いものの規則的な呼吸を繰り返している。
そして紗芽の下敷きになった立夏は怖かった注射が痛くも何ともなかった赤子のようにキョトンとした顔で寝転んでいた。その身体からは一切の異常が消えていた。毒で止まりかけていた呼吸も、青黒くなった顔色も、消し飛ばしたはずの四肢も元通りになっていた。立夏は半ば条件反射のように倒れ込んできた紗芽を両腕で受け止めると、それができるようになっている自分の身体に気付いてそのまま硬直してしまった。
「え? アハ……治ってるぅ?」
枢へと目線を向けた立夏を見て、彼女は戦闘態勢を取る。しかし立夏の表情から攻撃や逃走の意思が一切無くなっていることに気付くと、そのまま両手を下ろし、固まりかけた鼻血を手の甲で拭いた。
「戦わないの?」
「誰のために? どうやって?」
「……逃げないの?」
「誰のために? どこへ?」
それだけ言って、彼女は仰向けのまま青空を見上げた。いや、空ではなく、眼球の力を抜いて視線を中央に戻しただけでしかなかった。
立夏はもはや己の存在意義のほぼ全てを失っていた。自身が生きる意味も死ぬ意味もほとんどなくなっていた。かすかに残っていたのは、『自分しか知らない満春』を消してしまわないようにしよう、という細い命綱。だがそれが、彼女を確かにこの世に繋ぎ止めていた。
立夏は命綱を紡ぎ出した二本の糸の片方である少女の背中に、そっと手を乗せた。
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