第二十一話 克己心は猫を殺すか?
少女は三つの瞳でこちらをじっと見つめている。私の斜め前に立つ枢さんも同じく相手をじっと見つめ返し……しかしどちらも動かない。張り詰めた空気の中で、お互いに相手を睨みつけたまま立ち尽くしている。
枢さんが「エピローグ」とやらを使えるとは思っていなかったのだろう。パジャマ姿の少女は少し戸惑った表情を浮かべていたが……このまま見合っていてもいずれ地安の応援がやってくる。その前に標的――恐らく私だ――を殺すなり攫うなりしなければいけないのであろう。意を決した様子で、すさまじいスピードでこちらへと突っ込んできた。およそ小さな体躯で出せるとは思えない速度であった。――これが「エピローグ」?
「紗芽ちゃん、ちょっと下がってて。でも離れすぎないように、ね」
あんまり離れると守りきれないから――そう言いながらも枢さんは、構えらしい構えを取っていなかった。エピローグを発動する前に脱力した体勢のまま、向かってくる敵をただ眺めている。無論ただの無策ではないはずだが……不安を拭いきれない。
走り寄る敵が、速度を緩め、僅かに姿勢を低くする。蹴りの構え――と私が判断するその頃には、既に右足は空気を裂き、此方へと伸びてきていた。この期に及んで呆然と突っ立っている枢さん以上に私に違和感を覚えさせたのは、敵の立っている場所だった。
「な――」
――遠すぎる。優に3メートルは離れているにも関わらず、敵は蹴りを放ってきたのだ。どれだけモデル体型だろうが、関節を外して脚を伸ばそうが届きようがない距離。にも関わらず、あまりの速度に鞭のようにしなって見えるその右足は、確かに此方まで伸びて来ている。目の錯覚などでは無かった。確かに枢さんの身体の真横まで、届いている……!
「枢さッ――」
どちゅ、とおぞましい音を立て、残像しか見えない速度で脚が振り抜かれる。枢さんは避けない。どころかガードすらしなかった。いや、それよりも……脚が振り抜かれた? 軌道からしてどう考えても蹴りは当たったはずだ。当たったのなら、脚を振り抜ける筈がない。
敵はそのまま蹴りの勢いを一回転して此方へと振り返る。その顔に浮かぶ表情は、驚愕、としか形容できないものであった。少女の右足に目を遣ると……切断されている。切断された後に慣性でもって吹き飛んだ足首が数瞬後に地面に落ちる。その足首を見て、私も恐らく驚愕の表情を浮かべてしまっていたことだろう。
なぜならその切断面があり得ないほどに――まるでヤスリがけでもしたかのように――綺麗であったからで、その足首がおよそ人間のものとは思えない形状をしていたからだ。例えるならばその形は……獣。よく見ると少女の右足の膝は犬のような逆関節になっており、肌は真っ白な毛皮に覆われていた。太陽光を反射して虹色にも銀色にも見える美しい毛皮が、真っ赤な血に染まっている。右足だけが、動物の後ろ足に置き換えられたかのようだった。それも犬や猫の大きさではない。熊とか馬とか、そういった大型動物のサイズ感だ。
もっとも、私の目がアンバランスさに慣れる前に、その異質な姿は見る影もなく変容していくのだったが。
「なんかキモいなぁ……切られたってか、ちぎられた? ヤ、捻り切られた……って感じ?」
「へぇ、敏感なんだ。可愛いところあるじゃん」
「……キモすぎ、殺す」
そう言いながらも、切り飛ばされたはずの足首はみるみるうちに再生していく。ほんの数秒で元通りに――いや、その獣じみた足は元通りではないのだが――治ってしまった。正直なところ、驚きよりも生理的な嫌悪が勝る。
「いやいやいや! アレのほうが何倍もキモいですって! なんか生えてきましたけど!?」
「おっ、新鮮な反応。……まぁ、足が動物みたいになってるのは初めて見たけど……って、ん?」
訝しむ枢さんを見て私も敵に向き直り……その姿を見て硬直してしまった。――獣化が進行している。
今や毛皮はほぼ全身を覆い尽くし、もはや素肌は見えなくなってしまっている。ゴリゴリと身の毛のよだつような音を立てて、両手と左足が伸びていく。毛皮に気を取られていて気付かなかったが、3メートル先から蹴りが届くほどだ。右足は既にかなりの長さになっていて、それに釣り合うように他の四肢も変形する。お尻の上からは長くて太い尻尾が生え、極めつけに耳は頭の上部へと移動し、犬や猫のような形状に変化していた。完全に人外へと変身してしまったその姿を言葉にするのであれば……獣人、というのがふさわしいだろうか。マズルが伸び、顔まで狼のようになっている。
「おー、やっぱり可愛いじゃん、なでなでしたくなっちゃうね」
そんな枢さんの軽口を無視して、敵は猫のように軽く伸びをすると、両手両足で四つん這いになって大地を掴む。そして動き出したかと思った次の瞬間には、私たちとの距離は詰められていた。
少女だった獣は全身をフル稼働させ、目にも止まらぬ連撃を繰り出す。しかしその手足はすべて、私や枢さんに触れる前に切り飛ばされていく。当の枢さんが指一本動かしていないというのに、まるで見えない斬撃が飛び交っているようだった。しかし斬り飛ばされた手足は瞬く間に再生する。お互いに決定打を与えられずに時間だけが過ぎていく。
「チッ……うざったい、なぁ!」
十数秒に及ぶ猛攻の末、敵は埒が明かない防御に苛立ったように舌打ちをすると、両手で思い切り地面を殴った。道路に亀裂が走る。そうしてバラバラになったアスファルトの中でもひときわ大きな破片を片手で楽々とつまみ上げると、それを此方へ投擲してきた。
一辺が2メートルほどもありそうなその石板は、手裏剣のように高速回転しながら飛来する。狙いは私。当たればまず間違いなく即死だ。考えるより先に回避する。以前の私なら何もできずに棒立ちしていただろうが、特訓の成果もあって回避だけは一人前にできるようになっていた。
ただし、今この瞬間に限っては、棒立ちで居た方がよかったかもしれないが。
「紗芽ちゃん、後ろ!」
石板攻撃を回避して一息ついていた私が、慌てたような枢さんの声で我に返る。――枢さんから離れすぎてしまった。慌てて彼女の下に戻ろうとした私が、その声のおかげで背後から感じた只ならぬ気配に振り向くことができたのは、不幸中の幸いだった。
――獣の手が、目の前に迫っている。日光を浴びて光り輝く毛皮が、柔らかそうな肉球が、そして真っ黒で一本一本が腕のような大きさの鉤爪が、視界の全てを覆いつくしていた。本能から攻撃を防ごうとして、理性で肉体を押さえつける。敵が向こうからこっちに来てくれているんだ。必要なのは防御じゃなくて――。
振り下ろされた前脚が、爪が、肉に食い込む。と同時に、金属音が鳴り響き、光とともに獣は姿を消した。後に残っているのはかわいらしい少女の右足首だけだ。
「通常通り・二丁目――自動運転」
全身で、タスクを使う。ちゃんと、出来てる……! そんな喜びに浸る間もなく、私の頭に浮かんだ疑問。さっきの敵は、いったいどこからやってきたのだろうか。嫌な予感がした――「通常化」したあとに残った足首――。そしてそういう予感は大体的中するもので、今回もその予感は正しかった。
枢さんが斬り飛ばした手足から、身体が生えていた。より正確には手足を起点にして再生した、というべきなのかもしれないが。
「な、なんか増えてるんですけど! プラナリアみたいに!」
「うわ何それキモッ!」
私の素っ頓狂な叫びに枢さんはちらりとこちらを窺い、胴体がちぎれても動き回るゴキブリを見たときのような表情で言った。
「見慣れてるんじゃなかったんですか!?」
「いや――増えるのは……初見っ……」
「こっちは何とかしますから、枢さんは――」
そっちの本体を――と言いかけて、私の言葉は詰まる。おぞましい気配に、呑み込まれて。
「あぁ、そっか……直接触っちゃダメなんだっけ? ダルいなぁ……私の分身って本能はあるけど知性はほぼないからさぁ……簡単な命令しか出来ないんだよね」
そう言って、獣の本体は姿を消した。いや、目に映らないほどの速さで私の真後ろへと回りこんでいた。あれほどの巨体が、残像すら残さずに移動したのだ。
「やっぱこっちから殺すか」
言うが早いか、敵は右手を振り上げる。その手に握られているのは、アスファルトの塊。不味い、直接触れないと……無力化できない!!
無慈悲に、無感動に腕が振り下ろされる。血飛沫が飛び散り、私は返り血に塗れる。返り血。それは私の血ではなかった。
「……もうちょっと実戦を経験してもらおうと思ったんだけど、これ以上は危険すぎるかな」
斬り飛ばされた腕の切り口から迸る鮮血に濡れながら、蛍光緑色の髪を揺らして、枢さんはいつの間にか私の前に立ち塞がって居た。数メートルは離れていたはずなのに、一瞬で。
「く、枢さん……?」
「時間もあんまりないし、今日の授業はここまでにしておこうか」
欠伸の一つでもしそうな呑気な声色で、彼女はそう呟いた。
「……逃げるつもりなら、それは不可能よ。私のエピローグの発動限界は存在しない。私が死ぬまで、この能力は解除されないし――この能力が解除されるまで、私は死なない」
「発動限界が存在しない? そりゃ凄いね……」
既に周囲は五、六体の獣に囲まれている。それら全てが、目の前の少女なのだ。どれだけ倒そうが、限りなく増殖する。切られれば、増える。まさに植物のように。茨のように。
「あなたのエピローグは、領域内――おおよそ半径80……90センチメートルといったところかしら――に侵入した物体を切断する能力。凄まじい切れ味で、あるいは硬度を無視して……。そんなに簡単に真っ二つにされるほど私の身体はヤワじゃないからね」
決して死なないという絶対的なアドバンテージの下に、獣は静かに語る。
「けれどもエピローグには必ず代償が存在する。それは持続時間の限界だったり、体力の消耗だったり、あるいはもっと重い何かだったり……。あなたは私のエピローグが時間切れになるのを待っているみたいだけれど、お生憎様、それにはあと1時間ぐらいはかかるわね」
「1時間……ちょっと長すぎないかな? エピローグの持続時間って、5分やそこらが相場だと思ってたんだけど」
「持続時間だとしたら、長すぎるけど……私のはもっと重い代償。――私が支払うのは私の寿命。エピローグ発動1分ごとに寿命1年を消費する……少し重すぎる気もするけど。私のタスクはそんなに輝力が高い方じゃないから」
「――命はもっと大切にした方がいいと思うけどね」
「だってもう私、死んだも同然だもの。私のエピローグは私自身にも解除できない――寿命で死ぬまでね。満春が死んじゃってもうタスクは使えなくなっちゃったし、生きてる意味も無くなっちゃったし。最期にあなた達殺して、スッキリしてから満春のところに行こうかなってさ」
話は終わりだ、とでも言うように少女だった獣は腕を大きく振り上げて、私たちの頭上に掲げた。彼女の分身も同じく攻撃の体勢を取る。まさに”|四方にパルジアの軍歌を聞く《逃げ場のない大ピンチ》”といった状況だった。
「解除できないって……例えば紗芽ちゃんに触られても?」
「それはどうでしょうね。タスクを無効化できるタスクなんて初めて見たから分からないわ。……けれどもノロマそうなその子が私に触れられるとは思えないけれど」
「君の手足が無くなっても?」
「いくら斬っても無駄なことよ。斬るより速く治せばいいし、斬れば斬るほど『私』は増える」
「じゃあ斬るんじゃなくて――」
そう言いながら枢さんは右手をゆっくりと持ち上げて、獣へとかざす。まるで頭を撫でるかのような落ち着いた動作だった。
「――再生が追い付かないようなスピードで、消し飛ばし続ける……んだったら?」
「は――」
言葉の意味が分からない、といった様子で少女が疑問符を浮かべるのと、その四肢が根元から消し飛ぶのは、ほぼ同時の出来事だった。斬り落とされたのでも、潰されたのでも、引きちぎられたのでもなかった。形容するとしたら、それはまさしく消し飛んでいた。血の一滴すらも残さずに。見回すと、周囲の分身たちまでもが跡形もなく消し飛んでいる。
「一つ、敵のやっていることだけが、出来ることだと思ってはいけない。一つ、命がけの行動に、命以上の見返りを求めてはならない。一つ、弱者から無力化しようとするのが、必ずしも最適解とは限らない」
見覚えのある気の抜けた決めポーズとともに、彼女はそう言い放った。
「……覚えておくと良い、来世では役に立つかもしれないからね」
いいね、ブックマーク、評価お待ちしております。




