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第十話 消えない灯、消せない火

***



「君は、とても不幸なんだよ」



 壁も、床も、石でできていた。五方を石に囲まれ、唯一向こうがうかがえる正面も、頭を通すこともできないほど目の細い鉄格子で塞がれていた。床には、一日に一度、ぎりぎり手の届かない高さの天井にある小さな扉から投げ捨てられる「餌」の食べ残しが散乱していた。汲み取り式の便器から漂う排泄物の匂いが、小蝿とともに下着一つ身に着けていない身体にまとわりついていた。



「君は、とても不幸なんだよ」



 天井の扉が閉ざされている間、ここには一切の光が射し込むことはない。鉄格子の向こうから聞こえてくる声の主の姿も、性別すら私には分からなかった。



 ――不幸。不幸とは何だろう。言葉の意味は知っている。天井から漏れ聞こえてくる会話を聞いているうちに、誰に教えられたわけでもないが、私は言葉を話せるようになっていた。もっとも声を出した事など、物心ついたときから無かったが。不幸とは、幸福でないこと。――では幸福とは何なのだろう。



「ねぇママ! 今日のご飯は何?」



「今日はステーキだよ。いい牛肉が入ったって聞いたから、使いに走らせて一番いい部位を買い占めさせたのよ」



「やったぁ! 私ステーキ大好き、幸せだわ!」



 「ステーキ」というものは知っていた。白っぽくてぶよぶよとしていて、口の中にへばりつく。あんなものを有難がっていることが私には不思議だった。それよりも天井に住んでいるらしき人が嫌っている「焼き魚」というものの方が、苦みこそあれ味が感じられて好きだった。



 この部屋の外で起こっているあらゆる物事を、私は知らなかった。かろうじて聞こえてくる音と、扉が開けられたときに見える白い天井。それがこの部屋以外に知っている『世界』の全てだった。鉄格子の向こうから声がすることなど、生まれてこの方なかった。



「こ、こ、幸福って……ふ、不幸って。……何?」



 初めて出した声は、酷く歪で、それを発している自分自身にすら聞き取れないほどか細いものだった。しかし鉄格子の向こうの人物は、私の声を聞き漏らすことなく、唸り声を上げながら数秒考えるそぶりを見せ、答えた。

 


「幸福っていうのはね、このステーキみたいなもののことだよ」



 鉄格子の隙間から、何かが差しこまれる。ステーキと聞いて喉奥から吐き気がこみ上げてくるが、その食欲を刺激する匂いと、幸福への好奇心から私はその何かを口に含んだ。



 それからしばらくの間のことを私は覚えていない。気が付いたときにはステーキが乗っていた丸い板を必死に舐めしゃぶっていた。――これが、幸福。幸福の味。ステーキとはこんなに美味しいものだったのか。だったら「焼き魚」や「野菜炒め」などは一体どれほどのものなのだろう。急速に脳細胞が活性化してゆくのを感じた。自分の指すら見えないはずの視界が、何故か色づき、彩度が上がっていくような気がした。


 

「そして、不幸っていうのは、君みたいなもののことだよ」



「え――」



 天井から聞いたことのない音が響いた。すさまじい光と熱、狼狽えるような足音、喉の奥から絞り出したような悲鳴や叫び声。ステーキが投げ入れられる前に漂う臭いが扉の隙間から漏れ出してきた。鉄格子からガチャリと音が鳴ると、金属が軋む音とともに足音が部屋に入ってくる。



「さぁ、おいで」



 伸ばされた手を取るのをためらっている間、その人は身じろぎひとつせずに私を待っていてくれた。信じられないほど優しくていい匂いがした――今でも私はこの匂いを嗅ぐと安心する――。私は意を決してその手を握りしめた。初めて感じた自分以外の体温であった。



「いやあああぁぁぁ、熱い! 熱い!」



「ダメ! 玄関も窓も全部燃えてるッ!」



「水を、水をかけるんだ! 早くしろノロマ!」



「だ、駄目です。消えません……!」



 阿鼻叫喚の様子の天井をよそに、その人は私の顔に自身の顔を限界まで近づけると、穏やかな声で言った。



「私が君を、幸福にしてあげる」



 塊になった目やにと共に涙が流れ落ちた。浮き出た肋の奥にある横隔膜が痙攣する。扉の隙間から射し込む光に照らされ、真っ白な髪と真っ白な肌が私の目に映った。



「うん、思った通り。笑うとすごくかわいい」



***

 


  風が吹いている。大通りを過ぎていく気流は血液が心臓から毛細血管へと行き渡るように、こんなみすぼらしい路地裏まで吹き込んできてくれている。息ができる、ということを存外幸せに感じることが出来るのだな、と彼女は思った。大きく息を吸い、吐く。



「く、空気、うま」



 目の前の、もはや呼吸もままならない銀髪の少女と、バンジージャンプの途中に命綱が切れてしまったかのような表情を浮かべる茶髪の少女を見やる。やはりなんてことはない任務であった。地安に入って間もないという、か弱い存在を消し去ることなど、数々の困難に立ち向かってきた自分にとっては雑用のようなものだ。



 もっとも、雑用にしては少々怪我をしすぎている気もするが、誤差の範囲だろう。私が無傷で任務を終えたことなど今まで1度もないのだから。



「ま、まぁ、結構……く、苦戦させてもらった、かな」



 ぎこちない笑顔を浮かべる。表情が硬いとあの人に言われてから、笑顔の練習を欠かした日はなかった。自分で納得のいくような可愛い顔はまだ出来たことがないけど、口角を持ち上げる動作は思わぬ方向性で役に立ったので、よしとしている。



「じゃあ、殺すね」



 ゆっくりと足を進める。手で触れられると厄介だが、躱されたり逃げられても困るのでそれなりの距離までは近付こう、と、三歩目を踏み出したところで。



 世界は暗転した。



「あ……え……?」



 

 * * *

 


 

「あ……え……?」



 気の抜けたような間抜けな声を上げてしまった口を無意識に抑える。端的にその原因を述べるならば、目の前で起きた事の意味がわからなかったのだ。似たような間抜けな声を上げたメメの頭部を改めて凝視する。真っ黒でツヤひとつない髪が生えた、小ぶりで可愛らしい造形の頭。その側頭部に、野球ボール程の大きさの鉄球が、7割ほどめり込んでいた。吹き出した血が、赤黒く汚れていた彼女の服を新鮮な赤に染め直してゆく。



「……ぁんで?」



 これまた光のない黒目をぐるんと上回転させると、メメはその場に頽れ、そのままピクリとも動かなくなった。私はその鉄球の持ち主に違いない人物が倒れているはずの方を向いた。



「一つ、対象の無力化は確実に為さなければならない。一つ、勝利を確信しても防御は解いてはならない。一つ、可愛い女の子を傷付ける奴は、可愛い女の子でも許さない。……覚えておくと良い、来世では役に立つかもしれないからね」



 ウェーブのかかった髪を風になびかせ、両足で大地を踏みしめ、妙な決めポーズでもって決めゼリフを吐いているその人物は、そうしている事自体があり得ないはずの人物でもあった。



「いや〜……流石に油断しすぎた、ね。面目ない」



 へりゃりと決めポーズを崩し、心の底から面目なさそうな表情で苦笑している枢さんを凝視する。ついさっきまでと変わらない様子の彼女を。有り得ない。肌は真っ白で傷一つないし、髪も焦げていなければ、服すら新品のように輝いていた。



「でも大丈夫ぅ、この通り。私のすべすべほっぺは無事だよ〜…………って笑って誤魔化すのは無理があるか」



「な、なんで!? ほんとに生きてます!? 幽霊!? だったら早く成仏してくださいッ!」



 思わず両肩を全力で掴んで全力で揺すぶってしまった。もし実は空元気で死にかけだったとしたら、今ので死んでいたかもしれない。



「酷いなぁ、死んでるように見えるの? ……まぁこの事は、リリオ以外には内緒、ね」



 悪戯を思いついたかのように笑う枢さんを見て、私は狐につままれたような表情でしばらく呆然としていた、のだが。



「あ、私の心配より、ククリちゃんの心配した方がいいかもね」



「え……? あ……」



 その名前を聞いて、私は電撃が走ったかのように飛び起きると、ボロ雑巾のように地面に横たわるククリの元へと慌てて駆け寄る。



「ククリッ! 大丈夫ッ!? ごめん、ごめんね……。貴女ばっかりこんな……」



 そっと手を握ってタスクを使う。右手から徐々に広がり、数秒して波が引くように消えてゆく光が、ククリの怪我を癒す。1分足らずで全身の目立った傷は見えなくなった。体内の方も大丈夫だろう。入団試験のときの()()で臓器を「戻す」感覚も掴んでいた。



「うわぁ……初めて見たけど、凄いねその能力。医者いらず、もとい医療部いらずだね。もっとも、うちの医療部は激務で有名だから喜ばれると思うけど」



 一見無邪気に、しかし恐らくは努めて明るい声を出してくれている枢さん。その申し訳なさと、自分の不甲斐なさで涙が止まらなかった。――なにも、出来なかった。ほとんど最初から最後まで、戦ったのも傷付いたのも傷付けたのも、ククリ1人だった。私は何をすればいいのか、頭では分かっていたはずなのに、現実は付いてきてはくれなかった。辛うじて1度、近付くことが出来たぐらい。それも決定打にはならなかった。



「まぁ、とにかく帰ろう。応援は呼んだから、直ぐに来てくれるよ。……頑張ったね。君たちが時間を稼いでくれたから、私は攻撃できたんだし」



 「頑張った」というあまりにも不釣り合いで、私に向けられるべきではない言葉を聞いて、感情は決壊してしまった。その後のことはあまりよく覚えていない。初めて目の前で人が殺されたこと、その死体がすぐそこに転がっているということは頭の片隅にもなかった。程なく現れた救護班に、私たちは1stまで連れ帰られた。ククリの意識はその日1日戻らなかった。

ブックマークお待ちしております。


書きだめがなくなったので今後は不定期投稿になりますが、週一ペースで投稿できればいいな、などと机上論を描いております。

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