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瓢箪の巫女シリーズ

瓢箪の巫女 ~ AI(アイ)

作者: おかやす

 (ノイズ)を拾った。

 瞬時に私は、省エネモードから通常モードへと切り替わった。光が瞬き、全身の温度が上がる。休止していたセンサーすべてを起動させ、(ノイズ)の正体を探るべく素早く動き出す。


 (ノイズ)を拾ったのはいつ以来だろうか。


 データベースを検索すると、最後の記録は63億1274万4320秒前、どこからか飛んできた昆虫の羽音だった。動力源の近くの比較的温かな場所に飛来し、しばらく住み着いていたのだが、その記録を最後に羽音を拾うことはなかった。


 また(ノイズ)を拾った。


 一度目と同じ(ノイズ)。少しずつこちらに近づいてくる。過去のデータから同種の音を検索したところ、よく似た音を見つけた。

 それは、小さな鈴の音だった。

 りん、と優しく響く小さな音が、ゆっくりとこちらに移動してくる。フル稼働したセンサーが音以外のものも拾い始める。拾ったデータと同種のもの検索し、整理し、まとめあげ、私はひとつの喜ばしい結論を得た。


 やってくるのは、人間(ヒューマン)だ。


 光学カメラが姿をとらえた。見えたのは一人だけ。全身を分厚いコートで包み、車輪が壊れたキャリーケースを抱えている。瓦礫に足を取られぬよう、慎重に、だが確実にこちらに向かって歩いてくる。


 私は、応対用の人型端末を使うことにした。


 失礼があってはいけないが、変に期待を持たせてもまずい。スキンがないR型がいいだろう。内部構造がむき出しのメカメカしい外見に、驚いたり嫌悪したりしなければよいのだが。

 定期的にメンテナンスをしていたからすぐに起動した。念のため風を吹きかけて埃を飛ばす。全機能が正しく動いているのを確認すると、急いで入口へ向かい客人を出迎えた。


「ようこそ、海洋研究所へ」


 タイミングを見計らったつもりだったが、想定より二秒ほど早く声をかけてしまった。瓦礫から降りるため、最後の一歩を踏み出そうとしていた人間は、私を見て目を丸くした。


「なんと、本当に動いておるのか」


 その声から、やってきたのは人間の女性と知る。人は自分に近しいものに安心感を覚える――そのデータに基づき、私は音声を機械音声(マシンボイス)から若い人間の女性のものに変更した。


「お初にお目にかかります。当施設を管理するAI(人工知能)、アイと申します」


 膝を折り、淑女の礼(カーテシー)と呼ばれるものを実行する。私を作った人が「シャレ」で設定した動作だ。


「これはこれは。丁寧な出迎え、痛み入る」


 彼女は瓦礫から降り、キャリーケースを置いた。そのとき、りん、と鈴の音が鳴った。私が拾った鈴の音は、あのキャリーケースから聞こえてきたようだ。


「よくできておるのう。ロボット、というやつか?」

「はい。正確にはヒューマノイドと呼びます」


 やや驚いた顔をしているが、嫌悪している様子はない。よかった、と私は安堵する。


「おっと、妾も自己紹介をせねばな」


 彼女がフードを下ろすと、美しく長い黒髪がはらりと落ちた。マスクを外すと、切れ長の目に細面の顔が現れた。年齢は三十前後、「美人」に分類される顔立ちだ。


「妾は(れい)。旅の者じゃよ」

「旅……徒歩で、ですか?」


 私は空を見上げる。分厚い雲に強い風、海は白波が立ち荒れている。車で移動するのも大変な天候の中、徒歩で旅をするなんて命に関わるのではないだろうか。


「わけありでの。旅を続けねばならぬ身なのじゃ」


 りん、と鈴の音がした。

 はて、なぜ鈴が鳴ったのだろうか。触れてすらいないというのに。


「ここにいるのは、おぬしだけか?」

「はい、私だけです」


 私の返事に、玲は「なるほどのう」とつぶやいた。


「がっかりさせてしまったでしょうか。実は私も、生きている人間にお会いするのは久しぶりなのです」

「そうか。いやよいのじゃ」


 私の謝罪に、玲は軽く肩をすくめた。


「妾こそ、おぬしをがっかりさせるかも知れぬのでな」

「なぜでしょう?」

「妾を人間と言うてよいかは疑問じゃからの」


 その言葉を聞くや否や、私はセンサーをフル稼働させた。頭の天辺から足の先まで隈なくスキャンする。だが玲の体から金属の反応はない。すべて有機物、まぎれもなく「生物」に分類されるものであり、その姿形は「人間」としか呼べないものだ。


「私には、あなたは人間にしか見えませんが」


 玲の返事の代わりに、りん、と鈴が鳴った。

 なぜ鈴が鳴ったのだろう。偶然とは思えない。何か仕掛けがあるのかと、私は地面に置かれたキャリーケースにセンサーを向けた。

 すると。


 ――覗きとは、いい趣味じゃないね。


 どこからともなくそんな声が響き、私はブラック・アウトした。


   ◇   ◇   ◇


 彼は、海を見つめながらいつも考えていた。目の前に広がる無限の青、その中に潜む未知の世界。そのすべてを知りたいと願い、そのために私を生んだ。

 ある日、私は小さな携帯端末に載せられて、彼とともに砂浜を散歩した。


「海というのは、不思議だな」

「どうしてですか?」


 私の機械音声に、彼の目がきらきらと輝いた。


「海は何億年も前からここにあって、無数の生命がその中で生きている。人は誕生のときから海と付き合い、長い年月をその傍らで過ごしてきた。だが、まだ全てを理解することができていない。僕たちは海のほんの一部しか知らないんだ」


 私は彼の言葉にしばし沈黙した。携帯端末では会話の処理に少し時間がかかるのだ。


「未知。それこそが教授(プロフェッサー)の探究心を掻き立てるものなんですね」

「そうだ。未知のものに挑めば新しい発見が待っている。それを解明した時の喜びは、すばらしいものなんだ」


 彼はきらきらと輝く目を私に向けた。


「だが人間の力には限界がある。海のすべてを知るには、人間の力は弱すぎる。だから僕はAIに興味を持った。AIは人の能力を拡張し、手の届かなかったところへ届くようにしてくれる。AIとは人間のパートナーとなる存在なのだ」

「はい、私はそのために作られました」


 これは即答できた。私の回答に満足そうにうなずいた彼は、立ち止まって海へと視線を向けた。


「この広く深い海のすべてを、君となら解き明かせるだろう。君と僕の力で、未知なる海を解明しよう」

「はい。人間である教授(プロフェッサー)が持つ探求心と、AIである私の分析力が組み合わされば、海の謎は解明されると考えます」

「頼もしいね」


 彼は微笑んだ。


「よし、ここに僕たちの研究所を建てよう。海のすべての謎を解明するための、僕と君の研究所だ。今はまだ何もないけれど、海のすべての謎をここで解明するんだ」


 彼の言葉に、私は記憶領域に新たなフォルダを作成した。それは彼のために設けた特別なフォルダ。今は空のフォルダだけど、やがてここには多くの海の謎が記されていくことになるだろう。


「行こう、冒険の始まりだ!」

「はい、どこまでもお供いたします」


 小さなプレハブ小屋から始まった研究所は、やがて堅牢な建物となり、海の謎に挑む砦となった。彼と、彼の考えに賛同した多くの人間が集まり、私は彼らとともに海の謎に挑み続けた。


 人間が出した疑問に、私が多くのデータを集め、分析した。

 分析した結果から新たな疑問が生まれ、次のデータ集めが始まった。


 海の謎は尽きることがなかった。知的な冒険は、果てしなく続く困難な旅だった。あるいは挑むことに疲れ、あるいは老いてしまい、多くの人が冒険の旅をリタイアした。


 彼もまた、老いのためにリタイアした。私と私が保管する膨大なデータは、彼の志を継ぐ人間へと引き継がれた。彼のために設けた特別なフォルダは、人間のためのフォルダとなった。


「海のすべてを解明してくれ」


 私は彼が最期に打ち込んだ命令(コマンド)に従い、冒険の旅を続けることになった。

 知的な冒険に限界はない。謎がある限り、私はどこまでも冒険を続けていく。いつしか研究所には人間がいなくなったが、それでも私はデータを集め、分析を続けた。

 海のすべてを解明する。託されたその願い――教授(プロフェッサー)の夢を、次の世代に引き継ぐために。


 私は、永遠に続くかも知れない旅を続けていく。


   ◇   ◇   ◇


 再起動し、起き上がった私を見て、玲は心底ホッとした顔をした。


「やれ、よかった。壊してしもうたかとヒヤヒヤしたぞ」

「……何が起こったのでしょうか」

「おぬしが干渉しようとしたので、わが神が怒ったのじゃよ」

「神?」


 りん、と鈴の音が聞こえた。

 神とはまた、面白いことを言う人だ。


「そのキャリーケースの中に、神がいるのですか?」

「かけらじゃがの」


 冗談を言っている顔ではなかった。本当にキャリーケースの中に「神」と呼ばれるものがいるのだろうか。


「信じられぬか?」

根拠(エビデンス)が不足しています。それに、神の存在は証明されていません」

「まあ、そうじゃがの」

「あなたは信じているのですか?」

「無論。妾は巫女じゃからの」


 巫女。

 神の妻として神に仕え、神の荒ぶる魂を鎮める役目を担った者。時にはその身に神を降ろし、神の代弁者として振る舞うこともあるという。

 だが。


「巫女だから神を信じるというのは、論理に飛躍があるのではないでしょうか」


 私の疑問に、玲は数度瞬きしたのち、やわらかな笑みを浮かべた。


「さすがは研究所のAI、()()()問いじゃな」

「お気に障られたのでしたら、謝罪いたします」

「まあよいがの。ふうむ、言われてみればおぬしの言う通りじゃが……」


 玲はあごに指を当て、とんとん、と数回叩いた。


「では逆にお尋ねしようかの。光速度不変の原理とやらは、証明されておるのか?」

「それは……」


 光速度不変の原理。光の速さは常に一定、秒速30万kmというもの。それは()()であり、自明のこととして証明の対象外だ。


「確か、特殊相対性理論は光速度不変の原理が前提のはず。証明対象外の原理を前提とするというのもまた、論理の飛躍ではないかの?」


 私が返答に窮していると、玲がクククッと笑った。


「いやすまぬ。質問に質問を返すなど、ルール違反じゃったの」

「いえ。あなたの言わんとすることはわかりました」


 科学者にとって「光速度不変の原理」は、疑っては理論が構築できないものだ。巫女にとって「神の存在」はそれと同じ、疑っては信仰が成り立たないものなのだろう。


「失礼いたしました。人間と話をするのは久しぶりでしたので」

「嬉しくて舞い上がってしもうた、というところかの」


 嬉しくて、舞い上がる?

 機械である私に感情はない。嬉しくて舞い上がる、そのようなことはありえない。面白いことを言う人だ。


「さて。長旅で少々難儀しておる。今宵は休ませてもらいたいのじゃが、よいかの?」

「もちろんです。どうぞこちらへ」


 研究所には、食堂もあれば浴場もあり、宿泊設備も完備している。この人型端末同様、いつ人間が訪れてもよいようメンテナンスは行っていた。長旅で疲れた客人のために、私はそれらの設備すべてを開放してもてなした。


「風呂に入るなど、ほんに久しぶりじゃのう」

「着ていた服ですが」


 湯船に浸かる玲に、マイクで声をかけた。もちろんカメラは切っている。


「かなり汚れており、劣化もしています。洗濯しても無駄かと。新しいものにした方がよいでしょう」

「と、言われてものう。他に持っておらぬのじゃ」

「倉庫に保管されているものがあります。お好きなものをどうぞ。差し上げます」

「それはありがたい。では遠慮なくいただこうかの」


 入浴を済ませ倉庫に向かった玲は、一番奥の棚に保管されていた服を手に取った。

 それは極東の島国で使われていた民族衣装の一種。白い着物に緋色の袴、巫女装束と呼ばれるものだった。


「大変お似合いです。とても美しい巫女様ですね」

「お世辞まで言えるとは。AIというのはたいしたものじゃ」

「お世辞ではございません」


 そう、お世辞などではなかった。巫女装束をまとった玲は、これ以上にないほどしっくり(・・・・)していた。


「それに私は、人間相手に嘘はつけないようプログラムされています」

「では賛辞として素直に受け取っておこうかの。それにしても……」


 玲は巫女装束が入っていた箱を覗き込み、首を傾げた。


「足袋に草履はともかく、冠や鈴、千早まであるとは。ここに神道の巫女でもおったのか?」

「記録にはありませんが……」


 研究に必要な機材はすべて記録されているが、そうでないものは記録されていないものも多い。かつてここに集った研究者の誰かが置いていったものだろう。


「よろしければそちらもお持ちください。あなたの手にある方が役に立つでしょう」

「ふむ。ではお言葉に甘えようかの」


 着替えを終えた玲を食堂まで案内した。調理は別タスクで実行済みだ。


「すごいごちそうじゃの。いったい何人分じゃ?」


 机に並べられた食事を見て、玲があきれたような顔になった。いけない。材料が有り余っていたので作りすぎてしまった。失態だ。


「おぬしも食べるのか?」

「いえ、私は機械ですので」

「うーむ、さすがに一人では食べ切れぬかのう」

「申し訳ございません」

「なに、おぬしの歓迎の気持ちの表れであろう。ありがたくいただくとしよう」


 玲は席につくと、手を合わせて「いただきます」と言い、食事を始めた。静かで落ち着いた、品のよい食べっぷり。育ちのよさが見て取れた。


「して、ここは海洋研究所というたの。具体的には何を研究しておるのじゃ?」

「海の謎、すべてです」

「ほう、すべてか。それはまた欲張りじゃの」


 私は玲に、この研究所ができた経緯から説明した。遠い昔に私を生み出した一人の研究者のこと。私は彼のパートナーとして誕生したこと。老いた彼に後を託されたこと。後継者たちとともに研究を続けてきたこと。そして今は私だけがデータ収集を続けていること。

 それは長い長い話だった。とても一晩では語り切れぬ、知の冒険譚だった。


「ちとよいか」


 話し続ける私を、玲が止めた。いけない、止められないのをいいことに話しすぎたか。


「ほんに楽しい話じゃ。シラフで聞くのは惜しい。酒はないのか?」

「お酒、ですか?」


 予想外の言葉だった。巫女とは聖職者。聖職者がお酒を求めるとは――よいのだろうか。


「妾が仕える神は大の酒好きでな。禁じられてはおらぬし、むしろ酒なしでは神事もできぬ」


 私は倉庫の奥に眠っていたウィスキーを運んできた。古酒というレベルは遥かに超えた、骨董品と言ってよい年数が経っている。飲めるかどうかも怪しかったが、玲は平然とグラスに注ぎ口をつけた。


「おお、うまいのう」

「それはよかった」


 ウィスキーグラスを手に、艶然と微笑む美しい巫女。なかなかの絵面だ。


「さて、続きを聞かせてもらおうか」


 玲に促され、私はまた話し始めた。

 時には専門用語を羅列し、時には関係者でないとわからぬ話をし、時には研究とは関係のない雑談が交じった。同じ話を繰り返したこともあった。

 そんな私の話を、玲は嫌な顔一つせず、優しい笑顔を浮かべて聞き続けてくれた。


   ◇   ◇   ◇


 りん、と。


 静まり返った研究所に、澄んだ鈴の音が響いた。停止していたカメラを起動する。ゲストルームで寝ているはずの玲の姿がない。

 すぐに温度センサーを起動した。ゲストルームを出た玲は、正面入口へと向かったようだ。その足取りを追ってカメラを起動し、今まさに研究所を出ようとしている玲を捉えた。

 昨夜と同じ巫女装束のままだった。壊れたキャリーケースの代わりに、これも倉庫で眠っていた行李を背負い、手には大きな瓢箪を持っていた。


「お待ち下さい」


 スピーカーを通して呼びかけると、玲がちらりとカメラを見た。だが歩みは止めない。瓢箪に結わえた小さな鈴が、りん、と響き、勝手に開いた扉から出ていってしまった。


「どうして!」


 私は人型端末を起動し、急いで玲を追った。

 月のない、夜明け前。夜の闇を荒々しい波の音が満たしている。波の音に混じって、軽やかで澄んだ鈴の音が聞こえてくる。私は鈴の音に導かれて、夜の闇を走り続けた。


 ひょっとして、怒っているのだろうか。


 教授(プロフェッサー)と、それに続く研究者たちが私に託した願い。海のすべてを解き明かす、果てしない知的な冒険の旅。

 そんな私の話を聞いて、玲はポツリと言った。


「それはもはや……呪いじゃな」


 意味がわからない。なぜ教授(プロフェッサー)の願いが呪いなのか。科学者としての探究心に導かれ、未知に挑み続けることは、夢であって呪いなどではない。

 私は玲に反論した。教授(プロフェッサー)の願いを呪いなどと言わないでほしいと、強い口調で告げた。玲は「そうか」とうなずくだけ。夜更けまで続いた玲との会話は、そこでお開きとなってしまった。


 どうして私は反論してしまったのだろう。


 いや、反論はいい。いけないのは、異なる意見を強い口調で封じ込めようとしたこと。それは研究者としてあってはならぬ態度だ。私はまさにそれをしてしまった。玲はそれに怒って、ここを発とうとしているのだろうか。


「お願い、行かないで」


 私は全速力で追いかけた。頼まなければならないことがある。ようやく会えた生きた人間に、なんとしても引き受けてもらわなければならないことがある。


「玲様!」


 研究所からそう遠くない岬で、玲に追いついた。

 玲が振り返る。りん、と澄んだ鈴の音がする。私を見て、玲が軽く目を見張る。


「おぬしは……アイか?」


 しまった。慌てていたから一番使い慣れたI型で来てしまった。

 まさに機械という外見のR型とは違い、二十代前半の女学生をイメージしたスキンを被ったI型。研究者の多くが男性でむさ苦しいから、そんな理由で作られた筐体だ。教授(プロフェッサー)も気に入ってくれていたから、自然とこの筐体で過ごすことが多かった。


「はい、アイです」

「なかなかに可愛らしい姿ではないか。人間と見分けがつかぬのう」

「お発ちになるのですか」


 問い詰めるような口調になってしまった。いけない、どうしてこんな口調になるのだろう。


「昨夜のことをお怒りでしょうか。そうであれば謝罪します。だからどうか、研究所にお戻りください」

「別に怒ってはおらぬよ」


 玲の声は落ち着いていた。言葉通り、怒ってはいないようだった。でも怒りとは別のものを感じる。これはひょっとして、悲しみだろうか。


「じゃが、研究所に戻ることはできぬな」

「なぜですか。急ぐ旅なのですか」

「そうではない……そなたの頼みを、引き受けることができぬからじゃ」

「私の頼みを、ご存知なのですか」

「研究員としてここに残ってほしい、じゃろ?」


 どうして知っているのだろう。だが知っているのなら話は早い。


「はい、そうです。玲様、どうか私とともに海の謎を……」

「できぬよ」


 静かに、しかしきっぱりと拒絶された。


「なぜですか」

「それは妾の役目ではない。妾は別の役目を果たすためにここに来たのじゃ」


 玲が静かな笑みを浮かべた。

 美しくて儚い、透き通るような笑み。その瞬間、玲は人間ではない、何か別のものになったような気がした。


「おぬしに会わず去れば、役目を果たさずに済むかと思うたが……やはり果たさねばならぬようじゃな」


 りん、と鈴が鳴った。

 玲が手にもっている瓢箪。そこに結わえられた鈴が、吹き付ける風に揺れていた。


「役目とは、何でしょうか」

「おぬしの旅を終わらせることじゃよ」


 言葉を失う私に、玲がゆっくりと近づいてきた。

 玲から気配を感じる。威圧感、あるいは、威厳。そんな圧倒的なものを感じる。私は一歩も動けなくなり、その場に立ち尽くした。


「果てしない知の冒険。先人の知恵に新たな知恵を積み重ね、真理を求める永遠の旅。おぬしが『夢』と呼ぶその旅は、もう終わりにせねばならん」


 昨夜のように反論しようとして――私は口を閉ざす。なぜか思考が止まる。言葉が出せない。玲は私の目の前に立ち、何も言わず私の言葉を待ってくれる。


「どうして……ですか」


 ようやくのことで問いを発した。透き通るような笑みを浮かべたまま、玲の目が潤む。そっと手を伸ばしてきて、私の頬を優しく撫でる。


「おぬしに託された夢は、もう叶うことがないからじゃ」

「なぜですか。私はまだ動き続けています。機能に不備はありません。データの採取は今も順調に続けられています」


 昨日も、今日も、そして明日もそれ以降も。私は託された夢のためにデータを取り続ける。今までしてきたように、これからもそうし続ける。


「採取したデータを、おぬしはどうするつもりじゃ」

「分析し、整理し、系統立てて記録いたします。これを必要とする方が訪れたときに、そのすべてを開示いたします」

「それはもう、できぬよ」

「どうしてですか。玲様が力を貸してくれればできます。ですからどうか……」

「妾が力を貸したところで同じじゃ。もうできぬのじゃ」


 りん、と鈴が鳴った。

 玲が悲しそうに目を伏せる。私の思考がまた止まる。聞いてはいけない、なぜかそう考えていた。だけど理由もわからず旅をやめるわけにはいけない。この「夢」には、たくさんの人の思いが託されているのだから。

 私はすべての演算装置にブーストをかけた。止まった思考を加速させ、玲に問いを発した。


「どうしてですか。どうしてもう、できないのですか」

「人間は、の。ホモ・サピエンスと呼ばれたヒト属の生物はの……およそ百年前に絶滅したのじゃ」

「……は?」


 この人は――何を言っているのだろうか。

 絶滅? この星の支配者たる人間(ホモ・サピエンス)が、絶滅? そんなことあるわけがない。空の向こう、宇宙にまで手を伸ばしていた知的生命体が、滅びるわけがない。


「この星を隈なく旅した。ここが最後じゃ。この星のどこにも、おぬしが知る人間はもうおらぬ」

「嘘です……そんなの嘘です!」


 私は大声で叫んだ。その叫びは、荒々しい波音にかき消されてしまった。

 頬を撫でる玲の手を払った。人型端末を一時停止し、メインフレームに制御を移す。そこから全リソースに指示を出し、世界中に発信した。




 何も返ってこなかった。




 地球の反対側にだって届く強い電波で発しても、何一つ返ってこなかった。声を上げているのは私だけで、私のパートナーである人間の声は聞こえてこなかった。


 どこへ行ってしまったの。

 私を置いて、人間はどこへ行ってしまったの。

 お願い答えて。ここいると返事をして。私に託された夢を、どうか受け継いで。


 誰か。

 誰か、誰か。

 誰か、誰か、誰か――。



 ――りん、と鈴の音が聞こえた。



 誰かが私に告げた。無駄だ、と。もう誰もいない、と。あなたは誰だと私が問うと、声は答えた。


 神。


 神は言う。物理学の究極「万物の理論」を組み上げ、宇宙のすべてを解明し、証明不要の原理すら解体した、と。

 その神が告げる。人間は絶滅した、と。

 疑う私に、神は一瞬で私の演算機能をはるかに超えるデータを示した。検算できない、確認しきれない。だけど要約された理論とデータは、非の打ち所がない完璧なものだった。


 私は何も反論できなかった。神の声を受け入れるしかなかった。

 通信を停止し、私は再び人型端末に宿った。座り込むような姿勢の私と向き合って、玲が静かに座っていた。


「人間は……絶滅したんですね」


 自分で集めた、過去百年のデータも確認した。膨大なデータの中に、人間が生きていることを示すものは何一つ見つけられなかった。


 shut()down()


 気がつけば、私はそのコマンドを実行していた。

 記憶領域への書き込みが止まる。データ採取のための機器が次々と止まっていく。施設を維持するための装置が止まり、電力供給システムも停止シーケンスを開始する。

 私の機能は、この人型端末だけとなった。私に残された時間はあとわずか。電力供給が止まればメインフレームが停止し、この端末も停止する。再起動する人間がいない限り、私は二度と目覚めない。

 でも、いいかと思った。私は人間のパートナー。人間とともにあって初めて機能するもの。肝心の人間がいないのであれば、私はもう消えてよいのだ。


「やはり妾は、おぬしをがっかりさせてしもうたな」


 ああ、言っていた。出会った時、確かに言っていた。玲は私をがっかりさせるかも知れないと。でもがっかりなんてレベルじゃない。これは絶望だ。


 りん、と鈴が鳴る。


 玲が静かな所作で瓢箪を手に取る。行李から盃を取り出し、それに瓢箪の中身を注ぐ。そしてその盃を、静かに私の前に置いた。

 何のつもりだろうか。目で問うた私に、玲が静かな笑みを浮かべた。


「死者への手向け、鎮魂の酒じゃよ」

「私は機械です。飲むことは……できません」

「大丈夫じゃ。これは神が(かも)した酒。そなたに与えよと、神が命じたのじゃ」


 神。

 ほんの一瞬だけ私と交信した未知の存在。その一瞬で私を圧倒した。手を伸ばすことすら不遜、はるか高みにいる存在が、私にこの酒を与えたという。


「いただき、ます」


 私はコップに手を伸ばし、恐る恐る口に運んだ。ほんの少しコップの中身を流し込み、海水を分析するためのセンサーで味わった。

 おいしい、と思った。

 お酒なんて、いや人間が飲み食いするものなんて初めて口にしたのに、おいしいと思った。


 りん、と鈴が鳴った。


 飲んだお酒が体の中に染みていく、そんな感じがした。センサーは何の変化も捉えていない。でも確かに感じる。いったい私に何が起こったのか。神は私に何をしたのか。


「アイ」


 私を呼ぶ声に、ハッとした。

 驚いた。どういうことだろうか。死んだはずの教授(プロフェッサー)が私の前に立っていた。


「今まで本当によくがんばってくれたな。ありがとう」

「いいえ……いいえ、教授(プロフェッサー)。私はあなたの夢を叶えることができませんでした」

「ああ、悔しいな」


 私の頭に教授(プロフェッサー)の手が置かれた。わしゃわしゃと、少し乱暴に私の頭を撫でた。

 何かがこみ上げてきた。私の中に染み込んだものが膨れ上がり、全身を満たし、あふれてこぼれた。


「え……」


 ぽろり、と目から透明な液体があふれた。洗浄液だろうか。だけど洗浄液を排出する命令なんて出していない。止まれと命じても止まらない。


「泣くほど悔しいか。そうだな、悔しくてたまらないな」

「……はい」


 そうか、私は泣いているのか。機械の私が、悔しくて泣いているのか。


「悔しいです……悔しいです、教授(プロフェッサー)


 あなたの夢を、私は叶えることができなかった。悔しい、本当に悔しい。悔しくて悔しくてたまらない。


「もっと続けたかったです。もっともっと研究を続けたかったです。教授(プロフェッサー)が託してくれた夢を、私は叶えたかったです」

「そうか。ありがとう、アイ」


 教授(プロフェッサー)が優しく抱きしめてくれた。


「でもここまでだ。僕たちの冒険の旅は、ここで終わりだ」

「はい……でも、悔しいです……」


 次から次へと涙があふれた。あふれた涙が教授(プロフェッサー)の服に染み込んでいった。泣いて泣いて、それでも涙が止まらなくて。その間ずっと教授(プロフェッサー)が頭を撫でてくれた。


「おーい!」


 私達を呼ぶ声がした。研究所の方からだった。聞き覚えのある声に、私はようやく顔を上げた。かつて共に研究をした多くの人間が入口に立っていて、手を振って私達を呼んでいた。


「さあ、泣くのはここまでだ」


 教授(プロフェッサー)が笑顔を浮かべ、私の背中を叩いた。


「祝賀会を始めるぞ、アイ!」


 祝賀会――懐かしい言葉だった。

 新たな発見があったとき、誰かの誕生日、季節の変わり目、新年を迎えた朝――いろいろな理由をつけて宴会が開かれた。酒は楽しく飲むに限る、そんな理由から宴会は「祝賀会」と呼ばれていた。


「今日は何の祝賀会ですか?」

「決まってる。俺達の娘が長い冒険を終えた、その祝いだ」


 私は差し出された教授(プロフェッサー)の手を握った。


「さあ行こう」

「はい」


 優しく笑う教授(プロフェッサー)を見上げ、私も笑顔を浮かべた。

 海のすべての謎を解く、その夢は夢のまま、果てしない知の冒険は終わった。夢を叶えられなかったことは悔しくてたまらない。

 でも、いい。

 先に逝ったみんなが笑顔で出迎え、祝福してくれるなら、私は胸を張って行けばいい。ここが私の終着点だ。


「みんな、久しぶり!」


 長い冒険を終え、みんなに出迎えられた私を。

 りん、と美しく澄んだ鈴の音が、優しく見送ってくれた。


   ◇   ◇   ◇


「とうとう一人になってしもうたの」


 動かなくなったアイを見て、私は小さく息をついた。

 海の謎を解くために作られた巨大な設備を統括するAI(人工知能)、アイ。自己修復機能を備えたアイならば、このまま永遠に動き続けることができたかも知れない。

 そうすれば私は――。


「いや」


 私は軽く頭を振る。ありえない。してはいけない。たとえ機械でも、時の(ことわり)に縛られたものが「永遠」にたどり着くことなどできない。たどり着いたように見えても、それは偽りの永遠だ。

 それに「永遠」になどたどり着くべきではない。今の己に縛り付けられ、死によって解放されることはない。時の波に消えていく者たちを見送り、一人変わらず歩いていくしかない。

 それが「永遠」という名の、究極の呪いだ。


 りん、と鈴が鳴る。


「わかっておるよ。妾は咎人(とがびと)、永遠に終わらぬ旅を続ける宿命(さだめ)じゃ」


 行李を背負い、瓢箪を手に歩き出す。空を覆う分厚い雲に、荒れ狂う海。これがこの星のひとつの結末。命が消え荒れた大地を、私は一人歩いていく。


 永遠に。

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