第119話 誤認逮捕(1)
夏休みも間近に控えた、七月中旬。その日、僕はドラッグストアで万引きGメンの仕事をしていた。
誤認逮捕を恐れて萎縮していては、黒木をおびき出せない。そのためここ最近は、今まで以上に精力的に活動している。大型掲示板の万引き情報を扱ったスレッドに『ここの地域はガーディアンがいるから万引きするな』と書かれているぐらいだ。黒木の目が節穴でなければ、僕がこの地域で活動していることは分かっているだろう。
――そろそろ、黒木がやってくるかもしれないな。そんな期待を胸に、今日も仕事をする。
このドラッグストアでは、平均して一日十人ぐらいの万引き犯を捕まえている。いくら僕の活動範囲が掲示板に書かれているといっても、知っているのはディープな世界の人たちだけだ。軽い気持ちで万引きをする人はガーディアンの活動範囲なんて知らないから、万引き被害が減ることはない。そのおかげで仕事があるワケだけど、複雑な気持ちである。
今日真っ先に目をつけたのは、六十代ぐらいの女性だった。何を買うでもなく、同じところをウロウロとしている。典型的な万引き犯の動きだった。
実は万引き被害は、六十代以上が四割を占めていると言われている。S.G.Gのデータベースによると、高齢だと生活の困窮感や認知機能の低下から、万引きに走りやすいのだという。つまり初心者のGメンは、高齢者に目をつけるだけで逮捕率が上がるというワケだ。
なおも同じ場所をウロウロしている女性にターゲットを絞り、追跡していく。するとその女性は化粧品を手に取り、それを腕にかけているバッグに押し込んだ。間違いなく万引きをした瞬間だった。
――朝から、幸先がいいな。
そう思いながら、女性が店を出たタイミングで声をかける。声をかけた瞬間、女性はビクッと身体を震わせた。
「……なんでしょうか?」
女性は振り向くと、僕に向かって怪訝そうな顔を見せた。目じりを人差し指で掻いてから、続ける。
「ですから、お会計していない品物がありますよね?」
僕の言葉に、女性はゆっくりと、しかし力強く首を横に振った。この女性は『とぼけるパターン』か、と思った。
万引き犯に声かけをした場合、反応は大きく三つに分かれる。とぼける人、諦める人、逃げる人。高齢者、特に女性の万引き犯は、声をかけた直後に諦めるケースが多い。しかしこの女性は違うようだ。
「とにかく、事務所に行きましょう。そこで詳しく話を聞きますから」
依然として犯行を否定する女性を、半ば無理やり事務所に連れていく。どれだけとぼける万引き犯でも、事務所で盗んだ物を取り上げたら、諦めて自供する。この女性も、きっとそうだろう。
事務所に連れて行き、店員と一緒に取り調べをする。椅子に座った女性は、それでも頑なに「何も盗んでいない」と強く主張した。
「月之下さん。何を盗んだか、見ていますか?」
業を煮やした店員が、女性ではなく僕に質問してくる。僕は自信満々に「化粧品を、その手提げバッグに入れていました」と説明した。
「もしやっていないと言うのであれば、その手提げバッグ、見せていただけますね?」
店員がテーブルの上に置かれた手提げバッグを掴もうとすると、女性が大きな声で「嫌です」と抵抗した。
「私物を、どこの馬の骨ともわからない人には見せられませんっ」
その女性の反応に、店員は大きなため息をついた。そして後頭部をガリガリと爪で掻きながら、僕に向き直る。
「とりあえず、俺は店長を呼んできます。月之下さんは仕事に戻っていただいて結構ですよ」
どうやらここから先は、店員が対応してくれるらしい。僕は頭を下げると、事務所から出ていった。
事務所から出てドアを閉めると、少しだけ大きく深呼吸をした。犯人を問い詰める瞬間は、いつまで経っても慣れない。犯人が高齢者であればなおさらだ。
気分を入れ替えるために、肩をグルグルと回しながら店内に戻る。黒木をおびき出すためにも、まだまだ万引き犯を捕まえていかなければ。
結局それから、二時間で五人もの万引き犯を捕まえることに成功した。この店はレイアウトの関係上、万引き被害が多発しやすいらしい。有城さんに言ってセキュリティコンサルの対応をしてもらってもいいかもな、と思いながら休憩するために事務所に戻る。
すると、事務所から大きな物音が聞こえてきた。廊下まで響くぐらいだから、よっぽど大きいらしい。
犯人が暴れているのかな? と思いながら、事務所のドアを開ける。そこには数人の男女と、例の高齢女性がいた。思わず「えっ」と声が漏れる。
「……まだ、取り調べしていたんですか?」
近くにいた店員に声をかける。二時間前に一緒に高齢女性を取り調べした店員だ。その店員は僕を見るなり、血相を変えて近寄ってきた。
「月之下さん、大変ですっ」
店員の声を聞きつつ、事務所内を見渡す。するとあることに気付いた。ここにいる男女たちは、みな警察官の制服を着ていた。
「さっきの高齢女性ですが……ずっと黙秘するんで、埒が明かなくなって警察を呼んだんです。そしたら――」
店員がゴクリ、と唾を飲み込む。「そしたら、どうしたんですか?」と聞こうとしたとき、テーブルに目がいった。テーブルの上には、手提げバッグが広げて置かれている。どうやら中身を全部取り出してテーブルの上に置いているようだった。そしてそのテーブルの上に、化粧品はない。ゾクリ、と。嫌な予感が全身を駆け巡った。
「――化粧品を盗んでいないことが、判明しまして」
嫌な予感が、的中した。僕は一目散にテーブルに駆け寄った。そして手提げバッグに入っていたものを確認する。財布、キーケース、水筒、使いかけの化粧品が入ったポーチ――。僕が目撃した、箱に入った化粧品はそこになかった。そんなハズはない。化粧品の入ったポーチの中身をよく確認する。盗んだと思われる化粧品はない。
目の前の視界が揺れるような気がした。いつの間にか呼吸も苦しくなっている。喉の奥に何かがつかえているような、そんな感覚。口で息ができないならと鼻で呼吸を、と思っても、鼻すら詰まっている。
「月之下さんですね。お噂はかねがね。――いやぁ、女性警官の方で身体検査もしたのですが、何も見つからず。この女性は潔白だと発覚しました」
僕の近くに立っていた警官が、申し訳なさそうに言う。僕は大きく首を振りながら、その警官の顔を睨みつける。
「そっ……、そんなハズは、ありません。きっとどこかに――」
高齢女性に近づこうとした僕のことを、近くの警官が制止する。
「先ほども言ったように、すでに身体検査は済んでいます。これ以上は違法捜査になりますので、おやめください」
そんなハズはない。そんなハズは。声にならない声を呟き続ける。僕は確実に、この高齢女性が化粧品を万引きする瞬間を見た。絶対に何か、カラクリがあるハズだ。
「――この女性のことを、あなたはずっと監視していましたか?」
ある考えが浮かんだ僕は、店員のことを睨みつける。店員は一瞬たじろいだ後に「もちろんです」と答えた。
「本当ですか? 一瞬も、ひと時も目を離さず、ですか?」
「……いったい、何が言いたいんですか?」
店員が、いよいよ不快な顔を見せてくる。しかし僕はためらわず、自分の推理を述べる。
「もし一瞬でも目を離していたんだとしたら、どこかに盗んだ化粧品を隠した可能性があります。その可能性はないと、あなたは断言できますか?」
「ちょっと待ってくださいよ。一瞬ぐらいは目を離したと思いますが、それでもここからは離れていません。この事務所内のどこに、化粧品を隠せるっていうんですかっ」
店員が大きく両腕を広げながら反論する。たしかにこの事務所はこざっぱりしている。もともと打ち合わせやモニターの確認に使うような部屋だから、荷物も少ない。しかし、それならどういうことなのか。
「月之下さん。もう諦めましょう。あなたは誤認逮捕をしてしまった。ただ、それだけの話です」
警官が僕の肩をポンっと叩く。そして高齢女性に向き直ると、深く頭を下げた。
「この度は、大変申し訳ございませんでした。もうお帰りいただいて結構です」
その言葉に続くように、他の警官たちも頭を下げる。少し遅れて、店員も頭を下げた。高齢女性はわざとらしく大きくため息をつくと、僕のことをキッと睨みつけてきた。
「まったく、失礼しちゃうわ。ただ買い物していただけなのに、万引きしてるだなんてイチャモンをつけられて。もう二度と、こちらのお店には来ませんからね」
そう言うと、高齢女性はテーブルの上に散乱している私物を手早くまとめて、勢いよく立ち上がった。椅子をガタガタと引きずっているところが如何にもわざとらしい。
その様子を呆然と眺めていると、警官が僕を肘で小突いてきた。そして小声で「謝罪、してませんよ」と耳打ちしてくる。その言葉にハッとした。
「……この度は――」
納得いかないながらも頭を下げようとしたとき、視界にノートパソコンが見えた。AIFRSのソフトが入って、監視カメラと接続されている。このノートパソコンなら、生体認証システムが使える。まだ改修中でリアルタイムでの認証はできないけど、時間をかければ黒木の生体情報との照合が可能なハズだ。
「その前に、AIFRSとの照合をさせてください。この女性は黒木勘五郎の可能性がありますっ」
ノートパソコンに近づこうとしたとき、ガッと肩を掴まれた。振り向くと、警官が険しい表情をしている。
「月之下さん、いい加減にしてくださいっ。相手は女性です。確実に無実な市民を言いがかりで捜査するなんて、認められません。公になったら大問題になりますよっ」
「し、しかし――」
なおもノートパソコンに近づこうとしたけど、複数の警官に取り押さえられた。これ以上の強行は無理だと悟り、しぶしぶ矛を収める。
「どうぞ、あなたはお帰りください。出口までお送りいたします」
警官が、高齢女性を案内する。他の警官に連れられて、僕もそれについていった。裏口から外に出るなり、高齢女性は大きく息を吸った。
「みなさーんっ! ここのお店は、普通のお客さんを捕まえて、万引き犯だと言いがかりをつけてきまーすっ! しかも捕まえてきたのは、いま話題の月之下アキラ――」
高齢女性がそこまで言ったところで、警官が慌てて制止した。裏口とはいえ声が大きかったので、次第に周囲の客が近づいてくる。そんな中、僕は警官に連れられて歩いていく高齢女性のことを、黙って眺めていることしかできなかった。