第107話 綾乃の確保(8)
目が覚めると、背中に硬い感触があることに気付く。自分がソファーで寝ていたことに気付いたのは、それから数秒経ってからだった。
目を擦りながら、スマホで時間を確認する。今は午前二時。まだまだ真夜中だった。
「……寝直すかぁ」
頭を掻きながら、立ち上がって水を飲もうとしたとき、ふと違和感に気付いた。薄暗くてよくは見えないけど、寝室の襖が少し開いていたのだ。寝る前に僕が片瀬さんを寝かしたときは、たしかに襖をちゃんと閉めたハズだった。
嫌な予感がして、ゆっくりと襖を開けて中を見る。中では片瀬さんがひとりでベッドに横たわっていた。寝息が聞こえるから、まだ寝ているようだ。しかしそのベッドに、綾乃の姿はなかった。
――まさかっ。
最悪の事態が頭に浮かんで、僕の頭は一気に覚醒した。一目散に玄関に向かう。そして靴を履こうとしたときに、あることに気付いた。綾乃の靴が変わらず玄関に置いてあったのだ。
おかしいな。靴があるってことは、外には行っていないハズだ。もしかしてお風呂とかトイレにいるのだろうか。そう思って廊下を引き返すも、綾乃の姿は見えない。そこまで部屋数の多い家じゃないから、姿が隠れる場所なんて限られているんだけど。
不思議に思いながらリビングに戻ると、ベランダの窓のカーテンが少し開いていることに気付く。ここはマンションの六階だ。落ちたらひとたまりもない。またもや最悪の事態を想像してしまった僕は、ベランダに駆け寄った。勢いよくカーテンを開ける。ベランダでひとり立っている綾乃の姿が見えた。
「あや――」
名前を叫びかけて、途中で思い直す。綾乃が何をするでもなく、ただ夜空を見上げているだけなことに気付いたからだ。どうやら飛び降りとか、そういうことをするワケではなさそうだった。ホットした僕は、静かにベランダの窓を開けた。
「綾乃。なにしてるの?」
ベランダの窓を開けると、真冬の冷気が身に染みる。夜中の寒さは一段と厳しい。
「……アキラくん。ごめんなさい、起こしちゃった?」
綾乃はゆっくりと振り返ると、僕を見て申し訳なさそうに言った。
「いや、そんなことないよ。……いつからここにいるの?」
「三十分ぐらい前かな? いつもより早く寝たから、なんだか目が覚めちゃって」
そう言って綾乃は笑みを作った。綾乃の表情が、真夜中の月明かりに照らされる。
「三十分って……こんな寒い日に外に出てたら、風邪引いちゃうよ」
僕もさっきの綾乃のように、夜空を見上げた。いくら真夜中であっても、東京ではあまり星は見えない。
「そうなんだけど、ちょっとひとりで考え事をしたくって。最近……ゆっくりできる時間がなかったから」
「……そっか」
そうとだけ言って、ベランダのフェンスにもたれかかる。綾乃が何を考えているのか知りたかったけど、ここで聞くのは失礼な気がした。
それからしばらく、無言の時間が過ぎる。ときどき通る車の音が、やけに大きく聞こえた。
「……あのね、アキラくん」
突然、綾乃が僕に向き直って名前を呼んだ。「なに?」と優しい声音で返事をする。
「わたしのことを見つけてくれて、ありがとうね」
そう言って綾乃は、少し寂しい表情で笑みを作った。
「とんでもないよ。だって僕たち、同じチームメイトなんだから」
僕が言うと、綾乃は嬉しそうに笑ってから、僕の隣までやってきてフェンスに寄り掛かった。
「わたし、この数週間、本当に辛かったんだ。みんなに事情を話せばわかってくれると思った。でもわたしは逃げちゃったから、話すような機会も作れなくって。だから逃げてたの。その間、ずっと孤独だった。ひとりだった」
途中から綾乃の声が涙交じりになっていることに気付く。僕は心なしか、綾乃に肩を寄せた。
「でも昨日、アキラくんから『待ってるよ』って言われて……わたし、泣いちゃうぐらい嬉しかったの。でも自分から名乗り出る勇気もなくって、それで本当は悪いことなんだけど、駅の近くで万引きしたら、アキラくんが見つけてくれるんじゃないかなって、期待して……」
綾乃が肩を震わせる。肩が触れ合っているから、その鼓動が僕まで届く。
「こんなわたしのことを見つけてくれて、ほんっとうにありがとう。ドラッグストアでアキラくんに肩を叩かれたとき、死んじゃうぐらい嬉しかったよ」
そんなことを涙交じりに言う綾乃に対して、かけるべき言葉を見失う。少し考えた結果「どういたしまして」とだけ声を出した。
「きっとわたし、これからいっぱい大変なことがあると思うの。お父さんにも捨てられちゃったし。……でも、アキラくんたちと一緒なら、きっと乗り越えられるって、そんな気がするんだ。……だから」
――これからも、よろしくね。
真横にいる綾乃は、そう言って僕のことを見上げてきた。僕は少し満足そうに、力強く頷いてみせた。
そこからホットミルクを淹れて、少しの間ベランダで語り合う。冬の寒さは厳しかったけど、綾乃といれば不思議と心は温かかった。
綾乃は思ったよりも、雄弁に過去のことを語ってくれた。自分がどういう子どもだったのか、どういう夢があったのか。普段はあんまり自分のことを語らない綾乃にしては、少し珍しい気がした。自分がデモニッシュの関係者であることがバレて、どこか吹っ切れたのかもしれない。
「わたし子どもの頃は、ピアニストになりたかったんだよね。アキラくんはそういう夢とかあったりした?」
「うーん、どうかなぁ。今もそうだけど、子どもの頃とか、何も考えずに生きてきたから。夢があった綾乃はすごいよ」
言いながら笑う。実際それは本当だった。片瀬さんに出会う前は、S.G.Gみたいに打ち込めることもなかったし。
「全然だよ。夢があったって、結局叶えられなかったら意味がないから。……でも、新しい夢は絶対に叶えたいな」
「新しい夢? どんなのなの?」
僕の質問に、綾乃はいたずらっ子っぽく「聞きたい?」と問いかけてきた。「もちろん」と答える。
綾乃は少し勿体つけるように間を空けてから「本当の家族を作ること」と言った。
「――本当の、家族?」
意外な夢が飛び出してきて、思わず聞き返す。てっきり音楽関係か、S.G.Gに関する夢だと思っていた。家族を作ることなんて、随分とささやかな夢だ。
「そう。本当の家族。わたしさ、本当の家族がいないんだ。だって実の両親は死んじゃってるし、引き取ってくれた両親にも捨てられたから。お父さんは今まで育ててくれたけど、結局捨てられちゃったし、多分ずっとわたしのことが嫌いだったんだと思うの」
その綾乃の独白を聞いて、僕はさっき「ささやかな夢」と思ってしまったことを恥じる。今までの綾乃の十七年間のことを思えば『本当の家族を作ること』は決して些細な夢ではないのだ。家族に恵まれている僕にはわからない想いが、綾乃にはある。
「……綾乃だったら、きっと作れると思うよ。新しい家族が」
僕は綾乃に、囁くように言う。嬉しかったのか、綾乃は僕の肩に頭を預けてから「ありがとう」と笑みをこぼした。
「でもさ。綾乃はさっき『お父さんに嫌われてた』って言ったけど、それは違うと思うよ」
僕はこれまでの話で、一番腑に落ちなかったことを綾乃に告げた。綾乃は不思議そうに「え?」と目を見開いている。
「だって綾乃のことがもし嫌いだったら、高校生になるまで育ててないよ。それに綾乃って、昔からピアノをやってたんでしょ? それに受験勉強をして、お嬢様学校にだって通えてる。もし本当に綾乃のことが嫌いだったら、そんなお金と手間がかかること、しないと思うよ」
綾乃はハッとしたような表情を一瞬して、すぐに真顔に戻った。そして首を横に振りかけて、止まる。
「……どうなんだろ。そうだったら、良いんだけど」
綾乃は小さい声で、寂しそうに言った。僕の言葉が、どれだけ綾乃の心に響いたのかはわからない。そうは言っても黒木に人生を台無しにされたのは事実なんだから「キレイごとだ」と思われたのかもしれない。
ただ僕は、デモニッシュの幹部格である黒木が、綾乃のことを嫌っていたとは、どうしても思えなかった。