第102話 綾乃の確保(3)
このドラッグストアの事務室はそんなに大きくない。デスクとイスが二つと、書類を保管する棚が一つ。それが置いてあるだけでも既に窮屈なのに、おまけに段ボールがいくつも山積みにされている。デスクにはモニターが二枚設置されてるから、物を置くスペースも少ない。
そんな狭い空間で、僕と片瀬さんは綾乃と対峙する。綾乃はイスにもたれかかり、俯いている。僕たちの後ろでは店長が、心配そうにその光景を眺めていた。
「この度はご協力ありがとうございます。後のことは、我々S.G.Gが対応させていただきます」
片瀬さんが店長に頭を下げる。店長は片瀬さんと僕を見比べてから「えぇ、分かりました」と頷いた。少し怪訝そうな顔をしているのは、僕が綾乃を捕まえたときに泣いてしまったからだろう。
「それと……今回の件は可能であれば、まだ警察には通報しない方針で考えているのですが……いかがでしょうか?」
片瀬さんの提案に、店長は少し考えるように顎に手をやってから、ゆっくりと首を縦に振った。
「それも構いませんよ。S.G.Gの方に全面的にお任せしますので。それでは、何かありましたらお呼びください」
店長は僕たちに会釈をすると、事務室を出て行った。これでこの場は、スパークルの三人だけになる。
なおも沈黙を保ったままの綾乃の前にあるイスに、片瀬さんが静かに腰をかける。そして少し前屈みになって「久しぶり」と笑顔で言った。
「これからわたしが言うことは、綾乃ちゃんが失踪中に調べたことです。もし間違っていることがあれば、言ってね」
前置きをしてから、片瀬さんがこれまで調査した内容を話す。綾乃がデモニッシュの関係者であること。黒木勘五郎が養親であること。その他諸々。話を聞いている最中も、綾乃はうなだれたままだった。
「……どうかな? 間違っていたところ、あるかな?」
すべてを話し終えたあと、片瀬さんが綾乃に問いかける。その声色は優しくて、まるで幼稚園の先生が園児に話しかけるような口調だった。
「……いえっ」
しばらくの沈黙のあと、ようやく綾乃が重い口を開く。僕は綾乃の言葉を聞き逃すまいと、全神経を耳に集中させた。
「ほとんど……合っています」
ポツリと。綾乃が呟くように言う。それは自身がデモニッシュの関係者であると認める、ある種の自供だった。
フゥーっと息を吐きながら、僕は天井を見上げる。蛍光灯の明かりが目を刺激し、思わず瞼を閉じる。
これまで僕は、綾乃は潔白だと思うようにしていた。しかしそれは苦難の道だった。なにせ、綾乃がデモニッシュの関係者だと示唆する証拠は、これでもかとあるのだから。
そんな苦難の道から、ようやく解放された気がしていた。気分が晴れ晴れしている。
「そっか。答えてくれて、ありがとうね。……辛かったよね」
片瀬さんが綾乃の肩に、ポンっと手を置く。すると嗚咽が聞こえてきた。片瀬さんの背中で見えないけど、その嗚咽が綾乃のものであることは、すぐにわかった。
「綾乃ちゃん、皮膚の薬を盗んでいたみたいだけど……どこか悪いの?」
片瀬さんがデスクに置いてある薬を手に取る。それはさっき綾乃が万引きしたものだった。どうも皮膚炎の治療に使う医薬部外品らしい。
「ちょっと、身体が、痒くって……」
泣きじゃくりながら、綾乃が答える。「どこが痒いの?」と片瀬さんが聞くと、綾乃は小声で耳打ちした。この位置では僕には聞こえない。
「ちょっと月之下くん、あっち向いててもらえる?」
片瀬さんに言われて、僕はすぐに後ろを向いた。多分服の下に湿疹があるんだろう、と察したからだ。
布の擦れるような音がしたあと、片瀬さんの「わっ」という驚くような声が聞こえた。反射的に振り向きそうになるけど堪える。
「すごい赤くなってるじゃない! 市販の薬じゃなくって、早く病院に行った方がいいよっ」
片瀬さんが大きな声で言う。綾乃の「はい」という、か細い声も聞こえてきた。話から察するに、綾乃は皮膚病を抱えたまま逃走していたのだろう。お金がないのなら病院にも行けない。薬も買えないから、万引きするしかない。そんな綾乃の心境を想像すると、胸が苦しくなった。
それから片瀬さんは、綾乃に色々な話をした。最近寒くなったね、とか。この間スパークルでクリスマス会をすることになったんだよ、とか。万引きやデモニッシュのこととは関係のない話ばかりだった。
きっと片瀬さんなりに、綾乃のことを落ち着かせようとしているのだろうと、途中で気付いた。なぜならこれから、綾乃は小畑さんたちをはじめとして、色々な人たちにこれまでのことを説明しないといけないのだから。
――僕たちだけでも、綾乃の絶対的な味方にならないといけないな。拳を握りしめて、僕はそう決意した。
そして片瀬さんが綾乃と雑談を始めてから三十分後、小畑さんが事務室にやってきた。駐車場からここまで走ってきたのか、少し息があがっている。
「よぅ。……まずはお手柄だったな」
小畑さんは事務室に入るなり、ドアの近くにいた僕の肩を叩いた。そして座り込んでいる綾乃に視線を向ける。
僕はそんな小畑さんの動きを、ジッと見つめていた。正直、小畑さんが綾乃にどんな対応をするのか予想もつかない。なにせ小畑さんにとって綾乃は、フィアンセを奪って、なおかつ自身をGメンとして再起不能にした仇なのだ。
いくら小畑さんでも、怒りに身を任せ何をしでかすか、わからない。何かあった時に綾乃を守るのは僕の使命だと自分に言い聞かせながら、身構える。
「"あの日"ぶりだね、駒崎くん」
しかし小畑さんは僕の予想と反して、優しい声音で綾乃に話しかけた。話しかけられて一瞬ビクッと肩を振るわせた綾乃も、不思議そうにゆっくりと顔を上げた。
「何も俺は、キミを取って食おうとはしないよ。諸悪の根源はデモニッシュだ。キミは被害者だとすら思ってる」
小畑さんはゆっくりとしゃがみ込むと、イスに座っている綾乃と目線を合わせた。
「――だから、すべて正直に話してもらえるね?」
小畑さんの言葉に、綾乃は静かに頷いた。