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ゲボッと咳と共に、気泡混じりの血液が口から零れた。
確か肺に出血があった時、こんな風に気泡、空気が混じった赤い血が口から出る。
あぁ、うん、右肺が破れたのだろう。
僕は自分の右胸に突き刺さった杭に似た漆黒の触手を見ながら、まるで他人事の様な感想を抱く。
その触手が伸びているのは、今まさに真っ二つにしようとしていた、地に倒れた魔王の腹から。
にも拘らずその触手の主は、魔王とは全く別の気配の持ち主で、一瞬動きを察知するのが遅れて攻撃をまともに受けてしまった。
「よもや、卑怯等とは言わないだろうね?」
この結果が気に食わないとばかりに顔を顰めながらも、魔王はそんな言葉を口にする。
勿論、そんな事は当たり前だ。
これを卑怯と罵るは、自分の間抜けさを大声で喧伝するも同じだろう。
負ったダメージ、特に肺が傷付いて呼吸が狂った為、制御の甘くなった霧が少し薄くなる。
たった一手で、決着を急いで詰めを誤ったが故に、状況は絶望的に悪化した。
でもまあそれは良い。
自分のミスだから、仕方の無い事だ。
けれども抱いてしまった疑問、この攻撃を繰り出した主は、一体どこから湧き出したのかは知りたい。
慎重に気配を探ってみれば、ずっと一つだと感じて居た魔王の巨大な気が、先程の攻撃を切っ掛けに、内部で無数にわかれて蠢いている。
あぁ、つまりそう言う事か。
姿に見合わぬ巨大な質量と熱量は、元より一人分ではなかったのだ。
貪食大海魚や、その特殊個体である暴食王、或いは空怪蛇がその身の内に多くの兵を搭載している様に、魔王もまた同じであった。
「あぁ、そう言う事だよ。今、この身には、マガラの精鋭、近衛兵百余名が宿ってる。どうやら彼等は、我が身を地に伏せさせた不遜な君が、腹立たしくて堪らないらしい」
胸を貫いた触手が大きく振られて、僕の身体は大きく放り投げられる。
そして魔王の腹から這い出して来たのは、どうやって収納されていたのかもわからぬ、体長七、八m程の巨大な黒い烏賊の化物だ。
更に更に、人の姿をした魔族も、粘液体の魔族も、蛇の様な、馬の様な、虎の様な、猪の様な、様々な姿の魔族が次々と魔王の身体から湧き出し並ぶ。
成る程、確かに魔王の言葉通り、その誰もが強い怒気を身に纏う。
全く以って厄介で、とても嫌な展開だった。
先程まではあんなに楽しかったと言うのに、血と一緒に熱が流れ出たせいか、今はとても頭が冷えてる。
出て来た魔族、マガラの精鋭とやらは凡そ三十。
つまり魔王は己の三分の一近くを切り離して外に出したと言う訳だ。
保有する質量と熱量こそが力の源である魔王にとって、それは明らかな弱体化だろう。
だがそれでも配下を切り離して外に出したのは、手負いの獲物、つまり僕を逃がさぬ様に手を増やす為。
まぁ実に舐められた物である。
確かに片肺を潰されて呼吸が狂い、術の制御は甘くなったし、受けたダメージに身体の動きも鈍い。
不利は決して否めない状況ではあるけれど、まさか今更逃げようものか。
城の上空では未だにエルドラが派手に戦っているし、その他にも大きな気のぶつかり合い、魔族の特殊個体と白黒仙や幸歌仙が戦っているのも感じる。
他にも島の彼方此方で、更には海上で、南方中から集まった人々が魔族と交戦を続けていた。
そしてそれ等は全て、僕が魔王を倒す為に集められた戦力なのだ。
それだけの戦力を動かしておいて、少しばかり不利になったからと尻尾を巻いて逃げる程に、僕の自尊心は安くない。
勿論全ての手を尽くしてもどうしようもないのなら、撤退を選ぶ必要はあるだろう。
しかしまだ、僕には打てる手が幾つも残ってる。
「君はこの世界の生命ではないから降伏を認めても良い。勿論異世界に関しての情報は聞き出すが、それは君が死体になっても同じ事だ。我が配下には骸を乗っ取り、情報を引き出せる者も居る」
慈悲深くも降伏勧告をして来る魔王。
その言葉が事実である事は、以前にその様な能力を持った個体、世界樹の守護獣の骸を乗っ取ろうとしていた魔族を見たから理解が出来た。
寧ろ殺して死体を乗っ取った方が、情報も引き出せて僕の身体も使えるのだから、手っ取り早くもあるだろう。
だからその降伏勧告は、魔王の慈悲としか言いようがない。
尤も既に勝った気で慈悲をチラつかされても、負ける気のない僕には腹が立つだけなのだが。
呼吸は潔く諦める。
乱れた呼吸を行う位なら、無呼吸で戦った方が幾分マシだろう。
片肺だけを動かす事も不可能ではないけれど、戦闘しながらそれを行うのは些か手間だ。
幸い僕は仙人なので、無呼吸で活動出来る時間も、常人の比ではない。
新たに外から気を取り込んで練る事が出来ない為、今体内にある気を使い果たせばそれで終いだが、短期決戦を挑む位の間は充分に持つ。
胸を貫かれながらも、放り投げられながらも、決して手放さなかった右手に握った破山を、僕はもう一度構えた。
それを降伏勧告に対する返事と受け取ったのだろう。
四方八方から一斉に魔族の近衛兵達が襲い掛かって来る。
だが僕は敢えて避けず、動かず、魔族が振るう剣を、爪を、牙を、その身体で受け止めた。
勿論無防備に殺されてやる心算は毛頭ない。
硬気功、鋼の如く肉体を硬化させ、全ての攻撃を皮膚で止める。
僕がわざと魔族の攻撃をこの身で受けた理由は唯一つ。
その方が反撃で殲滅が容易いからに他ならない。
ガチンと奥歯を噛み締めて、気を滾らせて剛力を得る。
そして振り回す破山は嵐の如く、群がった魔族を一撃で確実に一体、或いは数体纏めて消し飛ばす。
決着を急いで詰めを誤ったのが僕の失策なら、僕を死に体だと侮ったのが魔王の失策だ。
残念ながら仙人は、常人が思うよりはるかにしぶとい存在だった。
戦えるだけの力は、この身に充分残してる。
故にのこのこと出て来てしまった魔族は、一体たりとも魔王の身体に還らせない。
魔王が配下を外に出さず、万全の状態を保ったままなら、一方的に僕が不利になっただけだろう。
或いは全ての配下を外に出し、僕の処理能力を超える位に飽和攻撃を加えて来たなら、反撃もままならずに蓄えた気が尽きて居たかも知れない。
けれどもこの程度の中途半端な数の魔族なら、傷を負った僕でも充分に滅ぼし尽せるのだ。
当然ながら、完全に無傷で魔族を殲滅し尽せる訳ではなかった。
防御に集中すれば止めれる攻撃も、こちらが攻撃するタイミングで身に受ければ、肉は裂けるし血も噴き出る。
しかしそれでも僕は前に出て、魔族を殺し尽して魔王に向かって破山を振う。
城内で幾度と打ち合った時と同じ様に、魔王の拳と破山がぶつかって、でもその結果はこれまでとまるで違い、魔王は大きく吹き飛んで、僕はその場で揺るがない。
あぁ、間違いなく魔王は軽くなってる。




