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「……ここ、赤く腫れてるね」
とあるタワーマンションの二十七階で、僕は出迎えてくれた師匠の瑛花仙に頬を指で擦られる。
そしてその時に感じる僅かな痛み。
あぁ、つまりとてもマズイ。
恐らくはあの女道士との戦いで、蹴りの一発が頬を掠めていたのだろう。
僕が自分では気付かない程度にほんの僅かで、でも他人から見ればハッキリとわかる程度に、彼女は僕に攻撃を届かせていた。
どうやらあの女道士は、僕が思うよりも少しばかり強かったらしい。
勿論攻撃が届いたと言っても掠めた程度の話。
全然大した事はないのだが、でもそれを師匠に見付かってしまえば話は別だ。
「あぁ、ミン、可哀想に。誰にやられたの? あぁ、怪我したばかりだから、相手は未だ近くに居るんだね? 待ってて、奴がこの辺り一帯を全部吹き飛ばして来るから」
案の定、師である瑛花仙は怒りの言葉を口にして、玄関のドアを潜ろうとする。
いやいやいや。
何時もの事はではあるのだけれど、師匠は僕や自分の友人、つまり所謂身内が、それ以外の他人に害された時の沸点が異様に低い。
この人はやると言ったら本当に、何の躊躇いもなく辺り一帯を吹き飛ばすだろう。
因みに師匠は僕の事を、アキラではなくミンと呼ぶ。
まあでもそんな事はさて置いて、僕は必死に師匠の身体にしがみ付き、行かせまいと止める。
確かに襲撃は受けたけれども、相手はまだまだ未熟な道士だった。
それで僅かでもダメージを受けたのは、間違いなく僕自身が未熟だったに他ならない。
怒るほどの事ではないのだ。
だって僕とあの女道士には大人と子供以上に力の差があって、大人と子供以上に年齢も掛け離れているのだから、怒るなんて大人げないではないか。
そしてそもそもこの辺りに住む人々は、あの戦いとは何の関係もない一般人だらけである。
「ち、違うよ師匠。未熟な道士と遊んであげてただけで、ちょっと勢い良く足が掠めただけなんだ。いや、自分の未熟が恥ずかしいな。ねぇ、師匠、何だか僕、いま少し鍛えて欲しい気分だな!」
僕は苦渋の決断を下して、その言葉をまくしたてる。
師匠の身体からは、何時も通りに花の良い香りがするけれど、それを楽しむ余裕も今の僕にはありはしない。
そう、まさに苦渋の決断なのだ。
僕の言葉に足を止めた師匠は目を細め、じぃとこちらを見詰めた。
きっと錯覚なのだろうけれど、僕は自分の体温が数度下がった様な寒気に襲われる。
師匠は僕への愛情が深くて優しいが、それでも修行となれば鬼と化す。
多分僕は今から、頬の腫れなんて問題にならない重傷、骨折なんて当たり前レベルの傷を、師匠との修行で負うだろう。
勿論その厳しさも愛情の発露で、修行が終われば全ての傷は癒され、優しく労って、良かった所も褒めてくれるのだけれど。
「そう? そっか、ミンがそう言うなら、じゃあ修行にしようか」
そう言って笑顔を見せてくれる師匠に、僕は内心で安堵と、そして僅かな後悔が混じった溜息を吐く。
僕の師匠である瑛花仙は、仙は仙人って意味だから、正しく名前を言うなら瑛花と言う。
元は桜の樹であり、奈良に都が出来る前から生きてるらしい。
さっき師匠にしがみ付いた時に感じた花の匂いは、桜の匂いだ。
現代で一般的に見られるソメイヨシノはあまり匂いのしない品種だが、古代の桜との言い方をすると怒られるが、まぁ師匠はとても上品な匂いのする品種の桜である。
今の人の姿は、男に手酷い扱いを受けて、師匠の枝で首を吊った美女の姿を借りているとか。
その美女、幸薄かった彼女は、桜としての師匠を愛し、とても大事に手入れをしていたそうだ。
故に師匠は愛を注いでくれた人を失った時、復讐の為に妖樹と化し、更に時を経て仙人へと至った。
復讐の為に生まれ、実際に人に害をなした師匠が邪仙とされるのは必然だろう。
大切な人を失い、復讐の為に自我を持った師匠だからこそ、身内である僕や友人に対して害をなす相手への敵意は強い。
だから確かに、瑛花仙は危険な邪仙だと言われれば、それは到底否定は出来なかった。
先程もそうだったけれど、大切な人が傷付いたからと激発する可能性だってある。
でも僕はそんな師匠がとても好きだ。
彼女が激発しなくて済む様に、失う恐怖を味合わせなくて済む様に、自らの身を守れる強さを、或いは肩を並べて戦える位の強さを得る事が、今の僕の目標だった。
……まぁ自分の身を守る強さは兎も角、肩を並べて戦える強さがどんな物なのかは、今の僕には想像も出来ないのだけれども。
師匠は儚げな姿とは裏腹に、その実力は下界で暮らす仙人の中ではTOPクラスだとされてるらしい。
比肩出来るのは師匠と並び数えられる邪仙達位だろう。
瑛花仙に、孔狼、双覇、緑青、凜香と言う四人の邪仙を合わせて、五悪仙なんて風に呼ぶ。
要するに師匠の友人達の事なのだけれど、五悪仙が揃えば下界の仙人を纏めて相手取れるとすら言われてる。
勿論、仙境に籠って下界に興味を示さず修行に明け暮れてる仙人や、天に住むとされる天仙等は師匠達よりも強い筈。
けれどもそんな彼等が下界の出来事に干渉する事はまずあり得ないので、例え上には上が居たとしても師匠達の強さが翳る事はない。
本当に遠い目標だなぁと、そう思う。
僕は師匠との手合わせで何度も床を舐めながらも、それでも目標に少しでも近づく為、四肢に力を込めて起き上がった。
今居るタワーマンションはこの階と上下の階は全て師匠が所有者となっており、更に仙人の住処としての改造も施されてる。
謂わばここは、瑛花仙の洞府と言える場所。
つまりそう、何処からも助けは、もとい修行の邪魔は何処からも入らない。
故に何時も通り僕は意識が途切れるまで立ち上がり続けて、気付けば師匠の膝を枕に寝ていた。
多分最後に僕の意識を刈り取ったのは、顎先へのデコピンだった様に思う。
以前は何をされたかもわからずに意識を飛ばしていたから、それが理解出来た分だけ、少しは前に進んでいるのだろうか。
寝転がったままに見上げる師匠の顔は、僅かに微笑んでいた。
手酷いダメージを受けた筈の身体も、既に癒され痛みはない。
師匠は僕の頭を撫でながら、先程の手合わせで良かった部分を一つずつ挙げ、
「奴が思うに、今の世はね、強さを求めるのに向いてないんだよ」
そして最後に、何処か迷いながらもそんな言葉を口にする。
数百年前なら、少し人里を離れれば猛獣や妖物が向こうから勝手に襲い掛かって来た。
しかし現代では、妖物や猛獣はこちらから懸命に探さねば見つけられない。
「でもミンは、術も使えない人間相手に虐殺は出来ない性分だね?」
つまりは実戦経験を積み難いのだ。
ごくごく単純に気血を蓄えるだけなら、霊地に籠って呼吸をするだけで良い。
日の出から真昼、太陽が天辺に昇るまでの間、増えて行く陽気を空気と共に吸い続け、それから日が沈むまで吐き続ける。
日が沈んでから夜陰が極まるまでの間、増えて行く陰気を空気と共に吸い続け、それから日が昇るまで吐き続ける。
そうして得た気を練って丹を錬成する修行は、別に不都合なく独りでも行えるだろう。
でも気血を蓄え丹を練る事で力を身に付けたとしても、その力を上手く扱う為には実戦経験が必須だった。
勿論その実戦経験には、今日撃退した女道士の襲撃の様な、ぬるい物は含まれない。
師匠と並べる、五悪仙と同格の強さを求めるならば、修行のみならず大量の実戦経験を積む事が必要なのだと、遠まわしに師匠はそう言っている。
思わず眉根を寄せてしまった僕の目を、師匠は手で塞ぐ。
「大丈夫。誤解しないで。奴はミンに虐殺を強いる心算はないから。ちゃんとそんな事をしなくても、経験を積める場は用意してあげるから」
僕は師匠の声に少しだけ首を動かして、頷く。
けれどもその時の僕はとても疲れていたから、そのまま意識を再び眠りに沈めてしまったけれど、後になって思い返せば、この時にもっと師匠の言葉の意味を考えて聞き出しておくべきだったと、本当にそう思う。